第4話 旅の仲間
起床が遅くなってしまったのは、木綿のカーテン越しに伝わる日の光でわかった。俺は少しいたむ腰を上げ、着替えをする。
着替えは一着用意していたため、明日は清潔な服を着ることが出来そうだが、その後についてはしばらく同じ服を着回すことになりそうだ。屋敷にいた頃は意識したことがなかったが、清潔な服を着ることが出来るということはそれだけで幸せなことなのかもしれない。
「その、起きてらっしゃいますか?」
隣から声が聞こえた。
「あんたは?」
「このとおり、起きてます。ああ、でもカーテン越しではわからないですよね」
俺はカーテンを開けた。
目の前には女性が座っていた。
子供のようにも見える童顔には三つ編みで一つに束ねられた黒檀の髪が掛かっている。肉付きがよい体は土で裾が汚れたドレスで包まれている。大きく形の良い乳房が、胸部で張り詰めていた。
「わあ、背の高い方なんですね」
「よく言われる」
彼女は手を膝に乗せて聞いてくる。
「今日はどこへ行かれるんですか」
「この街を出て、北へ向かう」
「バディーニの方へ?」
「いや、アマノトケリの方だ」
「そうですか……あの、荷物でも持ちましょうか」
「いや、いい」
「では、何かお手伝いできることは?」
「いや、特に」
「それでは、ええと……」
彼女は言葉に詰まり、焦って辺りを見渡した。木綿のカーテンや俺の頭、天井にかかる瓢箪まで。
そうか、と思った。俺は家出といっても相応の金を持ってやってきたが、彼女は本当の『家出』なのだ。大した金も準備もなく家を出てきたのだろう。
「その、えと……私を連れて行ってもらえませんか」
「カラカトから遠く離れることになるが」
「ええ、構いません」
少し考えた。昔から旅は道連れという。同行者がいて助け合えた方がいい。ただ、かかる金は二倍になることは明白だった。
「とりあえず、アマノトケリまでは一緒に行こう。それまでに気が変わったら言ってくれ」
彼女は頷いた。
地図によると、カラカトからアマノトケリまでは海岸線の道沿いを北西に向かうことになる。宿屋の主人に聞くと朝出発したとしても到着は日の入り頃になるとのことだった。代わりに主人が示したのがミアッサという小さな漁村で、それはアマノトケリから少し南方にあった。
「旅人は大体、カラカトとアマノトケリの中間にあるアイラナへ向かう。ただ、アイラナには何もない。ミアッサにはマグロがある」
「マグロ?」
「今、この時期が一番旨い」
「アイラナにはないのか」
「あるにはあるが、あそこのマグロは旨くない」
たった数十キロの距離が違うだけで味が変わったりするのだろうか。俺は不思議に思いながらも主人にミアッサの宿を教えてもらい、空で覚えた。
宿の主人に別れを告げ、近くの売店を冷やかす。
「その、ミアッサにはどうやっていくのですか」
白いドレスの女性が瓢箪を肩に担いで、質問してきた。
「徒歩で」
「歩いて、ですか?」
「ああ」
「その、馬を使ったりとかは」
「高いだろうし、俺は乗ったことが無い」
古着屋や古道具屋なんかは宿屋街の突き当りから北上すれば幾つか立ち並んでいた。
俺は革のブーツとウールのチュニックを二枚、そして肌着を三枚ほど買った。そして羊の胃で作った手提げ袋に入れ、彼女に手渡した。
「あの、お名前は」
「イゼット」
「私はヴェローナ、えと、あなたはいい方ですね」
ヴェローナは手を差し出す。俺はしばしその手を見た後、小さなその手を握り返した。
もと来た道を戻り、パグラム川を渡ると、丁字路が現れる。バディーニへは右、イラクサの北部へ向かうには左方へ向かう。もちろん左方へ進み、海に向かって歩いていると、思ったより太陽が高く昇っているのに気が付いた。
買い物や冷やかしに時間を使い過ぎたのだろうか。アマノトケリほどではないにしろ、ミアッサも遠い。少し歩を速めたほうが良いのかもしれない。
