第6話 水平線と、静かな町

ミアッサは坂の町だった。

百メートルも満たない標高の丘の斜面に、民家がびっしりと張り付いている。

それらはまるで何千年も前からそうであったように、丘の頂上の木々と、南京錠の形をした湾に溶け込んでいた。

丘の頂上には古風な見晴台が、木々を見下げる高さで建っている。鳶がさらにその上空を滑空し、ゆらゆらと揺らめきながら海へと降りていった。

宿屋の主人からこの村唯一の宿屋については聞いていた。傾斜の強い丘の中腹で、細く頼りない支柱で支えられている寄棟造の家であり、ここらでは珍しく黄色の塗料が塗られているとのことだった。

「宿の場所、すぐわかりましたね」

ヴェローナが言う。黄色の家は確かにわかりやすくその存在を誇示している。


街に入っても、地上からそれがどこにあるはすぐにわかった。

二人で顔を見合わせて、宿へと向かう道を昇っていく。まだ昼なので、宿としてはまだ開いていないだろうが、主人によると昼飯も提供しているとのことで、暫くそこで暇を過ごそうと思ったのだ。

道の傾斜はバディーニの別宮へと向かうあの階段よりもきついようにも思える。やはり面白いのはその傾斜に民家が幾つもへばり付いていることで、道は彼らの間を申し訳なさそうに曲がりくねり、道を細めながらつたっていった。

宿屋について戸を開けると、少女がすたすたと駆け寄ってくる。

「お二人で?」

「ああ」

「何泊の予定ですか?」

「今、チェックインできるのか」

「できますよ。うちはお昼ごろから開けてます」

「わかった。とりあえず、一泊したい。昼飯はまだ食べられるか」

「わかりました。お昼ご飯は、少々お待ちください。正午の鐘が鳴る頃ですので」

少女に一泊分の金を支払い、部屋に案内してもらう。

部屋は二階にあった。さすがにあの狭苦しい二段ベッドではなく、清潔なベッドが二つ置かれている。窓を開けると、ベランダへ降りることが出来、小さな湾と、これまでたどってきた青い小山地を見渡せた。

悪くない宿であるにも関わらず、宿泊代も安い。

カラカトの安宿よりは勿論高いが、一般的な宿代と比べると半分ほどの金額で済ますことが出来る。しかも、朝、晩どちらも食事が出る。

宿屋の主人もいいところを紹介してくれたものだ。

少女が出ていくと、俺はベランダの椅子に座り、しばし海とこの小さな町を眺めた。

ミアッサは半島の先に小さくくっついた島のように思える。それはこの丘の周辺だけ眩しいほど白い石灰岩でできており、周囲の茶色がかった岩肌を持つ山々と対照的に見えたからだった。もし晴れていれば青く染まる海と空に良く映えていたのかもしれない。

振り返るとヴェローナはベッドの上で寝ている。俺もしばらく寝ようと思った。

と、ここまでの旅で寝てばかりではないかと思われる方も多いかもしれない。

実際、眠気は強かった。歩けば歩くほど疲労は溜まっていくし、夜に寝てそれが解消されるわけでもない。

何とかしなければと思いつつ、これで良いのだとも思えてくる。

どうせ、行く当てもないのだ。


ノックの音で目が覚める。

「もうお昼ごはん、終わっちゃいましたよ」

少女がドアから顔を覗かせていた。

「でも、まだあります」

ミトンで掴んだ鍋を掲げておどけてみせる。

俺は丸テーブルを引っ張り出して、自前のタオルを敷いた。

鍋は吹きこぼしを少し垂らして、タオルに着陸する。

「ポトフですね」

ヴェローナが鍋を覗き込んで呟く。

「エスファラーイェンではよく食べてました」

少女は後から、パンと小皿そして食器を持ってきた。どれも三人分ある。どうやら彼女もここで食事をとるつもりのようだ。

ポトフは簡単に出来るらしい。ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、キャベツの他に牛肉や鶏肉を入れて、香辛料と共に煮込む。たったそれだけと少女は言う。

少女は名をメディーンと言った。

メディーンは良く喋った。少しこちらが辟易とするほどだった。

ただそのよどみない口の流れによって、彼女のことは良く知ることが出来た。

もともとこの宿屋は両親が始めたらしい。ただ、両親とは、死別してしまった。今は母方の祖父母と共に宿屋を切り盛りしている。

この町で外食といえばこの宿しかなく、昼時には大勢の漁師がここに集まる。それとは対照に街道から少し外れた場所にあるミアッサは大抵旅人に素通りされてしまうため、宿場としてはあまり繁盛していない。

だからこそ、宿泊客が来てくれた時は嬉しさが大きいのだという。

「それも、こんな若い二人が!」

メディーンは言う。ヴェローナと顔を見合わせると、彼女はやわらかな笑顔を浮かべた。


食事が終わり、話し込むメディーンとヴェローナを残して、ミアッサの町を探索する。

なんというか、静かな町だ。

港まで降りてみても人通りはほとんどなく、僅かに繋留された漁船がゆらゆらと揺れているのみだった。

俺は港で横になり、しばらく港湾から海を眺めた。

海は、少し汚い。

岸にへばり付いた海藻とそこらを動き回るフナ虫を見ていると、嫌気を催してしまう。

立ち上がり、港をぶらぶらと海沿いに歩くことにした。湾口砂州が弧を描き伸びていて、掛け金にだらりと掛けられた南京錠のように、小さく口を開けて海水を飲み込んでいる。俺は南京錠のシャックルの部分に入り込み、そのままその先端まで足を延ばした。丘の上にある見張所ほどの灯台が、平屋建てばかりの住居群の中で異彩を放っていたからである。


灯台は、カラカトのはずれで見たような石造りのものだった。

火口の巨大な皿の上には幾つもの枝葉や枯草が載せられており、夜が来るのを待っていた。

俺は石造りの波止場に腰を下ろした。近くにはフードを被った男が死んだようにじっとして釣り糸を垂らしている。

水平線というものは不思議なもので、いつまでも見続けていると孤独というか、寂寥感に襲われてしまう。ただ、この町で時間をつぶすにはそれくらいしかやることがなかった。しまいには、俺は寝っ転がり、灯台が空に向かって伸びていく様を仰向けで眺めていた。

「仕事に行かなくていいのか?」

男の声がした。釣り人だろうと察した。

「俺は旅人だ」

少し沈黙があった。

「どこの出だ」

男が言う。淡々として、味気ない喋り方だった。

「シャグモという村だ。カラカトの北にある」

「知らない名だ」

また、会話は途切れた。

ウミネコの鳴き声が聞こえる。奇妙な沈黙の中で、男がまた何かを話そうとしているのが分かった。

「どこまで行く」

「決めていない。今のところ、この島を回り切れればと」

「村には帰るのか」

「わからない」

そうかと呟いて、男が立ち上がった(実際にはその音だけが聞こえた)。

男は空と灯台だけだった俺の視界に入り込んで言う。

「私も二十年前、旅に出た」

「どこまで」

「大陸を渡り、南の果てまで」

何とはなく、興味の惹かれる話だった。

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