終章 時を越えて

最終話 二十年後──

 逆賊の汚名を着せられた慕容ぼよう家はもろかった。皇帝に刃を向ける大逆は、諸侯の勢力が強いかいにおいても禁忌なのだ。せつ皇后は、洸廉こうれんかく太子に施した授業を通して、それを学んでいたのだろう。

 魁の正統な後継者として立った赫太子に、諸侯は──少なくとも表向きは──次々に従った。太子が、監国かんこくとして歳に似合わぬ思慮深さや落ち着きを見せていたことも大きかっただろう。


 むろん、慕容家は右昭儀うしょうぎの子こそが次の皇帝だと主張した。だが、あの祖法が今度は彼らに牙を剥いた。

 魁の皇太子を名乗るなら、どうしてその母親が生きているのか、というわけだ。廃皇后が惨殺された後で、慕容家はその妹までも死なせることはできなかったのだ。彼らが追い詰められ滅ぼされる過程で、右昭儀うしょうぎもその子も命を落としたから、意味のない慈悲でしかなかったのだろうが。


 期せずして、そしてあまりにも幼くして帝位に就いた赫太子を、洸廉は支えた。先帝を諫められなかった癖に、という囁きを無視して。今度はお前が幼帝を操るのか、とそしる者を追い落として。

 彼を本当に操るのは亡き皇后であることを知るのは、幼い主君だけ。その秘密の絆こそが、主従の紐帯ちゅうたいいしずえになった。


 愚帝と傾国の悪女の間の子と後ろ指を指されるこう太子を守り育て、荒れた国土を整え、兵を養い──そうこうするうちに、二十年ばかりが過ぎた。


      * * *


 洸廉の眼前に、大河が悠々と流れていた。書物で読むところの海と見紛う広大な流れの対岸は、もはや魁の領地ではない。歴代の魁の皇帝が欲し、幼い彼が命からがら逃れてきたこうのものだ。


 大河の此岸しがん、国境のきわでは、魁の軍が渡河の準備を進めている。

 水深を測り流れの速さを見極め、輜重が濡れないように整える──兵たちが忙しく立ち働く横で、美々しい鎧をまとった将や従軍する文官は、騎乗したまま策を練ったり鋭気を養ったり、あるいは対岸を眺めて感慨に耽ったりしている。

 二十年前、魁の軍はこの大河に辿り着くことすらなく取って返した。その後も、国内の安定に注力したために外に目を向けることはできなかった。父祖からの夢であった南伐なんばつが、ようやく実現したのだ。


 全軍を率いる将に任じられたこう太子も、彼岸ひがんを眺める者のひとりだった。

 精悍な横顔を見せつつ、陽光に輝く水面に目を細め、対岸の昊のとりでを窺っていた──かと思うと、ふと、傍らの洸廉に顔を向けて問うてくる。


「懐かしいか、それとも憎らしいか、師父しふ?」


 物心つく前から何かと世話を焼かれた洸廉のことを、煌太子は師とも父とも慕ってくれている。

 洸廉のほうでも、畏れ多く僭越せんえつなことながら、我が子のよう、と思ってしまっている。だから、とうに成人して王爵おうしゃくを賜っている御方を、心の中では幼児のようにいみなで読んでしまうのだ。


「さて、どうでしょうか。臣がこうを出たのは四十年も前のこと、記憶もほとんどございませんゆえ」

「ふうん」


 かつてわれた祖国を目の前にして、洸廉の声も表情も平坦なことに、煌太子は意外そうに目を瞠った。

 しばしの間、疑わしげに首を傾げた後──嘘でも虚勢でもないと判断したのだろう、煌太子はつまらなそうに呟いた。


「恨みに思っているのなら、昊の皇族を捕えて奴婢ぬひとして贈ろうと思ったのに」

「その御言葉は懐かしゅうございますな。お父上様も同じことを仰ってくださいました」


 思えば、あのころの先帝は今の煌太子さほど変わらない歳だったはず。彼自身も若かった日々を思い出して、洸廉は静かに笑った。

 言われたほうの煌太子は、嫌そうに顔を顰めるのだが。


隠帝いんていと同じ発想か……」


 煌太子の父、先の魁の皇帝は、隠帝という諡号しごうが贈られた。女に溺れて国を傾け弑された暗君として記録される父帝に、若者が複雑な思いを抱くのは無理もない。


 なお、薛皇后の諡号は壊后かいこうという。国を破壊しかけた、という意味でもあるし、壊には率直に悪い、という字義もある。完全なる悪口だ。

 今上帝きんじょうていとしては不本意な命名ではあっただろう。だが、洸廉としては、あの御方なら笑って喜ぶのではないかと思っている。国史に燦然と悪名を輝かせことは、きっとあの女人の気に入るだろう。


 死者のことは、さておき──


「煌殿下」

「ん」


 師でも親代わりでもなく、遠征の目付け役として、洸廉は改まった声を作った。子供の頃から聞き慣れているであろうお説教の気配に、煌太子の背筋が伸びる。


「南伐の成功は、先帝を始めとした父祖の代からの悲願。泉下せんかのお母上様も、何より皇上こうじょうも心から願っていらっしゃること。決して狩りでも物見遊山ものみゆさんでもないことを、心してくださいますように」

「悲願などと。こうを降したところで隠帝の汚名をそそげるわけでもあるまいに……」


 ふいと顔を背けて不貞腐れたように零す──その、ともすれば子供っぽい仕草。気を許した相手に見せる、甘えるような無邪気な傲慢さ。それもまた、父君にそっくりだということを、この若者は知らない。

 あまり言うと機嫌を損ねるから、洸廉は密かに心の中で懐かしみ愛おしむだけだ。


「だが、兄上のご期待を裏切るわけには行かぬし──壊后の願いというのも、分かるからな」

然様さようでございますか」


 悪名高いという点では、母君である壊后こと薛皇后もまったく劣らぬはずなのに。意外なことを聞いて目を瞠るのは、今度は洸廉のほうだった。


 口うるさい目付け役を驚かせて満足したのか、煌太子は嬉しそうに笑った。そして、馬を巧みに操って洸廉の耳元に口を寄せ、囁く。亡き皇后の願いは、彼らと今上帝、三人だけの秘密なのだ。


「我が身で考えれば分かることだ。兄上や師父を害する者は地の果てまでも追って、討つ。国や法が相手だからと諦めるなら、愚か者か臆病者だ」


 父君に似た明るく快活な笑顔で、母君譲りの情の深さを見せつけられて、洸廉は思わず息を呑んだ。


(ああ、この御方は紛れもなく──)


 あのふたりの御子は生きているのだ、という事実が不意に胸に迫った。血と願いを受け継いだ子が健やかに育って、今、魁の軍の先頭に立っている。なんと不思議なことだろう。


「だから、そんな国は──」


 老い始めた者の感傷など知らぬ若者は、悪戯っぽく、そして強気に笑んだ。皺ひとつない瑞々しい手が剣の柄に伸び、抜き放たれた刃が鋭く銀の光を放つ。


「──滅ぼしてやる!」


 高らかな宣言は、敵国に対するものだと兵たちは受け止めたようだった。若い将に応じて彼らが上げる歓声は、雷のように轟いて空に響く。高揚のままに踏み鳴らす何万という足が、地を揺らす。


 兵たちの意気が、戦意が滾るのを肌で感じながら、洸廉の胸も高鳴っていた。


(もうすぐだ。もうすぐ、魁という国が地上から消える……!)


 二十年をかけたの道のりが、間もなく果てに至るのだ。


 昊を降せば、魁は従来に倍する国土と民を治めることになる。法も官の体制も、これまでと同じというわけにはいかない。そもそも、北方の蛮族の国と蔑まれた魁が、中原に覇を唱えるのはかつてない偉業。かつてなく広く強大な国に、蛮夷の名は似合わない。


 この南伐が成功すれば──


 今や記憶もおぼろになって、ただただ美しく優しく淑やかだった、という印象だけが残る薛皇后の声が、彼に囁く。


『国は、いつまでも同じ名をいただくものではないのでしょう。貴方が教えてくださいました』


 そうだ、国が滅びるとは、灰燼に帰すということだけではない。

 国土の拡大に伴って。宗室の交替を契機にして。異なる神を崇め始めて。様々な理由で、国の名が変わることもある。古い国は史書に残るだけのものとなって、新たな国が語られるようになる。


