第7話 灯台守の老父
男は灯台にもたれ、釣り糸が切れた釣り竿で何度も素振りをする。
俺は同じように灯台を背にして座った。
「大陸はどんな所だ」
俺が質問すると、素振りをやめた。
「まず、北部はイラクサの気候とほぼ変わりない。ただ南下していくと、岩がちの地形に変わっていき、やがて雨の降らない砂漠へと行きつく」
砂漠……、何とも魅惑的な響きだ。『イーフレイム大陸放浪記』という本で、砂漠を北上してカスタロフカ島(イラクサのある島)までたどり着いた男の話を読んだことがある。波打つ砂丘が永遠のように続き、そのうねりの中に足を踏み入れると砂が足を飲み込むように沈んでいくのだ。昼間は暑さと渇きによって意識が朦朧としていくが、夜は一転して凍えるような寒さが襲う。ただ、砂漠の星空はとても夜とは思えないほどの明るさらしい。
男は旅について事細かに教えてくれた。砂漠でブーツにサソリが入り込んでいないか何度も確認したこと。ジャングルの中で、巨木の大きさに圧倒されたこと。そして、旅の終点である岬で、日が沈むのを見たこと。
男の顔は旅について話し出すと若さを取り戻していく。
長い、長い旅物語だった。まるで自分もそこにいたように、俺は大陸の最南端で西日を見たのだ。
しかし、旅は終わってしまった。
男は旅の復路について特に話さなかった。彼は釣り糸を付け替えると、また波止場の先へ戻っていく。気づくと日は傾き、海を赤く染めていた。
「あんたは、今ここで何を?」
「灯台守だ。この灯台だよ」
「家族は?」
「……大陸の端まで行って帰ってくるまで、何年かかると思う?」
野暮な質問ということだろう。
男は寂しげな表情を浮かべて釣り糸をほどきながら、言葉をつなげる。
「この町に恋人がいた。衝動に駆られて旅に出る前だ。この町に戻ってきたとき、彼女が死んだことと、一人娘がいることを知った」
彼は言葉を紡ぐ。
「逃げるように旅に出たんだ。私は。だから、この町に戻っても、また逃げることしかできない」
釣り糸が、垂れた。
部屋に戻るとヴェローナが椅子に座り、本を読んでいた。
彼女はその細い指先で紙の先に触れ、ページを進めていく。
「あんた、本を読むんだな」
俺が言うと、びくりと体を震わせて、彼女は本を勢いよく閉じ、机の真ん中に差し出した。
「ええ、その、あまりにも退屈だったものですから」
机には『イーフレイム大陸放浪記』が置かれている。
俺はヴェローナの対にある椅子に逆向きで座った。
「メディーンは?」
「ええと、夕食の準備をされています」
「彼女とどんな話をしたんだ?」
「この町の雰囲気だとか。床屋さんとかも紹介いただきました。思ったより色々あるんですね。大通りを歩いた感じでは特に何も無さそうでしたから……」
『イーフレイム大陸放浪記』を覗き込んで、見る。あの灯台守の老父も、この本を読んだろうか。そして、旅に”出て”しまったのだろうか。
俺は背もたれに肘を掛け、腕に顎を乗せた。夕食までの間、どうやって時間を過ごそうか。
「イゼットさんはどこの出身なのですか」
ヴェローナが突然聞く。あってすぐしそうな会話を、そういえばしていなかった。
「カラカトの北にある、シャグモという村だ」
「わあ、じゃあ、この辺りの方なんですね。でも、全然訛りがないですね」
「よく言われる。訛っていない言葉がどんなものか良くわからないが」
「この辺りの方は濁音が特徴的なんです」
「濁音?」
「何と言ったらいいのでしょう。例えば『感じる』を『感ずる』といってみたりとか、『捌く』を『さびく』と言っていたり」
俺はそれを復唱してみる。意識していなかったが、確かに村の人間はそういう言葉遣いだったように思える。
「あんたも、そうだな」
「はい?」
「訛りが無い」
「ええと、そうですね」
「首都の出身だからか」
「ええと……どうしてわかるのですか」
「いや、なんとなくわかるだろう」
ヴェローナは手に顎を乗せて、俺を見た。顔が近づき、秘密の相談でもしているような格好になる。
「私、エスファラーイェンにある貴族の娘なんです」
「ああ」
「あの、あの日、私、結婚式から逃げてきたんです。カラカトの豪族と結婚する予定でした。父と母を、特に私を愛してくれた父を裏切りました」
彼女は伏し目がちにしながら、言葉を続けた。
「イゼットさん、エスファラーイェンに向かうなら、私を連れて行ってくれませんか」
俺は、黙って頷いた。
翌日、メディーンが紹介した床屋へヴェローナの案内とともに向かった。その床屋は町道のはずれの行き止まりに息を潜めながら隠れていた。中には老いた親父と中年くらいの息子(勝手にそう決めつけているが、ただの従業員かもしれない)がいて、客対応をしている。
息子と親父は仲が悪いらしく、顔剃りやカットの仕方について喧嘩気味の口調で話していた。正直引き返そうかと思ったものの、せっかく入った手前、帰るのも悪いと思い、ベンチでじっとしていた。
やがて先客が帰り、俺はバーバーチェアに通される。
親父がカッティングカバーを掛けると、息子が少しそれを直す。大体そんな感じで親父が基礎部分を行い、息子が仕上げを行うという師弟関係の逆転が起こっていた。
ただ、髪が綺麗に整えられ顔の髭がそり落とされていくと、親子のイライラも収まっていき、無言ではありながらも心地よい空間に浸ることが出来た。
出来栄えは中々よかった。村にいた時は使用人に切ってもらっていたが、やはり餅は餅屋ということだろうか。柄でもなく鏡の前で自分の髪を何度も確認した。
「イゼットさんは、髪が短いほうがいいですね」
ヴェローナが手を叩きながら言う。そういえば、使用人もそんなことを言っていた。
茶屋も探せばあった。それは宿へ向かう坂道を立て看板のある分かれ道で左に曲がり、そこから三つ目の交差点を右に曲がったところにあった。
客席はテラス席と室内席に分かれており、テラス席ではまた、海が見渡せる。宿で散々見てきた景色だが、茶屋で茶を飲みながらというのも悪くない。
茶屋では緑茶と、はちみつのかかった寒天が出てくる。値段は安かった。カラカトなどとは比べ物にならないほどだ。
その後、見張り台まで向かう。
見張り台はここが昔、要塞として機能していたときのなごりらしいが、今は時の鐘が置かれている。鐘は直径でいうと一メートルほどのもので、思ったよりも真新しかった。ぼうっとそれを眺めていると、何処からともなく現れた男が訝し気な顔でこちらを見ながら、梯子を登り、時の鐘を鳴らした。
もう正午だった。
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