第26話 思い出
森の中にぽつんと建つ小屋に入る。行程としては折り返し地点となり、あとは少し経路を変えてもうひとつ景勝地を紹介してくれるのだと言う。
小屋は簡素な丸太小屋だ。絨毯は敷かれておらず、リビングテーブルは直に置かれている。ソファは少し褪せたものが二つ、ガラステーブルを挟んでおかれており、テーブルの上にはトランプとチェスが置かれている。
エッサがかまどに火をつけ、紅茶を淹れてくれる。
しばし紅茶と共にくつろいでいると雨がおもむろに降り始めた。
やがて雨は本降りとなり、近頃ではあまり経験したことのないような大雨になってくる。
ラティーフは雨戸を閉め、雨が降り続くようであれば直ぐに出発することは難しいと説明する。
すると暇をつぶそうと老婦人がトランプを提案し、全員で大富豪をすることになった。
俺はこういうゲームが得意ではない。そもそも勝負事が苦手だった。今回も同様に敗北を重ねていく。
何度やっても俺が大貧民になるため、皆すぐに飽きてしまいそれぞれの暇つぶしに移る。ヴェローナは本を読み、老夫婦はエッサと談笑し、ラティーフは安楽椅子でくつろいでいる。
俺は椅子を窓際に引っ張り出し、ただ雨音を聞いていた。
雨は絶え間なく続いている。少し収まったと思えば強さを増し、そしてそのまま降り続いていく。そんな繰り返しをただ耳で流していると、ラティーフが椅子を持ってきて俺の対面に座った。
「雨、やみませんね」
「ああ、この様子だと泊る必要も出てくるかもしれん」
一応、この小屋には二段ベッドが二つあり、もしもの際はここに泊ることもできる。
今晩の宿は特に決めていないから、どちらでもよかった。
「ふてくされているのか。大富豪で負けたから」
「違います」
彼は口を開けて笑う。茶色い口髭が小刻みに揺れる。
「しかし、あれでは駄目だ。あの女はお前の恋人だろう?」
ラティーフは机に突っ伏して寝ているヴェローナを指さす。
「いや、ただの知り合いです」
「だったらなおさらだ。勝負事に強くなければ女は振り向かん」
チェスでもやるかと誘われたが、丁重に断る。大富豪でこれなのだ。チェスなんぞやれば駒をわけもわからず動かして終わるだろう。それでも丸テーブルを引っ張り出してこようとするので、俺は強引に話を変えることにした。
「奥さんは、勝負事で振り向かせたんですか?」
「……ああ、そうだ。それこそチェスなんかではない。本当の殴り合いだ」
「そうですか。奥さんとはどこで?」
「ここに来てからだ。俺は孤児院出身の貧民。彼女は没落貴族の娘だった」
ラティーフは椅子に腰を落ち着かせる。どうやらチェスは思い留まってくれたようだ。
彼がハープサルに来たのは十九歳の頃、まだ若かった彼はここで樹木の伐採や路面整備など、とにかく肉体労働に明け暮れていた。朝早くから働き、夜遅くに仕事が終わる。まだ教会の規制が厳しくなかったことから風俗街もあって、彼は稼いだ金をほとんどそこにつぎ込んでいた。金は全く貯まらず、その日暮らしの生活をしていたらしい。
彼がそんな時出会ったのが妻であるクレリアだった。
彼女は伐採現場の、丁度森の切れ間で絵を描いていたらしい。誰もいない朝方。霧が薄くかかり、冷えた空気の中で。
キャンバスの上にはあの白い牡鹿が描かれていた。
彼らは間もなく恋に落ちたが、試練が待っていた。ありがちな、身分の差による障壁である。彼女の両親は結婚に反対し、二人が会わないように見張った。
ラティーフはある晩居ても立っても居られなくなり、こっそりとクレリアの屋敷に忍び込み駆け落ちした。
「いや、じゃあ、どこで殴り合いをしたんです」
「教えてやろう。ある時、クレリアの許嫁が訪ねてきたんだ。当時はこの辺りも薄汚い連中ばっかりだったから、驚いたよ。俺は奴と冷静に話していたがね、奴がいきなり俺の頬を殴ってきた。そっからはあまり覚えていない。とにかくパンチの応酬で、俺が最後に立っていたんだ」
どうもクレリアは勝負事で振り向いたわけではなさそうだ。貧民街に一人で向かった許嫁の勇気の方が称賛にあたるような気がする。
俺は椅子に浅く座りなおした。ラティーフは雨戸を少し開け、外の様子を伺う。
まどろみから覚めたときのように雨音は強烈に聞こえ、雨の少し生臭い匂いが部屋の中に入り込んでくる。
少し俺は天井を眺めて、葡萄ジュースでも口に含もうと腰を上げる。
「白い牡鹿」
ラティーフはぼそりと呟く。
「はい?」
「白い牡鹿だよ。森で暮らしてきてもう何年も経つが、あれだけは見たことがないんだ」
白い牡鹿。朝露の中、光に照らされたそれが脳裏に浮かぶ。
ラティーフはじっと森を見ていた。悲しみとも、悔しさとも言えぬその目は、彼がどこかに落としてしまったものを探していた。
「晩飯にするか」
ラティーフが言うと、エッサが小屋の奥にある調理場へと行き、晩飯の準備を始める。
まず鮭の塩漬けを貯蔵庫から出し、かまどで焼いていく。
次に乾燥させたほうれん草とナスをお湯で戻す。鮭と野菜が出来上がるまでに、パンを等分に切っておく。
「手慣れたもんだな」
俺が調理場のドアから声を掛けると、エッサはにこやかな笑顔を浮かべる。
「ずっとやってきてますから。それこそ、母がいなくなってからずっと。父はこういうのには疎いんです。一度私が熱を出したとき、父は乾燥野菜をどうしたらいいかもわからずにそのままお客さまに出してしまったそうですから」
彼は冗談めかしく言う。
「母親は、亡くなったのか」
「ええ、三年前に病で。最初はただの風邪と思っていたんです。なのに急に倒れて……父上がお医者様に運んだときには危篤状態でした。それからは私がこの家の家計簿をつけているんですよ」
小さい子供だが、俺よりもよっぽど立派な子供だ。まだ華奢で、声変わりもしていないような幼さで、どれくらいの苦労をしてきたのだろう。
彼はしばらくしてほうれん草とナスをプレートに乗せ、焼き魚を焦げないようにすくい出し、パンに葡萄ジュースを添えてテーブルに供する。
どれもこれも素朴で、かつ美味かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます