第30話 舞踏会への誘い
丘陵地帯を抜けて、耕作地の広がる平原に出る。
相変わらずすれ違う人もまばらで、家々も互いの距離を置くように散在している。
木造橋の架かった小川が見えてくる。俺達は川の土手で今日何度目かの休憩を取ることにする。
日は傾き夕暮れ時を予感させる頃合いになってくる。宿探しは諦めてここで野宿するのもいいかもしれない。あたりには集落という集落もないし、保存食も含めて野宿の準備はしっかりしてきたつもりだ。
俺は土手を降り、小川の水をすくい上げる。青く透き通ったそれは手桶をするりとこぼれていく。俺はもう一度水をすくい、顔にかける。不思議と川水の生臭さは感じない。
土手を見上げるとヴェローナは割座のまま干し芋をつまみ、ぼうっとしている。恐らく眠いのだろう。どこか一目につきにくく、街道に近い場所で天幕を張ることが出来ればよいのだが。
そんなことを考えながらもう一度川へ向き直ると、何かがこちらへと流れてくる。
赤いリボン。拾い上げて上流を見ると、橋の下で少女がこちらに手を振っているのに気が付いた。
「取ってくれてありがとう」
少女は赤いリボンを受け取るとポケットに押し込む。十代後半ぐらいだろうか、艶やかな茶髪を指でいじり、こちらを見上げてくる。
「背が高いのね。近くでみるとやっぱり」
「ああ、よく言われる」
「お名前は?」
「イゼットだ」
「わたしはレティツィア。ああ、ちょっと静かに」
彼女は唇に人差し指をあてて俺を橋台の傍へと引き入れる。橋の遠くからかけていく足音が聞こえる。
どたどたとした音は俺達の真上で止まり、左右に動き回る。レティツィアはその音を目で追いながら俺の右腕に手を絡ませてくる。
「レティツィア!」
彼女の名を叫ぶ声が響く。足音の主は男性のようだ。
彼はひとしきり川の上下流を確認したあと、ヴェローナのいる土手に向かって歩き出す。
レティツィアは俺に目で、土手側の橋台へ移ろうと合図する。恐らく今川を渡ると音で見つかってしまいそうだが、まあいいだろう。
レティツィアは音を立てないように自然飛び石の間を飛んでいく。サンダルの底と石がこすれる僅かな音がして、離れていく。手を広げながら足場を探す彼女は絵画に出てくる、地上に降りてくる天使のようだ。
冷や冷やしながらその光景を見ていると、彼女は三歩目でバランスを崩した。石に苔が張り付いていたのだ。
俺は半ば飛び込むような形で川に飛び込んだ。後ろに倒れこむレティツィアを胸で受け止めると、そのまま尻もちをつく。
レティツィアは俺の胸の中でしばらく唖然としていた。俺は川底でこすった足の痛みを感じながら彼女に声を掛ける。
「大丈夫か」
「うん。ふふっ、あなたは?」
「君よりは痛い思いをしたかもな」
彼女はまた優しく笑う。俺の方へ向き直るとしばらくその緑色の瞳で俺を見つめ、満足げな顔で頬にキスをした。
川の音を聞いてヴェローナと少年が土手を降りてきていた。
少年はびしょ濡れの俺を見て怪訝な顔を浮かべたものの、事の次第を説明すると手を差し伸べてくれる。
少年はマリクという、レティツィアの幼馴染だった。彼は今日、里帰りから帰ってきたばかりとのことで、土産話も含めてレティツィアの家の夕食会に参加することになったのだった。
「そうだ、イゼットも夕食会に参加しない?」
少年の紹介を済ませた後、レティツィアが言う。
「いいのか?準備も必要だろうし……」
「大丈夫よ。使用人に言えばいいだけの話だから」
保存食から農家の飯に変わるのであれば大歓迎だ。また、あわよくば泊まらせてもらえるのではないかという邪な考えもある。
「そういうわけだけど、どうだ?」
俺はヴェローナに問いかける。するとレティツィアも振り向き、少し遠くにいるヴェローナに視線を向ける。
「連れの方?」
「ああ、一緒に旅をしている」
「ふぅん」
少し離れた河原でこちらの様子を伺っていた彼女は、顔を紅潮させ、うつむいて小さく頷く。
どうやら先ほどのキスはしっかり見られていたらしい。
とりあえず、服を簡単に絞ったあとレティツィアの家に向かうことにした。
橋を渡った後、少し歩いた先に彼女の屋敷はある。左右非対称で緩やかな傾斜の霧妻屋根を持つその家はラヴィランで見たような二階建ての木造建築で、あちこちにガラスの窓が張り付けられていた。
中に入ると重厚な質感の階段が眼前に現れる。階段は建物奥へと向かい、ステンドグラスの光が差し込む、広い踊り場で二つに分岐している。
「あ、お父様」
ステンドグラスに影が映る。長い手足に高い背丈、そしてすらりとした体つき。同じ富農でも、親父とは背丈以外正反対だ。
「お客様ですか。客室にお通しして」
「はぁい」
