第27話 白い青

雨は日が沈んでからようやくやんだが、それから森を抜けるのは到底無理な話だった。簡単な夕食を済ませ、さっさと二段ベッドの上段に潜り込む。

夜も更けた頃、また目が覚めてしまう。ただそれは小便や昼寝のせいではなく、歌声が聞こえたからだった。

イズンの歌声。船で会った時、か細い声で奏でていた曲。

俺は梯子を慎重に降り、椅子を窓辺に引き寄せた。

虫の鳴き声がジリジリと背景音楽になり、彼女の歌声は少し大きくなる。

歌詞はよくわからない。大陸のものか、ひどく訛った言葉かもしれない。淡々と紡がれるその歌は、哀しみの歌にも、嬉しさの歌にも聞こえる。それは森の中をゆったりと進み、そして急に止まる。

俺は雨戸を明け、外を見る。

暗い森、月も出ていないような夜だ。何かいたとしても、見えるはずがない。

ただ、なんとなく木々の中からイズンがこちらを覗いているような気がした。

俺は窓から目を離し、椅子に深く座る。

またイズンの歌声が聞こえないかと、壁に耳を寄せた。


気づいた時には朝になっていた。

朝の陽ざしが窓から入り込み、絨毯を日焼けさせている。

湿気のある木の匂いが窓から入り込んで来ている。

俺は痛む背中をほぐすように背を伸ばし、そしてまた椅子に座りなおす。

俺は二度寝の誘惑に支配されながら、ただじっと小屋の壁面を眺めた。重々しい木の筋は波うちながら左右へ延びている。

「バカだな」

昨日は寝ぼけていたのだろうか?こんな森の中を夜に、少女が彷徨うはずがない。

たった一度歌を聞いただけ。たった一度会っただけなのに何故か鮮明に覚えているその姿が俺の脳内に描かれる。彼女は北に行くと言っていた。白く透明な肌の彼女は北国によく似あいそうだ。

俺は夜と同じように窓を見つめる。朝日が柔らかい熱を持って外を照らしている。

外は少しだけ木々が開け、草花が繁茂している。草花は朝露に濡れている。ぼんやりと霧がかかり、木々は輪郭を薄くしている。

そんな光景の中で、白い牡鹿が佇んでいた。

二つの角が日の光を求めるように枝分かれして伸びている。

胴体は朝の雪のように染みが無く清らかな毛皮に覆われている。

俺は息をのんだ。ただ椅子に座ったまま、牡鹿から目を離せなかった。

黒い目が俺を見つめ返している。すらりとした肢体、凛とした顔立ち、全てが目の前にいるそれを『神』であるかのように主張している。

ラティーフを起こした方が良いだろうか。そんなことも考えた。ただ、一度目を離してしまうと、消えてしまいそうで怖かった。

俺はしばらく牡鹿に視線を送り続けた。草花をついばみ、森へと姿を消すまで。

夢を見てしまったのだと言われそうな重い瞼で二度瞬きをし、俺は窓から目を離す。

俺は朝の温もりに包まれて、また眠りについた。


樹海から戻った後、適当な飯屋でヴェローナとラヴィランでの滞在について相談する。禁制地以外で行くことが出来る場所は行ったし、そろそろ出発しても良いかなと思ったのだ。

ヴェローナは出発には同意したが、出来れば今日は休んで明日出発したいと言う。確かに足腰の疲れからか、直ぐにでも眠ってしまいたい気分だった。

となると明日の朝ぐらいにはこの街を出ていきたい。港に行き、船の航路と出発時刻を確認すると、二つの航路を確認できた。

一つはラヴィランを出て東に行き、ルミナという都市へ向かう航路。スローイアとカスタロフカ本島の間はミスラタ海という穏やかな内海になっており、その中でも特に波が穏やかなアザバ湾の南岸に、ルミナは位置する。

もう一つはミスラタ海を北上し、ウルアブという都市へ向かう航路。この航路はウルアブが終点ではなく、スーカラス、ナドール等北方の諸都市を経由しフォルセル諸島へ行き付く。

どちらもエマルムード王国の都市である。王国では最近内乱が起きてセレン王家が追放されたが、僅か一カ月で反逆者は駆逐された。

カブライアで会ったエーザー王は既に首都へと帰還の旅を始めている。王国は一応の平和を取り戻し、この航路も復活したのだという。

俺達はルミナに行くことにした。古くから港湾として栄えたこの都市には美しく壮観な街並みが広がっており、ミスラタ海の真珠と呼ばれている。王国の貴族達もこぞってここに別荘を建てているらしい。