「イゼットさん、見てください」
突然、ヴェローナが指を差す。海だ、と思ったが彼女の視線は少し左に向いていた。
見ると平らな岩礁が海に向かって伸びていた。それはまだ潮が引ききっておらず、薄い海水の膜が天上の雲を鏡のように映し出している。岩礁は少しして緑を蓄えた小島に行きつく。小島には灯台がそびえていて、このあたりでは珍しい石造りの外壁に豊かな蔓を巻き付けていた。
ヴェローナが、少し歩いてみてもいいですかと言う。頷くと、彼女は街道を降り冷たい岩の鏡の上に降り立った。彼女が鏡の上を歩くたびに、幾つもの波紋が響いては互いに打ち消しあう。
確かに、美しい光景だと思った。夕日が沈むころに同じような潮位ならば、また違った光景が見られるだろう。
もしかしたらこのような美しい光景が村にも沢山あったのかもしれない。村の社へ行くあの道や、母の実家へと続くあの道を、少しそれるだけでも違っていたのかもしれない。
ヴェローナは小島まで歩いたあと、小走りで戻ってくる。
羊の袋を持たすと、少し疲れた様子でそれを担いだ。
先は長い。
ヴェローナは一向にサンダルを替えなかった。いくら海岸線沿いの道だとはいえ、ある程度の勾配はあるのだから、ブーツくらいは履いてもばちは当たりそうにない。
丘と砂浜が交互に現れ、それが三度目になったころには、ヴェローナの足には見るからに疲れが見え始めていた。昼までにはアイラナに着いておきたかったが、どうもこの調子だと難しそうだ。今日中にミアッサへ行くのはまず無理だろう。
適当なところがないものかと探していると、海岸線から少し離れた森の中に、小さな東屋を見つけた。それは厚い茅葺屋根を有した比較的新しいもので、陽光で青く輝く浅い森の中に恐ろしく溶け込んで見えた。
東屋に近づくと、先客がいた。少年が四人、ベンチに座って足をバタバタとさせている。見ると、東屋の中央には正方形の温泉があり、湯気が彼らの顔にかかっていた。
「これは、何でしょうか?」
ヴェローナが俺の真横から風呂を覗き込む。
「足湯だろう」
「足湯」
「そう、温泉に全身ではなく、足をつける場所だ」
かく言う俺も、温泉すら入ったことがなかった。
イラクサは土地柄、温泉が少ない。東方にあるバンプールと、エスファラーイェンに湯治場があるものの他国に比べると規模は小さく、公衆浴場が一つと、宿屋が数件立ち並んでいるのみだ。
また、湧出量が少ないため温泉として整備されることも少なく、大抵は生活用水として使われたり、足湯として東屋の下に置かれたりしている。
少年たちは俺達を見やると、何も言わずに席を譲ってくれた。彼らはベンチの隅に固まり、じっと俺達の挙動を観察している。
俺はベンチに座り、靴を脱ぐと指先からゆっくりと足を入れる。途端、じんわりと心地よい暖かさが染みわたってきた。足首に感じていた疲労感や痛みが包まれて溶けていくような、そんな感触を覚える。足先を軽くこすり合わせると、不思議なことに粘性を帯びていた。
「古い体が溶けているんだ」
俺の足を見て少年の一人が言う。
「僕らは毎日入ってるから、溶けるところがないけど」
確かに、少年たちの足は白くほのかに赤みを帯びた綺麗な色をしている。
出来ることなら全身を浸からせて、古い体を全て溶かしてしまいたいとも思えた。
「あんたは入らないの?」
と小太りの少年がヴェローナに聞く。
ヴェローナは後ろ手に手を組み、湯気に顔を近づける。
顔に蒸気をあてるように手で扇ぐ。確かに興味と興奮を覚えた様だった。
「ええと、その、私はこれで大丈夫です」
「入らないのか?」
俺は思わず聞く。
「ええ、ちょっと」
彼女は湯を避けるようにベンチへたどり着くと、サンダルを履いたまま横になった。
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