第5話 やがては海に帰るもの
少年たちに、近くに泊まる場所がないかと聞いた。
彼らは顔を見合わせ、互いに回答を譲り合った後、一番左端の少年が口を開いた。
曰く集落が近くにあるらしいが、宿を貸すような住民はいないらしい。
少年たちは俺とヴェローナに興味を持ったようで、矢継ぎ早に質問をしてくる。どこからきたのか、二人はどんな関係か、どこを旅してきたのか。
ただ、俺の持ち合わせている情報がえらく貧弱であるとわかると、退屈そうな面持ちで何処かへ行ってしまった。
あたりはすっかり静かになった。ヴェローナは眠ったようで膝を曲げてベンチの背もたれに身を任せている。
俺はしばらく、考えという考えを巡らせないまま、ただぼうっと波の音だけを聞いていた。足はもうふやけていたし、十分に休息はとれたはずなのだが、どうしようもない倦怠感が体を包んでいた。
『早く宿を見つけなければ』
そう思いながらも、まるで全身に麻酔をうたれたかのようにただ、ベンチに腰を沈め、目を閉じた。
「イゼットさん、起きてください」
ヴェローナの声が聞こえた。と同時に夜まで寝てしまったことを知った。
俺は上着の下に忍ばせている金入れを確認する。どうやら物は取られていないようだ。
「その、見えますか?」
「何が?」
「ウミガメが海岸に上がってきているんです」
確かに何か動いている音はしたが、目が慣れていないのか何も見えていなかった。
「今日は月が大きいので、雲が切れれば見えますよ」
ヴェローナは俺の手を引いて、砂浜へと連れ出す。
素足に砂がこびりつき、ざらざらとした感触がする。俺を引くヴェローナの手は少し強引で、手首が擦れて痛んだ。
彼女は低木の広げた枝葉の下に俺を案内した。
次第に目が慣れ、そして暗闇の中で、かすかに砂のすれる音が聞こえてくる。
やがて、雲が晴れた。
月の光が砂浜を照らし、あたりがにわかに明るくなる。
白い砂浜がより白く浮き上がるのと同時に、無数の黒く小さな丘が砂浜を埋め尽くしているのがわかった。
ウミガメだった。実際に見るのは初めてだった。
「私、見たことなかったです」
「俺もだ」
「イゼットさんも?」
「こんな海岸があるのも、そこでウミガメが上がってくるのも知らなかった」
しばらく彼らが、ヒレで穴を掘る様や、涙を流しながら小さな鳴き声を響かせる様を見ていた。母親が産み落とした卵はやがては海に帰り、そしてまたこの海岸へと戻ってくるのだ。
「きれい……」
ヴェローナは呟いた。彼女をみると、ドレスではなくチェニックを、そしてサンダルではなくブーツを履いていることに気づく。
俺は、口を開こうとしてやめて、また口を開いた。
「あんた、やっと着替えたんだな」
「え?」
「服はいいにしても、あのサンダルは歩きにくいだろう」
「その、ちょっとした事情が」
「事情?」
「ええ、私の家では異性の前で服や靴を脱ぐことは禁じられてましたから」
「靴もか」
「ええ、靴も」
「でも、あんたはそのしがらみから解放されたじゃないか」
「そうですけど、でも……」
彼女は黙ってしまった。
月はまた姿を消し、辺りはまた闇の深さを増す。
ヴェローナの横顔が薄くなる。ウミガメの黒い甲羅が空に溶けていく。
「私は、弱い人間ですから」
彼女の声だけが響いた。
俺達は海岸でウミガメをみたあと、東屋に戻りベンチの上で眠った。食事はとらなかった。海岸を出発したのは太陽が出て直ぐで、あちこち痛む体を押し殺してひたすら歩いた。
アイラナにつくまでは、また少し時間がかかった。理由としては、これまでたどってきた海岸線の中で一番きついと思われる傾斜と、そして海からおしよせる強風だった。風は特にやっかいなもので、向かい風になれば息が苦しくなり、追い風になれば飛ばされそうになった。
橋を渡りアイラナに着くと、街道は左に海を、右に宿屋を沿わせて走っていくのがわかった。弓の弧のように曲線を描いた海岸線を見ると、家々は途中で途切れていて代わりに岩肌がむき出しになった丘が連なっていた。
ここは街というよりは町という表現が正しいのかもしれない。
俺達は茶屋に入り、ひとまず腰を下ろすことにした。
茶を頼み、椅子に座ると腰のあたりから力が抜けていく感じがした。昨日は足湯に浸かったし、十分すぎるほど寝たと思うが、むしろ疲れは溜まっていた。
「あの、イゼットさん」
「ああ」
「食事は?」
「ここは高いだろう。茶もそこそこする」
「でも、その、お茶ではお腹はふくれないと思います」
何も食べてないわけではない。ただ、昨日の夜からというのも蜜柑とサツマイモしか食べていなかった。
「昼まで我慢してほしい。宿屋の主人から飯屋兼宿屋を聞いているから」
ヴェローナはうつむいて頷く。かなりへばっているようだ。
少しして、茶が来た。茶碗と急須が雑に配られた後、急須がテーブルの真ん中にそろりと置かれた。そして水羊羹が二つづつ、茶碗の傍に添えられる。
急須を傾け、ヴェローナの茶碗に注ぐ。彼女は火傷をしてしまいそうなほど近くでそれをじっと見ていた。
「わあ、これ、お茶なのですか?」
「ああ」
「私の飲んできたお茶はみんな、赤色でした」
「それは紅茶だろう。これは緑茶だ。イラクサでも、首都では紅茶を飲むらしいが」
「首都?」
「エスファラーイェンのことだ」
「イラクサの首都なのですか?」
「一応、そういうことらしい」
イラクサは三つの勢力が割拠する土地だ。北部のイビ家、中部のクヌート家、そして南部のバディーニ社。三つの勢力は同盟関係で結ばれているが、北部のイビ家が大きな力をもっており、アマノトケリとカラカトに出先機関を設けている。
ただ、クヌートとバディーニも高度な自治権を有しておりイビ家の完全な支配下にあるわけではない。
とどのつまりイラクサには三つの王国があるといえばわかりやすい(実際、エスファラーイェンの宮殿は『王宮』と名乗っている)。
「俺も本を読んで知ったんだが、他国の人間はエスファラーイェンを『イラクサ公国』の首都として書いてあるんだ」
「じゃあ、アマノトケリとかカラカトはどうなんですか?」
「そもそも記載が少ない」
「へえ、そうなんですね」
ヴェローナは緑茶を渋い顔をして飲む。あまり口に合わないようだ。
羊羹は好きな様で口の中で味わうように咀嚼していた。
あまり長居をしていると、昨日の二の舞になりそうな気がして、席を立つ。
ヴェローナも少し元気になったようで勢いよく立ち上がった。
ミアッサには昼前には着くだろう。ただ、街を見て回る力は残ってないだろうとは思った。
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