八章 受け継がれる思い
第1話 傾国の皇后
廃皇后の亡骸を実家に返還する役を負ったとある王は、その場で宮城に
やつれ果てた娘の、恐怖と苦痛に歪んだ死に顔を見て激昂した慕容家に八つ裂きにされることを恐れたからだけではないだろう。
その王が本当に恐れたのは
彼女の
これまで黙って殺されてきた后妃の中からそのような女が現れるなど、考えたこともなかったはず。だからこそ恐れ、嫌悪し、排除しなければならないと決意したのだろう。
後宮の奥にいてさえ、皇宮を取り囲む不穏な気配が肌を刺すのがありありと分かる。どこから伝え聞くのか、宮女や宦官が囁く噂話が、外の様子を教えてくれる。
あの日、あの場にいた者たちは何が起きたかを声高に吹聴した。
曰く、
あの女を至尊の地位に留まらせてはならない。皇帝が
慕容家も、娘を殺された恨みを声高に言い立てて世の同情を買い、支持者を増やした。反逆ではない、目的は翠薇だけだと言いつつも、大軍が皇宮を取り囲む様は、知らぬ者が見れば紛れもなく内乱でしかないだろう。
大仰な言われように、当の翠薇としては苦笑を禁じ得ないのだけれど。
(女子供に手を
廃皇后の惨殺を止められなかった、彼らの過失を覆い隠すためにこそ、ことさらに翠薇の悪を強調しなければならないのだろう。
兵を集めて皇宮を目指す者たちが、何を考え何を正義に掲げるかはどうでも良い。主張の些細な差異によって衝突し合い、消耗し合うであろうことは目に見えているし、それもまた翠薇の予想の裡だ。
皇帝の不在の間に、魁はめでたく諸侯の勢力争いの場になった。そうして滅びに向かって行けば良いのだ。
* * *
とはいえ、何も驚くことはない、すべてが翠薇の掌の上──と言い切ることはできなかった。
「私の短慮が招いたことだ。
翠薇の実子である煌は、赤子に戻ったように泣いてむずかることが増えた。事態が理解できない幼児ながら、不穏な気配を感じ取ってはいるのだろう。
後宮の最奥、
この子供とふたりだけで向かい合うのは、これまでもよくあることだった。けれど、あのようなことがあった以上は、もう二度とないだろうと思っていたことでもあった。
「殿下は、
父帝に対して不甲斐なさを噛み締めるのは分かるとしても、彼女や煌までも気遣ってくれるのが不思議で、翠薇は首を傾げた。
廃皇后を手にかけたのは、間違いなく赫太子自身の意志だ。
実母が病気だと聞かされていたころも、一切の見舞いさえ許されないのはいったいなぜか、ずっと考え、疑い悩んだいたことだろう。死を告げられた時は、嘆き悲しみつつも安堵した風情もあって、驚いた様子はなかった。だから、密かに亡くなっていたこと自体は察していたのだろう。
けれど、母の死を企図した何者かがいると知らされれば話は別だ。
何年にも渡って積み重なった思慕や寂しさや疑念が、一瞬にして怒りと憎しみに染め上げられて廃皇后に向かった──それは、愛する存在を奪われた時のごく自然な反応だ。だから決して、翠薇に操られたわけではない。そのような考えは、太子の母に対する思いを踏み躙るものだ。
(でも、篭絡されてはいるでしょう?)
