第36話 伯父は海に行った
プラディップとは脱衣所で別れる。
彼はこの近くで暫く滞在するらしい。また会えたらと思い、宿と部屋番号を貰っておく。
廊下に出てベンチに座って待っているとほどなくしてヴェローナが現れた。まだ結ばれていない髪が、そのままゆらゆらと揺れていた。
「休憩、しましょう」
ラヴィランのようにここにも休憩が出来る部屋が設けられていた。畳敷きの大部屋に雑魚寝するか、壁にもたれて足を投げ出すくらいしかできないが、風呂上りの疲れを癒すには十分なものだった。
「イゼットさん。お風呂はどうでしたか?」
二人して壁にもたれ掛かると、ヴェローナが聞いてくる。
「少ししか入っていないんだ。蒸気浴ばかりだった」
「その、薬草湯には入られました?」
「入っていない。そんなものがあったのか」
「もしかしたら今日は女性側だけなのかもしれません。日替わりと書いてあったので……あ、石鹸の匂い」
ヴェローナは湯の話をやめて、こちらに近づく。胸のあたりで匂いを嗅いで、こちらを見上げる。
「わぁ、やっぱり石鹸の匂いです。でも、どうして?」
「たまたま友人が来てたんだ。その人に貸してもらった」
「顔、広いんですね。石鹸、羨ましいです」
思えばスローイアの温泉に入ったのが十日ほど前。それから濡れタオルで身体を拭くか、小川で身体を濡らすぐらいしかやってこなかった。野郎ならまだしも女性にとってそれはきついものがある。石鹸は確かに高価だが、一つぐらいは購入しておいてもいいかもしれない。濡れタオルで拭くにしても洗剤があれば少しは足しになるだろう。
「その、温泉、好きなんですね」
「急にどうした」
「だって、昨日もお風呂に入っていましたから」
「最近の話だ。温泉なんてこの旅に出るまで数回しか入ったことが無かった」
あの浜辺で入った足湯が絶品だったのが俺を温泉に目覚めさせたのだろう。入浴時間も入るたびに伸びている気がする。全身に温泉成分を染み渡らせたいという気持ちの表れだろう。
「じゃあ、海に行っていたとかですか」
膝の間に頭を埋めながらヴェローナがこちらを見上げる。
「まあ、小さい頃はな。教育の一環としてもあったし」
「私もです。海は沢山ありましたから」
「貴族も泳ぎの練習はするのか?」
「その、海辺に別荘があったんです。そこで使用人に何度か……、彼女も可哀そうでした。上手くならないのは私のほうなのに、ずっと自分を責めていて」
彼女は困ったような顔でこちらを見る。
「優しいんだな」
「え?」
「優しい人だ」
「それは……いつかのお返しですか?」
「そう思っただけだ。あの時俺が優しい人だって言ってくれたが、あんたの方がよっぽど優しい。柔和で、人当たりが良くて、良いやつだと思う」
ヴェローナはうつむいて、かぶりを振る。
「私は、違います」
「違うことはないと思うが」
「いいえ、違うんです。私、本当に優しくないんです」
彼女が黙るので、俺はどうしようかと思ったまま、膝に腕を掛けた。開け放たれた窓から吹く風が、風呂上りの体を優しく撫でてくれる。
「俺も泳げない。同類だな」
へへっとヴェローナが笑ってくれる。その優しい笑顔を見ながら俺は昔の事を思い出していた。
小さい頃はカラカトの砂浜までよく行っていた。伯父が素潜りの名人で、よく連れて行ってくれたのだ。
伯父は俺に泳ぎの特訓を何度かしてくれたが、上達の見込みが無いのが分かると早々に俺を浮き輪の穴に入れた。
それでも俺は楽しかった。小さなガラス瓶からそこから海の中を覗いたり、おじきが海の珍しいものを探してきてくれたり。時には小さな無人島に上陸して、そこを探検したりもした。
そしてなにより面白かったのが、伯父の素潜りだった。ガラス瓶を片目に俺がスタートの合図を出すと、海底へぐんぐんと潜っていく。そして何分も海中を泳いだ後、ひょっこりと海上へと姿を現す。ガラス瓶越しに見る伯父の姿はまるで海豚のようで、すっと閉じられた足がヒレのように水を蹴るさまに興奮したのを覚えている。
いつか、そう、そしてあんなことがあった。
透明な水の中、遠くに聞こえる騒ぎ声と、対照的な無音の世界。
ガラス瓶の湾曲したレンズ越しに感じる美しい世界。
深く暗い底。
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