第22話 名峰アクメッド・シェリフ
深夜を過ぎてもイズンは眠りにつかず、俺達は彼女を残して眠りについた。
ラヴィランの港に着いたのは日の出から少し経ってからだった。
荷物をまとめてイズンが居た部屋を覗く。月明りを呼んでいた丸い窓には朝日が差し込んでいたが、ぽつんと置かれた椅子の上に少女はいなかった。
停泊を告げる声が聞こえ、ロビーに人が集まってくる。
しばらくして、人の列が流れ始めた。荷物を担いで後ろを見やると慌てて荷物を持ちあげるヴェローナが見えた。
群衆の流れに沿って可動橋に至る。空が開けたが、群衆のせいで辺りを見ることは出来ない。
やがて下り階段に差し掛かった。前方の頭が下に沈み、視界が開ける。
絵画のような光景が映った。
紺色の湾にヨットが揺れている。それは湾の表面を撫でるように対岸へと進む。
対岸には樹海が広がっている。朝もやに溶かされた木々たちは柔らかな朝日に照らされている。まるで幻想のような深い森はなだからかな勾配をつけ、そして、白い雪をたたえた死火山に行き付いた。
「わぁ」
後ろにいたヴェローナが思わず声を上げる。二人して少しばかりその山を眺めていたが、自分達を避けて流れる人波をみて慌てて階段を降りた。
少し歩いて、ちょうど座れるベンチを見つけた。街並みに隠されて樹海は見えなかったが、火山はその異様ともいえる高さでこちらを見下ろしている。
二人でベンチに座り、山の一つ一つを見つめる。白い雪の筋、ざらざらとした山肌、均等な美しさを持ったその山容。
名峰、その言葉がふさわしい山だと思った。
ラヴィランは大陸の宗教であるムーラ教の宗教都市である。
かつて神々の土地と呼ばれめったに人が立ち入らなかったスローイアに宣教者たちが降り立ったのは今から百年ほど前、カスタロフカでの布教に死力を尽くしたハサネイン・オールという宣教師の、たっての願いだった。
彼の銅像はラヴィランの外港であるコクネセ島の中央通りに、北の方角を指さして建てられている。指さす方角にあるアクメッド・シェリフ山を見て彼は何と言ったのか、銅座には特に書いてい無い様だ。
コクネセ島から橋を渡り南方の三角州に辿り着くと、そこがラヴィランの中心市街である。市街は大まかに二つの街区に分かれている。エスフェルト大聖堂を中心に三方へ延びる大通りが整備されたエスフェルト、そのエスフェルトを防波堤のように囲う三つの島々の総称であるクルトナ。どちらも商人が多いが、特にエスフェルトには有力商人の邸宅が軒を連ねているとのことだった。
俺達はエスフェルト大聖堂へ続く大通りを右に逸れ、クルトナの東区を探索した。
歩いていくと雑貨屋、八百屋、肉屋など色々あるが、間に民家が挟まれていたりしてまとまりはない。木が豊富だからなのか丸太小屋が家屋の主流のようで、重厚感のある丸太が通りの両端を埋め尽くす様には、整然とした美しさを感じられる。
俺は雑貨屋でラヴィランの地図を買った。ヴェローナに欲しいものはないかと聞くと、世界地図が欲しいと返される。
「宿で眠る前に、眺めたいんです」
世界地図は雑貨屋の奥にあった。世界地図といっても未発見の場所も沢山あるわけで、地図作成者の分だけ様々な形の世界が描かれた地図が刷られている。
ヴェローナはそれらの中から一枚の地図を選びだす。その図は未発見の場所についても海岸線や地形が描きこまれていて、いくら見ても飽きなさそうだった。
ある程度東区を回ったところで引き返し、今度は西区に向かって歩みを進める。
西区は東区に比べても民家が多かった。大通りでは牛馬や人の往来に混じり、小さな子供たちが鬼ごっこや縄跳びをして遊んでいる。
ふと、道沿いの木陰に佇む少女と目が合った。そのまま大通りを歩いていくと、彼女は木に隠れてひょっこりと顔を出し、そして引っ込める。俺達が木の傍に近づいて覗くと、彼女は満足そうに微笑んで路地を駆けていく。
