熊の王国

第28話 ミスラタ海の真珠

翌日の朝に船で出発し、夜も更けた頃にルミナに到着する。

夜中だというのにルミナの街は色めいている。街灯にはまだ火が灯されていて、その下を虫と人とが行き来している。建物の白い外壁は明かりと溶け合い、なめらかなクリーム色となっている。

メインストリートに入ると人混みは激しくなる。

飯屋が道脇にもテーブルを引っ張り出し、道行く人を引き寄せている。テーブルの上にあるのは簡単な軽食と言えるものばかり。この通りを支配しているのは喫茶店のようだ。

一軒立ち寄って、窓際の席に着く。俺は顔を手で支えながら店内を見渡す。

黄土色の天井からシャンデリアが四本の足を伸ばして蝋燭を立てている。天井と蝋燭の位置は近く、天井の壁紙は少し日に焼けている。

客室にもカウンターの奥にも戸棚が幾つもあり、観葉植物や動物の小物、そして背表紙の無い本達が置かれている。俺は恐る恐る本を掴み、広げてみる。中には何も書かれていない。ただの装飾のようだ。

店の奥は一段上がったステージになっていて、ピアノが置かれている。演奏家の姿は見えないが、せっかくなので出てくるのを待ってもいいかもしれない。

メニュー表を見てみると、どれもべらぼうに高い。珈琲一杯で安い飯屋では腹一杯飯が食えるほどの値段だ。

適当に安い料理を選ぼうと文字を指で追っていると面白いことに気づく。

「酒が飲めるんだな」

「私も思いました。びっくりです」

「どうりで酒屋が無いわけだ」

餅は餅屋というが、ここはその正反対だ。コーヒーも、茶も、酒も飲める。簡単ではあるが食事もつくので朝昼晩入り浸ることも出来るだろう。

注文をして暫くして、料理が運ばれてくる。

先ずはアイス珈琲。先ほど安い飯屋では腹一杯飯が食えるほどの値段と書いたが、喫茶店で珈琲を頼まないわけにはいかなかった。それと、パンにハムとキャベツとチーズを挟んで焼いたサンドイッチ。カブライアでも同様の物を食べたのを思い出す。

ヴェローナはサラダとアイス珈琲を注文した。ハムとレタス、それに玉葱とトマト。主食が無いので不安になってくる。

「そんなに食べなくて大丈夫か」

「だって、その、太っちゃいましたから」

「そうは見えないが」

「見えなくても、私にはわかるんです。旅をし始めてから男の人と同じご飯の量を食べちゃってましたから。自粛しなきゃなぁと」

そうか。あまり意識していなかったが、彼女も女性なのだ。

暫くちまちまと食事をしながら過ごす。サンドイッチが半分ほどになり、珈琲で喉を潤していると、店の奥でまばらな拍手が起こった。

見ると男と女がステージの上で深いお辞儀をしていた。頭を上げると男は燕尾をはためかせてピアノに座り、女はドレスを擦りながらステージ中央に立つ。

ピアノの演奏が始まると女は少しかすれた声でゆったりと、波に任せるように体を揺らしながら歌い始める。

甘ったるい恋の歌。歌詞の中で恋する女性は相手の男性が持つ魅力をあれこれに例えながら歌い上げるのだが、どれも平凡なものばかりだ。『魔法』『月』『太陽』、特に魔法は何度も女にかけられていた。

俺はヴェローナを見た。歌詞について話そうと思ったのだが、彼女は思ったよりうっとりと曲に耳を傾けている。組んだ指に顎を乗せ、瞼を少し落とす、その姿はいつもより妖艶に見えた。

俺は何も言わずに歌手へと向き直り、大きな口を開けて歌う彼女をただ目で追うことにする。

また『魔法』がかけられた。


俺もヴェローナもすっかり宿のことを忘れていた。

慌てて探し回るが、船の乗客が押し寄せたこともあり、宿はどこも満杯だった。

俺達は唖然として街の中央広場にあるベンチに腰かける。広場の中心には噴水があり、その周りを幾組もの男女があてもなく彷徨っている。

「もうここで寝ましょうか?」

「いや、駄目だろう。盗難とかも考えられるから」

カラカトから出て直ぐに野宿をした経験はあるが、あれは周りに人がいなかったからなんともなかったのだろう。所持している金銭的にももう少しましな場所がいい。

「では、あちらはどうでしょうか」

ヴェローナは東方の、山の影を指さす。

「今から山に登るのか」

「あそこ、そんなに高くないんです。その、ああほら、看板にも書いてあります。『道中は道が整備されていて四半時程で上ることが出来る。頂上にはルミナの街並みを一望できる展望台がある』です」

街灯に照らされた看板をヴェローナが読み上げる。

「野生生物はどうなんだ」

「それはちょっと……」

俺はまた黒い山の影を見る。カブライアでも夜に登山をしたことはあるが、それは先導するエーザーが道を分かっていたからだ(正直、もう二度とあんなことはしたくない)。低山でも慣れていない山だと遭難してしまう可能性は高い。

「街の中でもう少し安全な場所はないかな」

俺は立ち上がり、看板を眺める。街の案内図だが、それらしい場所は山の上にある展望台ぐらいだ。今いる公園からどこに手を伸ばしても建物ばかり。商店街、居住区、公民館に教会……。

「教会か」

「え?」

「教会なら泊めてくれそうじゃないか」

「あ、そう、そうですね」

素っ頓狂な声を出してヴェローナが同意する。

教会か。まさに渡りに船だった。


教会の扉を叩くと、若い尼が出てきて、すんなりと泊めてもらうことになった。寝床は簡素な二段ベッドだが野宿を覚悟していた身としてはこれ以上の幸せはない。

尼に利用料金を聞いて払おうとすると、宿ではないので頂けないという。しかし献金は募っているので是非お捧げ頂きたいという。

あくまで商売では無いと言うことだ。

ベッドはどこも開いていたので、下段に潜り込む。少し湿っぽいが文句は言ってられない。

「泊まらせてもらって良かったですね」

ヴェローナが隣のベッドに荷物を押し込みながら言う。

「ああ……なんだか納得してない感じだな」

「いや、その」

ヴェローナはベッドに入り、体を俺に向けながら話す。

「こんなこと、その、駄目かもしれないですけど。私、ちょっと山に登りたかったんです」

「どうして?」

「その、子供っぽいですけど、野宿してみたかったんです。展望台のベンチとかで。夜、二人だけで怖いなぁって思いながら眠って。朝起きたら体が痛くて、でも展望台からはミスラタ海とルミナの絶景が見えて……そんな感じが、したくて」

彼女が少し俯く。俺はこんな時、気の利いた答えが出てこないから長い沈黙が続いてしまう。

「明日、朝に行こうか」

やっと出てきた言葉はそれだけだ。

それでも、ヴェローナはほほ笑んでくれる。


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