レティツィアは玄関から向かって右にある客室に案内する。部屋の中は簡素なもので、ソファが四つとセンターテーブルが一つ絨毯の上に置かれているのみで、装飾らしいものは壁に一枚掛けられているタペストリーのみだった。
使用人が紅茶を出した後、ほどなくして屋敷の主人とその妻が現れる。主人とは対照的に、妻はかなり大柄だ。
夫妻はそれぞれマルセロ、ミアと名乗る。俺達も名乗り、エマルムード王国の首都であるイドリツァまで旅をしていることを話した。色々質問されたが、旅の目的や意味については聞いてこない。もしかしたら俺達二人から何かしら訳ありであることを感じ取ったのかもしれない。
俺がイラクサの農家出身であることを話すとマルセロの食いつきは俄然強くなった。
特に果樹栽培について興味があるようで気候条件、土壌なんかを聞いてくる。俺もそれなりの返答をするが、夫妻ともども大きく頷いて感心してくれるので段々気持ちよくなってくる。
「それで、今晩の宿泊先は決めておられるの?」
会話が落ち着いてきたとき、沈黙を縫ってミアが聞いてくる。当然首を振る。
「では、夕食会の後も家に泊ってくださいな。家は人が少なくて部屋も持て余してますから」
「じゃあ。どうせなら明後日の舞踏会まででどうかしら」
レティツィアが手を上げて皆に同意を促す。夫妻が俺にどうするか聞いてくるので俺は二つ返事で承諾した。
夕食会は客室の隣にある食堂で始まった。長いテーブルには俺とヴェローナ、マリクと彼の父親、そしてマルセロ、ミア、レティツィアが並ぶ。
俺には弟が一人と妹が二人いたし、なんなら祖父母と伯父一家も同じ屋敷に住んでいたので、この広い屋敷で家族が三人だけというのが寂しげに思える。
食堂は客室と同じく殺風景な部屋で、シャンデリアがないため人数分の燭台がテーブルに添えられている。食事はライ麦パン、グラタン、サラダにローストビーフといった感じだった。
俺はライ麦パンをつまみ、口に放り込む。テーブルの話題はマリク達の行商だった。彼らはエマルムードを南北に練り歩き、食物の買付を行っているらしい。その話はそれで聞いていて面白いのだが、親戚や共通の友人が度々話に登場するので場違いな感じがする。反対の席に座ったヴェローナも、困ったような顔で俯く。
「それでね、イゼットがリボンを拾ってくれたの」
急に隣のレティツィアが腕に抱きついてくる。マリクの里帰り話は今日の夕方まで進んでいたようだ。
とたんに全員の注目を浴びる。肌の温もりを感じつつも、冷や汗が飛び出してくる。
俺はとっさにミアへ別の話題を振ることにした。
「明日、誕生日会の準備でお手伝いできることはありますか?」
ミアは笑って言う。
「お客様を働かせるわけにはいかないでしょう。それに明日はまだ前日だからそこまでやることもないし、料理の仕込みくらいかしら」
「それが一番大変でしょうね。今年は、大体どのくらいの人が?」
「ええと、今年は二十四人ね。あなたたちを含めれば、二十六人」
そこそこの人数だ。俺も毎年自分の誕生日になるとどこの馬の骨かわからない人たちが屋敷を闊歩していたのを覚えている。俺は何度も親父と一緒にあいさつ回りをしたが、ついに全員の顔と名前が一致することはなかった。
夕食後、風呂にも入って後は寝るだけという状態になる。眠気を感じなら廊下を歩いていると、ばったりとヴェローナに出くわす。
「あ、お風呂はどうでしたか」
「良かった。今からか?」
「はい。何だか変な感じですね。その、これまではずっと一緒だったから」
空き部屋が多いと言うことで俺とヴェローナは別の部屋に入った。今まで二人部屋だったり二段ベッドなんかで寝てきたので一人で寝るのは久しぶりだ。
「たまにはな。一人じゃないと出来ないことなんかもあるだろうし」
「例えば……どんなことですか」
「それは、まあ」
卑猥なことを考えてしまい、一人押し黙る。
「……私、その」
ヴェローナが俯いたまま口を開く。
「何だ?」
「その、私、ちょっと変だと思うんです。部屋が二つになるのはまだしも空き部屋を挟んで隣ですし、テーブルも、その、離れていましたし」
上目遣いでこちらを見てくる。
「私、レティツィアさんが私たちのこと、その、恋人だと思っているから。私達を離そうとしているんじゃないかって」
俺は頭を掻く。
「恋人だとしても、それを引き離す必要はないだろ」
「えと、その、レティツィアさんが、イゼットさんのこと好きだから」
「好き?」
「そうです」
今日あったばかりで恋なんてできるのだろうか。
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