生母殺しの祖法を知れば、翠薇の内心も知れるだろうに。そもそも、魁を滅ぼしたいと嗤った時に、太子は彼女に支えられていたのだ。姉と甥の復讐のために取り入ったのだと、察しても良いだろうに。翠薇だとて、生母の死を隠していた者のひとりなのに。
なのに、どうして。この少年は翠薇に親しく呼び掛けて、腹違いの弟を懸命にあやすのだろう。責めることも、恐れて嫌うこともなく。ただ、悲しげな眼差しで微笑むだけで。
「翠薇も、考え抜いたのだな。姉君も……亡くなった兄上も。大切な方、だったのだな……?」
「はい。この上なく。皇后の位より、魁の国よりも、よほど」
赫太子が何を考えているかは、分からないけれど。初めて零れた本心は、舌にひどく甘く感じた。
大好きだったのだ。姉のことも、甥の
ふたりのことを知る者はもう少なく、皇帝にも、機嫌を損ねさせまいと思うとあえて言うことはできなかった。心の中で思い返す時も、今となっては奪われた怒りと憎しみと悲しみに覆われてしまっていた──混じりけのない、大切、という想い。
(……私も、まだこんなことが言えたなんて)
それこそ子供のような無邪気なことを口にしてしまって、翠薇は思わず指先で唇を抑えた。彼女には不釣り合いな感情だと思ったから。
戸惑う翠薇を、赫太子は抱き締めた。いつものように抱き着いて甘えるのではない。子供の小さい身体でできる限り、包み込もうとしてくれるかのようだった。
「誰もが翠薇を恐れて悪く言う。けれど、それなら私も悪だろう。殺された、奪われただけやり返したいと思ってしまった。父上から預かった国のことも慕容家の怒りも、あの時はどうでも良いと思ってしまったのだ」
「……ええ。分かります。とても、よく」
廃皇后を切り刻んだ高揚に満たされたのは、ほんの一瞬だったのだろう。赫太子は、それでも母は戻らないのだと思い知ったところなのだ。翠薇自身も辿った道だから、太子の心の揺らぎは手に取るようによく分かった。
(私と同じことをした、私よりも優しい子。可哀想に)
だから国を滅ぼそう、と考えた翠薇と違って、赫太子は自らの行いが招いた結果に恐れおののいているらしい。だから翠薇を責めるよりも、同意と慰めを求めて縋るのだ。そして同時に、彼女のことを案じてくれる、のだろうか。
「それだけ悲しくて辛くて、悔しいことですもの。そう思うのは──当然です」
語り掛けながら、翠薇は太子の震える背を撫で続けた。そんなことをしても、宮城を諸侯の兵に取り囲まれた状況は変わらないだろうに。
ただ──翠薇の心は、少しだけ軽くなったかもしれない。胸に荒れ狂う恨み辛みや悲しみ怒りを、思いのままにぶつけられる相手がいれば、何かが変わっていたのかどうか。今さら問うたところで、何の意味もないことではあった。
* * *
変わらないと言えば、
とはいえ、翠薇をまだ皇后として遇するのは不可解だった。不満も不信も、さぞ溜まっていることだろうに。先日は、礼儀もかなぐり捨てて怒鳴りつけてきたというのに。この男はまだ事態を収拾しようと努力を続けているらしい。
「
「そうですか」
心のこもらない相槌に、李洸廉は露骨に顔を顰めた。この辺りは、余裕がなくなってきているようではある。が、いっぽうで、翠薇の言葉にいちいち構わないと腹を括ったようでもあった。
「さすがに、皇上も引き返さざるを得ないでしょう。貴女様を救うためだけではなく、皇帝の権威をもって乱を鎮めていただかねば。……それまでに、どれほど犠牲が出るか分かりませんが!」
「ご苦労なことです」
正直に言って、この男は何もかも投げ出して出奔して良いと思うし、そこまでせずとも、保身に
(皇帝に命令されたから? 私に何かを期待しているの?)
これまでの諸々があった上で、翠薇の感謝なり好意なりが欲しいのだとしたらかなり変わった趣味をしているけれど。この男の本当の望みこそ、わけが分からなくて計り知れない。
(最後の最後で、邪魔をされたくはないのだけれど)
相手の内心を見透かそうと、顎に指を添えて目を細める翠薇に構わず、李洸廉はずいと膝を進めた。
「怯えた民が叛徒と内通する恐れがございます。身の安全と引き換えに、城門を開け軍を引き入れようとするかも──というか、すでに幾つかの企みを事前に取り押さえました」
では、城内の民のいくらかが処刑されたのだろう。その場を見届けたのかどうか、李洸廉は一瞬だけ顔を顰めた。その上で、だから、と続ける。
「貴女様と太子様がたを、密かに後宮から落とし
翠薇たちの救出のために、絳凱は叛徒と正面からぶつかりかねない、と危惧しているのだろう。妥当な懸念だ。
(私たちが後宮に留まっているように見せかければ、敵を宮城に引き付けておける。後背を突くこともできる──ということなのかしら)
皇帝の権威を振りかざすだけでなく、初手で敵に痛手を負わせることができるかもしれない策でもあるのだろう。その有効性を理解した上で、翠薇はにこりと微笑んだ。
「嫌、でございます」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます