第3話 一夜明けて

 絳凱こうがいは、ひと晩かけて翠薇すいび

 慰めた──というかむさぼったのか、あるいは亡き寵姫とのを喜んだのか、翠薇には分からなかったけれど。たぶん、大した違いはないのだろう。


 重要なのは、一夜にして翠薇の立場が変わったということだ。

 奴婢ぬひであったもの。皇太子の生母の妹。その縁で後宮に居場所を許されたもの。けれど、姉も甥もすでにこの世にはいない。

 そんな、訳の分からない中途半端な立場から、皇帝の寵を受けた女になった。


(一夜の戯れに過ぎないのかどうか──皆、気になっているのでしょうね)


 記憶にある限り初めて、人にかしずかれて身体を清められ髪を梳かれて服を着せられる、という体験をしながら、翠薇は周囲に視線を配り、耳をそばだてた。


皇上こうじょう、こちらはくりやから離れておりますので、お待たせして申し訳もございませぬ。間もなく毒見も済みますゆえ──」

「構わぬ」


 皇帝たる者が、急に寝所しんじょを変えて妃嬪ひひんではない女とねやを共にした。当然、翌朝は朝餉あさげや着替えを運ぶ必要も出てくる。

 皇帝の近侍の宦官かんがんなどは、突然に仕事を増やされたことに不服げな表情の者もいるようだ。とはいえ、いまだ絳凱に抱き寄せられた格好の翠薇をあからさまに邪険にする蛮勇の持ち主は、さすがにいない。


「どうなることかと思ったが──」

「首が繋がったかもしれぬ」


 ひそひそと囁く声も、決して悪意があるものではない。

 常よりも殿舎を行き交う人の数は大幅に増えているから、聞き分けるのに多少、苦労はするけれど。皇帝の前で密談する者がいるはずもないから、大まかな雰囲気が感じ取れれば、とりあえず良い。


「翠薇様のお陰──いいえ、婉蓉えんよう様のご加護ですね」


 翠薇と共に姉の殿舎を守っていた者たちについては、おおむね悲しみと安堵が相半ばした気配を漂わせている。丹の死を悼みつつ、彼ら彼女らに罰が及ぶことはなくなったのを察して、ということだろう。


 いずれも、人の感情としては自然なものだ。丹の死がごく軽く受け止められ、早くも忘れられそうでさえあるのは、腹立たしいことではあるけれど。人は、我が身を一番に考えるものだからしかたない。


(でも、ほかの者と違うことを考えている者がいるはずよ)


 ナツメハスの実を散らした贅沢な粥を味わう余裕もなく、翠薇は目と耳に神経を集中させていた。


「──悲しみに心あらず、といったところか? 哀れなことだ」

「は、い……?」


 だから、不意に頬に手を添えられて、覗き込まれて、咄嗟に答えることができなかった。姉を死なせた男──絳凱に触れられているという事実に、頭がついていかなくて。


(……どうして私を哀れむの。何よりも丹を悼むべきでしょう……!)


 じわじわと込み上げる怒りを隠す必要は、けれどなかった。彼女の言葉など、求められていないようだったから。

 絳凱は、目に哀れみの色を浮かべたまま、ふ、と微笑み、翠薇の額に口づけた。硬い掌が彼女の頬を撫で、逞しい腕が名残惜しげに彼女の背に回る。


「……丹の葬礼を整えねばならぬ。義母はは上にもはからねば。しばし、傍にいてやれぬが、は必ず捕らえて罰するゆえ──」


 待っていてくれ、と。言うだけ言って、かい国の皇帝は去っていった。翠薇の強張った身体にもあわ立った肌にも、ついぞ気付かないままで。


      * * *


 眠ったままのようでいて、けれどもはや決して目覚めない丹の顔を眺めて。そしてしばし泣いてから、翠薇は自室で休むことにした。

 丹が倒れて以来、荒れ狂う嵐のような感情に心は翻弄されていたし、昨晩は絳凱によって肉体も蹂躙された。何も考えずに眠ることができたら、どれほどの幸せだっただろう。でも──安らかな夢は翠薇にはまだ遠い。


「翠薇様。何かご入用なものは──」

「何も要らないわ」


 宮女も宦官も、彼女の機嫌だか体調だかを伺おうと浮足立っていたけれど、翠薇はその中のひとりだけに声をかけた。


「──桃花とうか。皇上にお菓子を賜ったの。一緒にいただかない?」

「え、ええ。ありがとうございます」


 桃花は、翠薇とさほど歳の変わらない娘だった。妃嬪ひひんのいない──つまりは皇帝に見初められる期待の持てないさびれた殿舎に送られた割に、腐らずよく働いてくれていた。

 翠薇と喋ることも多かったから、話し相手に選ぶのはさほど不自然ではないはずだった。なのに、桃花は誰かに助けを求めるように、おどおどと視線をさ迷わせている。


(分かりやす過ぎる。まだ何も言っていないのに)


 あからさまな挙動不審ぶりはあえて指摘せず、翠薇は風炉ふうろで湯を沸かし、塩と茶葉を投じた。菓子を賜ったのは嘘ではないけれど、味わうことはできるだろうか、と思いながら。


 翠薇が切り出したのは、茶葉に混ぜた陳皮ちんぴの香りが漂い始めてから、やっと。沈黙によって首が絞められる思いを、桃花が味わい始めたころになってからだった。


「顔色が悪いわ。眠れなかったの?」

「は、い……太子様のことが、お可哀想で」


 考える時間をやったのに、そのていどの言い訳しか出てこないのだ。呆れによって、翠薇はほんの少しだけ嗤った。


(ずっと看病で眠れなかったでしょうに。から……今なら、やっと眠れるはずだったのよ)


 ほかの者は、丹の容態を見つめなくて良いことに安堵して気を緩めたはずだ。皇太子の死の責を負うことを、恐れていたかもしれないけれど──その懸念も、翠薇によって拭われた。


「丹のことを想ってくれたの? ひと晩中?」

「あの。とても、お辛そうだったから……」


 今もまだ眠れぬ夜を過ごすとしたら。に怯える風情を見せるとしたら。その者は、ほかの者とは違う立場に身を置いているのだ。同輩たちを安堵させた状況の変化が、その者にとっては窮地に陥れられたことにほかならないのだ。


 例えば、皇太子の死にがいることになったこと。皇帝が、突如、真相の追究に乗り気になったこと。それらの事態を恐れる者が何をしたのか──考えるまでもなく明らかだ。


 桃花は、目を合わせるのが耐え難いと言わんばかりに顔を背けようとした。でも、もちろん翠薇は許さない。顎を掴んでこちらを向かせると、満面の笑みで問いかける。


「お前が毒を盛ったのにそんなことを言うの?」


 皇帝が犯人を捕らえると宣言した時、この娘は今にも倒れそうな絶望の表情を浮かべていたのだ。

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