第3話 一夜明けて
慰めた──というか
重要なのは、一夜にして翠薇の立場が変わったということだ。
そんな、訳の分からない中途半端な立場から、皇帝の寵を受けた女になった。
(一夜の戯れに過ぎないのかどうか──皆、気になっているのでしょうね)
記憶にある限り初めて、人にかしずかれて身体を清められ髪を梳かれて服を着せられる、という体験をしながら、翠薇は周囲に視線を配り、耳をそばだてた。
「
「構わぬ」
皇帝たる者が、急に
皇帝の近侍の
「どうなることかと思ったが──」
「首が繋がったかもしれぬ」
ひそひそと囁く声も、決して悪意があるものではない。
常よりも殿舎を行き交う人の数は大幅に増えているから、聞き分けるのに多少、苦労はするけれど。皇帝の前で密談する者がいるはずもないから、大まかな雰囲気が感じ取れれば、とりあえず良い。
「翠薇様のお陰──いいえ、
翠薇と共に姉の殿舎を守っていた者たちについては、おおむね悲しみと安堵が相半ばした気配を漂わせている。丹の死を悼みつつ、彼ら彼女らに罰が及ぶことはなくなったのを察して、ということだろう。
いずれも、人の感情としては自然なものだ。丹の死がごく軽く受け止められ、早くも忘れられそうでさえあるのは、腹立たしいことではあるけれど。人は、我が身を一番に考えるものだからしかたない。
(でも、ほかの者と違うことを考えている者がいるはずよ)
「──悲しみに心あらず、といったところか? 哀れなことだ」
「は、い……?」
だから、不意に頬に手を添えられて、覗き込まれて、咄嗟に答えることができなかった。姉を死なせた男──絳凱に触れられているという事実に、頭がついていかなくて。
(……どうして私を哀れむの。何よりも丹を悼むべきでしょう……!)
じわじわと込み上げる怒りを隠す必要は、けれどなかった。彼女の言葉など、求められていないようだったから。
絳凱は、目に哀れみの色を浮かべたまま、ふ、と微笑み、翠薇の額に口づけた。硬い掌が彼女の頬を撫で、逞しい腕が名残惜しげに彼女の背に回る。
「……丹の葬礼を整えねばならぬ。
待っていてくれ、と。言うだけ言って、
* * *
眠ったままのようでいて、けれどもはや決して目覚めない丹の顔を眺めて。そしてしばし泣いてから、翠薇は自室で休むことにした。
丹が倒れて以来、荒れ狂う嵐のような感情に心は翻弄されていたし、昨晩は絳凱によって肉体も蹂躙された。何も考えずに眠ることができたら、どれほどの幸せだっただろう。でも──安らかな夢は翠薇にはまだ遠い。
「翠薇様。何かご入用なものは──」
「何も要らないわ」
宮女も宦官も、彼女の機嫌だか体調だかを伺おうと浮足立っていたけれど、翠薇はその中のひとりだけに声をかけた。
「──
「え、ええ。ありがとうございます」
桃花は、翠薇とさほど歳の変わらない娘だった。
翠薇と喋ることも多かったから、話し相手に選ぶのはさほど不自然ではないはずだった。なのに、桃花は誰かに助けを求めるように、おどおどと視線をさ迷わせている。
(分かりやす過ぎる。まだ何も言っていないのに)
あからさまな挙動不審ぶりはあえて指摘せず、翠薇は
翠薇が切り出したのは、茶葉に混ぜた
「顔色が悪いわ。眠れなかったの?」
「は、い……太子様のことが、お可哀想で」
考える時間をやったのに、そのていどの言い訳しか出てこないのだ。呆れによって、翠薇はほんの少しだけ嗤った。
(ずっと看病で眠れなかったでしょうに。終わったから……今なら、やっと眠れるはずだったのよ)
ほかの者は、丹の容態を見つめなくて良いことに安堵して気を緩めたはずだ。皇太子の死の責を負うことを、恐れていたかもしれないけれど──その懸念も、翠薇によって拭われた。
「丹のことを想ってくれたの? ひと晩中?」
「あの。とても、お辛そうだったから……」
今もまだ眠れぬ夜を過ごすとしたら。何かに怯える風情を見せるとしたら。その者は、ほかの者とは違う立場に身を置いているのだ。同輩たちを安堵させた状況の変化が、その者にとっては窮地に陥れられたことにほかならないのだ。
例えば、皇太子の死に犯人がいることになったこと。皇帝が、突如、真相の追究に乗り気になったこと。それらの事態を恐れる者が何をしたのか──考えるまでもなく明らかだ。
桃花は、目を合わせるのが耐え難いと言わんばかりに顔を背けようとした。でも、もちろん翠薇は許さない。顎を掴んでこちらを向かせると、満面の笑みで問いかける。
「お前が毒を盛ったのにそんなことを言うの?」
皇帝が犯人を捕らえると宣言した時、この娘は今にも倒れそうな絶望の表情を浮かべていたのだ。
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