ともかく船の予約を終え、クルトナの西区にある安宿で宿泊手続きを済ませると、さっさとベッドに沈み込む。

まるで気を失ったように眠った。


昼寝があだとなって深夜に目が覚めてしまった。

便所で小便をしていると眠る気も失せてきて海岸に足を向ける。

月が出ていないせいで辺りは真っ暗だが、その分星が輝いて見える。しばらく座り込み目を慣らすと、黒い世界に青い濃淡が浮かび上がってきた。

海岸の際を歩いていく。靴が濡れないようにと裸足になると、ざらざらとした砂粒が足裏にこびりつき、なんだかとても気持ちが良くなってくる。

夜を支配しているような、そんな感覚。

波の音、潮の匂い、星の明かりでさえ。

弧を描く海岸線を見つめる。揺れる波と砂の間をただ眺める。

しばらくそうしてぼうっとしていると、そこから人影がこちらに近づいていることに気が付いた。

揺れる長い髪、凛とした顔立ち、白く細い肢体。

俺は金縛りにかかったようにそこにとどまり、イズンが来るのを待った。

「散歩か」

声をかけるとイズンは少し驚いて歩みを止める。

「散歩よ。悪い?」

「悪くはないが……」

こんな夜中に散歩なんかと言おうとして、踏みとどまる。俺も散歩中だった。

「あんたはなんで?ここにいるの」

「この近くにある宿に泊まってるんだ。そっちこそ、フォルセル諸島に行くんじゃないのか」

イズンはふんと鼻を鳴らす。

「用事よ。ただの」

彼女は海岸に膝を立てて座り込む。どうやら本当に散歩のようだ。俺も隣に座った。

「夜中に出歩くなんて不健康ね」

「目が覚めてしまったんだ」

「もう一度寝ればいいのに」

「眠れずにベッドの上で暇を持て余すより、散歩してるほうがいい」

「ふぅん。わたしだったらベッドの上でぼうっとしているけど。ちょっとした距離でもどこかに出向いたりするのって面倒じゃない?」

「まあ、それはその時の気分にもよるが……。いやでも、だったらお前はなんでこんな夜中に散歩してるんだ?」

「……うるさい。今日は面倒じゃないのよ」

しばらく彼女は黙り込んだ。しばらく波音だけが聞こえ、俺はその退屈で冗長な音色に耳を傾けた。

「少し踏み込んだ質問をしていい?」

イズンが急に質問する。

「なんだ」

「あの女とはどういう関係?」

「あの女?ヴェローナのことか」

「そう」

俺は足を崩し、腕を組む。これまで関係性を聞かれても親戚で返していた。それは別に関係を隠したいのではなく、ただ説明するのが面倒だっただけだ。

「長い話になるが」

「構わないわ」

俺は長々と、ヴェローナとの出会いからラヴィランまでの旅路を話した。聞かれてもいないこと、例えばミアッサに行く途中で見たウミガメの産卵。エスファラーイェンでの商店巡りまで。

イズンはただ黙ってその話を聞いていた。相槌をうったり口を挟むことは無かった。

俺が話終えると彼女は「うん」と頷いて「いい友人ね」とだけ言う。

「友人か。そう言えるか」

「ええ、友人よ。」

「そうか。これからそういうことにしよう」

「ええ、でも……」

「でも?」

彼女は少し間を置いて言う。

「あなたは、彼女を迷路に飛び込ませてしまったのよ」

厳しい言葉だった。だが、その通りだった。もしあのまま家に帰していれば、裕福で不自由のない生活を送る事が出来たのかもしれない。もう二度と戻ることのできない世界へ連れ出してしまったのは間違いなく自分だった。

また沈黙がある。俺は星を見上げ、海を見て、イズンの横顔を眺める。

「少し踏み込んだ質問をしてもいいか」

「程度による」

「昨日、樹海にいたか?あんたの歌声が聞こえたんだ」

「……」

流石に踏み込んだ質問だったかもしれない。押し黙るイズンの横で俺は小さな石を掴み、こびりついた砂を払いのける。

「わたし、あんたが思っているより年をとっているのよ」

ふいに口を開く。

「へえ、いくつだ」

「十七」

「まだまだ子供じゃないか」

「そういうあんたは」

「二十二」

「ふぅん。歳のくせに子供っぽいのね」

恐らく俺が石をいじっているからそう言ったのだろう。皮肉めいて突き放すような口調だが、不思議と腹は立たない。

「あんたは何で旅に出たの」

「さっき言わなかったか?」

「言ってない」

俺は滑らかになった石を海に放り投げる。波音のせいで石が沈む音は聞こえない。

「かっこよく言うと、世界を見てみたかった。田舎の農民で終わりたくなかった」

イズンは俺の顔を覗き込む。

「じゃあ、かっこ悪く言うと?」

俺は苦笑して立ち上がる。

「親父と家族から逃げた」

尻に着いた砂を払い、腰に手をついて伸びをすると、イズンは俺を見上げる。

「どこいくの」

「宿に帰る」

「ああ、そう」

彼女は立ち上がり、後ろに手を組む。

「ねえ」

「何」

「もう会うことはないと思うわ」

「まあな」

「うん」

彼女は踵を返し、何かを避けるように大股で去っていく。

星に照らされた青い闇が、イズンを薄く染めていた。

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