第29話 優しい人

翌朝、俺達は山を登った。一面青々とした草花が溢れ、その中を山道が蛇のように這っている。青々とした空が少しだけ近づいてくる。

頂上にはベンチが幾つも置かれている。それらは皆ミスラタ海へと足を伸ばしており、横一列に整列していた。

ベンチはどこもふさがっている。俺達はベンチの間で二人横並びになりながら目下の景色を眺める。

ルミナは夜とは違った姿を見せていた。街を埋め尽くす住宅の朱い屋根が、斜面にそって波打つように広がっている。その鮮明な赤は海の透き通るような青色との対比でより明るさを増していた。

港湾には幾つもの船が停泊し、主人の帰りを待っている。山から伸びる一本道はやがて大通りに変わり、馬車と人と、全てが朝のぬくもりの中で体を起こそうとしている。俺は一言も発さずにその景色を眺めた。ヴェローナも、周りにいる人たちもそうだった。


教会の尼に地図を見せてエマルムードの首都に行く道を教えてもらう。彼女は素っ気ない態度で、ただ正確に地図を指でなぞる。

指はまず東方へ少し動き、大河に出くわしたのち一気に北上する。つまり船を使うと言うことだ。

「ご不満?」

尼の言葉は俺ではなく、ヴェローナに向けられていた。

「その、これまで船ばっかりですから。えと、出来れば歩きたいかなと……」

「歩きたいなんて変な人ね。それじゃあ……」

尼は指を先ほどの半分ほど東に動かした後、北方へ動かす。

「船の運賃を渋る人はよくここを通るの。湖の業者は結構吹っ掛けてくるから」

「宿はありますか」

俺が聞くと、尼は人差し指を側頭にあてる。

「さあどうだろう。私が通ったのも何年も前だから。その時も、ご厚意で泊まらせていただくことも多かったし」

つまり宿の確保は不透明ということになる。昨日の反省も踏まえると、あまりそういった所を通りたくはない。

俺は地図をじっくりと見る。エマルムードの首都まではルミナの背にある丘以外は穀倉地帯のようで、イラクサのように小都市が点在しているわけでもなさそうだった。

だが確かにヴェローナの言い分も理解できる。エスファラーイェンからラヴィラン、ラヴィランからルミナと船で移動してきたが、カラカトからエスファラーイェンまでの距離がたった一日で終わってしまうことになんとなく面白く無さも覚えていたのだった。

取り敢えず尼に礼を言って、噴水のある広場でベンチに腰を下ろす。

「ごめんなさい。私、わがまま言って」

ヴェローナが太ももに手をついて言う。

「いや、俺も船旅は苦手だ。歩いていくのもいい。ただ天幕や寝袋はあったほうがいいかもしれないな」

俺達はそれらしいものが売っている店を探してルミナの街を歩く。

昨日歩いた飯屋の通りは裏手になっていて雑貨や家具なんかが売られている。表の通りほど賑やかではないが幾つもの露店や看板は華やかで目を引いた。

俺達は小さな店に入る。そこはサラフスの遊牧民族であるラボバが経営する店であり、彼らの簡易な天幕や寝袋、アクセサリー、携行食なんかが売られていた。

ヴェローナと相談して簡易天幕一つと寝袋二つ、そして携行食を買う。店員の訛りはきつかったがなんとか聞き取ることが出来た。

バッグパックに加えて寝袋と天幕となると重量はそこそこ増えていく。ヴェローナが天幕と自分の寝袋は持つと言うのでそこは甘えて渡す。

俺はルミナの背にある山を見た。山を抜けて途中までは街道沿いに宿がある。問題は川へ向かうルートから分岐したところだ。

せっかくの天幕だから使いたい。ただ野宿をしたくない。そんな矛盾した気持ちがあった。


山を抜けると、緩やかな丘陵地帯が姿を現す。丘は小麦畑で埋め尽くされており、黄金の穂は風に揺られて波打っている。

丘は起伏が大きく何度も休憩するはめになる。道の脇で周囲の景色を眺めていると、遠くに来たもんだと実感する。俺は間違いなく別の国にいるのだ。

夕暮れ前には宿屋についた。ここから少しいけば道は二つに分かれることになる。天気が悪くなっていたのもあり早々とチェックインを済ませ眠ることにした。

翌朝、昨晩の雨でぬかるんだ道を歩いていく。分かれ道を左方に曲がり、畑を突っ切っていく。

途中、馬に乗った父子がすれ違った。俺達が脇によると父に抱えられた子供がこちらに手を振ってくる。俺達は手を振り返し、遠く彼らが離れていくまで見送る。

時間も時間なのでそのまま昼飯にすることにした。

「私達にも馬があればいいのに……」

「乗馬できるのか」

「私、結構うまいんですよ?」

「いいな。俺は親父に言われて何度も練習したけど、結局乗れず終いだったから」

「じゃあ、馬に乗る機会があったら私が手綱を握ってあげます。さっきの父子みたいにイゼットさんを前に乗せて」

「……それはなんだか恥ずかしいな」

ヴェローナが小悪魔のようにほほ笑む。俺は顔を背けて昼飯を取り出す。

ルミナで購入した携行食はクルトといい、ラボバの保存食の一つだという。色は白く形は丸く、葡萄のような大きさと形をしている。

いざ口に含むと非常に硬い。また酸味が強く、すぐに口から離してしまう。

ヴェローナを見ると同じように口から離している。彼女はしばらくクルトを見つめた後、意を決して口に放り込む。俺もまねて口に入れ、何とか消化する。

しばらくそうやって気の休まらない昼食をしていると、ヴェローナが顔を上げて口を開く。

「イゼットさんのお父様はその、どんな方なのですか?」

「『親父』って感じだ。厳しくて口が悪い。怒らせると本気で蹴りを入れてくるから、何度も泣かされていたよ」

「それは、ひどいです」

「いや、俺が悪いところも多々あった。さっきの乗馬もそうだが、武術もろくにできないし、勉強は人並み。富農の長男としては良いところなんてなかったからな」

ヴェローナはうつむいていた。黄金の麦をまとった風が西方に吹いている。辺りには集落のようなものはなく、野宿も考えないといけなさそうな風景が続いている。

「イゼットは、優しいです」

「え?」

「優しいです。私が出会ったどの男の人よりも優しいです。それじゃ駄目ですか?」

「いや、その」

「『逃げよう』って言ってくれました。私を旅に連れて行ってくれました。……良いところが無いなんて嘘です。過去にトラウマがあるなら私、イゼットと同じことを言います」

ヴェローナは手を差し出す。

「私と一緒に逃げてください」

その手を握っていいのかどうか。俺にはわからなかった。

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