軽い音を立てる土、揺れる赤い髪、路地の先には青い海が広がっている。
海沿いに一軒の喫茶店があった。
景色を見ようとテラス席に着くと、しばらくして店員がシフォンケーキと、筒状の容器を置いた。容器には茶葉が浮かんだ紅茶が入っており、長い持ち手のついた蓋が上から被せられている。
ヴェローナと目を合わせると、店員も気づいたようで解説をしてくれる。
容器はティープレスというらしい。ある程度蒸した後に蓋の持ち手を押すと、蓋が沈んでいき茶葉を容器の下に押し込んでいく。蓋はフィルターになっているから、茶葉の混じっていない透明な紅茶だけが抽出されていくのだ。
「いい景色ですね」
店員に話しかけると、彼はこくりと頷く。
「冬になると、また違った美しさがあるんですよ。辺り一面雪に覆われて、この湾はもっと濃い色になるんです。早朝にはアクメッド・シェリフが海に反射して……わざわざそれを見るためにここに泊る方も多いんですよ」
「ここは宿もやっているのか」
「ええ、自分で言うのもなんですが結構好評なんです。今日の宿が決まっていないのでしたら、是非」
店員が引っ込み、俺は腕を組んで先ほどまで来た海岸線を眺めた。白い砂浜が緩やかな弧を描き伸びている。遠くに母子がおり、ボールを投げて遊んでいる。波が寄せて返す音がその背景音楽として流れている。
「朝、ここで歩いたら気持ちいいでしょうね」
「……同じことを思っていた」
「わぁ、じゃあ決まりですね」
ヴェローナがほほ笑む。
さっそく店員に空き部屋を確認すると、空いているとのことだった。少し高いが一泊ぐらいはいいだろう。まだ早いので改めてチェックインすることにした。
さて午後からどうするかという話だが、行き先には見当があった。
クルトナの東区からさらに東方に橋を渡ると、ハープサルという地区に出る。ここはつい三十年ほど前に温泉が湧いたことで開発が進み、規模が大きいわけではないが温泉街が形成されているらしい。
橋を渡り、ハープサルに入る。ハープサルの玄関口は石畳で舗装されていて、人力車が脇に幾つか止められていた。どうやら街の名所を紹介しながら案内をしてくれるようだ。中年の夫婦が車引きの男に声を掛けられている。
そのまま大通りを抜けていく。左右には幾つもの土産物屋や名産が売られている。客引きはいないが、どこの店も人で溢れ、大通りは人の波が出来ていた。
「手を繋ぎませんか」
ヴェローナが言う。
「どうして」
「その、はぐれてしまいそうで」
右手を出すと彼女は左手でそれを握る。ヴェローナの手は少し汗ばんでいてそれが滑り止めのように手の中で引っ掛かる。
商店街を抜けると公衆浴場が見えてくる。公衆浴場は本館が一つ、別館が二つありそれぞれ少し離れたところにある。どこでも泉質に変わりはないが、本館は特に人気がある。
本館は玄関棟と中央棟、そして左右に棟を持つ。玄関棟以外には浴室があり、それぞれ趣向をこらした装飾がなされている。対して別館は浴室が一つしかなく室内の装飾も少なく殺風景であるらしい。
当然俺も本館で熱い湯に浸かることを考えて胸を躍らせていたのだが、玄関棟の前に行くとどうもそれが無理そうだということがわかった。
玄関棟の前には看板が置かれていてそこには整理券を発行していることが書かれている。ただそれにしては行列が出来ていたりということがない。係員の老人に確認すると今日はもう整理券を配り終えてしまったということだった。
別館の方にも行ってみたが、ここも同様だった。スローイアでは今日が祭日かなにかだろうか。
優美な意匠で彩られた玄関棟を恨めしく眺めた後、ハープサルを後にした。
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