『魁のことなど誰も忘れて語り継がぬような、輝かしく強大な国を──貴方と赫殿下で築いてくださいますわね? ……煌も、お手伝いできるでしょうか』


 挑発めいた笑みで、あの御方は彼らに託し、示してくれたのだ。何もかもを滅ぼし焼き尽くすだけではない、復讐の道を。すべてを失ったあの時の赫太子に、生きる意味を与えてくれた──とまでは、考え過ぎだろうか。


(信じられた以上は、応えねば)


 遥か彼方の宮城では、今上帝が戦勝の報せを待っている。むろん、まだ勝つと決まったわけではないのだが──


「殿下。まだ渡河してもいないのです。くれぐれも油断なさらぬよう」

「分かっている! さあ──行くぞ」


 軽挙を戒めようとしても、若い血気には効果がないようだった。何より、洸廉自身が、どうしようもなく血が沸き立つのを感じてしまっている。


「御意」


 応えるのとほぼ同時に、全軍が動き始める。その勢いは南北を分かつ大河を越えて、昊を切り裂く刃となるだろう。

 この戦いで流れる血は、もたらされる勝利は、魁の歴史の最後を彩るものになるだろう。否、そのようにしなければ。洸廉は固く決意していた。


      * * *


 父帝の弑逆と内乱の最中に幼くして即位した赫太子は、長じて南伐を成功させた。昊の領土を得て中原を統一した大帝国の名を、彼はたいあらためた。その大いなる功績をもって、彼は武帝ぶていの諡号を贈られた。実のところ、彼の統治は武に偏るものではなく、内政や法の整備にも注力していたのだが。


 平和と安寧を願ったであろう国号は、少なくとも武帝とその異母弟が手を携えて統治に当たった間は実現した。彼らの子孫は、代を経るにつれて争い対立し、帝国は徐々に分裂していく。

 泰から分かれた国は、さまざまな由来を主張してさまざまな国号を名乗ったが、その中に魁という名の国はなかった。また、魁に独特であった皇太子の生母に死を賜る法を継承した国も、ない。


 その理由は、主にふたつ考えられる。

 泰という大帝国の栄光があまりに輝かしく鮮烈であったため、後世の支配者たちはもっぱらその威光を借りようとしたのだろう、というのがひとつ。

 そしてもうひとつは、たったひとりの女によって滅亡に瀕した魁に倣うのは、あまりに不吉だと思われたからだろう、というものだ。


 たったひとりの女──隠帝が国を傾けてまで愛した、壊后薛氏。


 魁国史の后妃伝にいわく。

 壊后薛氏、名を翠薇すいび。夭折した皇太子たんの生母である薛貴人の妹。煌太子を産む。

 容色艶麗えんれいにして振る舞いは婉媚えんび、大いに隠帝の寵幸を得る。

 

 隠帝の南伐に際しては監国かんこく太子を傀儡とし、ついに慕容ぼよう家にそむかれ隠帝と共に弑される。


 生母殺しの祖法そほうについて言及したこと、女性の心情を、それも嫉妬や愛慕以外のそれを記述したこと、いずれも魁の国史においては極めて異例のことである。

 これについては、武帝が祖法を廃止したいがためにその弊害を誇張させたのだろう、という解釈がある。自身もこの奇習によって母を殺された帝王は、二度とその轍を踏ませぬために父の寵妃に悪評を押し付けたのだ、と。

 事実、武帝の後継者の生母は天寿を全うしたし、薛氏の子であり腹違いの弟にあたる煌を生涯に渡って重用したのは罪の意識の表れではないかとも言われる。


 とはいえ、隠帝の後宮で高位の妃嬪の死が相次いだのも、薛氏への過ぎた寵愛が国を傾けたのも紛れもない事実。国史以外の書簡に見える彼女の悪評からしても、後宮を乱したという薛氏の逸話は真実であった可能性が高い。ならばその動機も事実と推定するのもさほど飛躍してはいないだろう。


 武帝は魁の皇帝として即位したが、一般には泰の初代皇帝と認識される。ということは、隠帝こそが魁の最後の皇帝であり、薛氏は最後の皇后であったとも言える。彼女は、魁を滅ぼしたのだ。


 恨みを糧に、美貌を頼りに皇帝の寵愛をつかみ取り、宿願を果たして燃え尽きた──その時代の趨勢すうせいに背き抗い、天地に仇を為すかのような。その女の生涯は、まことに数奇なものであったと言えるだろう。

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