第8話 憧憬
なんとなく、この町を出ていくのが億劫になった。
それはミアッサという町が気に入ったということではなく、冬の朝に布団にくるまって出ることが出来ないような、そんな感覚であった。
この町に着いて三日目、午前中は近くの湧き水を使い洗濯をして、ベランダに干した。午後は町を散策し茶屋に行きつく。何年もやってきた習慣のように俺の体は動き、そして怠惰を貪った。
ヴェローナはというと、椅子に腰かけ、背もたれにもたれることなく、あの放浪記を読み続けていた。退屈だからというわけではないだろう。微笑を浮かべ、はらりはらりとページをめくる様は、なんだかとても映えて見えた。
夕食は昼食と同じように、階下の広間で摂ることが出来る。
カラカトの宿屋が言っていたマグロは、この夕食に出てくる。
大抵は刺身にされるが、焼いてステーキのようにされたり、油で揚げた状態でも提供されていた。ただ、一番はやはり刺身だろう。
マグロの生身は非常にもちもちとした食感があり、口の中で跳ねていくような弾力があった。メディーンが言うには、この辺りでしかそういったマグロは取れないらしい。
広間の人間は多かった。地元の人間ばかりなので疎外感はやはりある。こちらに話しかけようとする人は居らず、またこちらも話しかけようとはしなかった。
「……これ、なんでしょうか」
ヴェローナが呟いて、俺は顔を上げる。
「マグロのステーキだ」
「お魚をステーキにするんですね」
「俺も初めて食べた。山だと、干物とかしか手に入らないから」
「私は、そもそも魚類を食べたことがあまり……」
「そうか。でも、マグロは旨いだろ」
ヴェローナは首を振る。
「その、美味しくないです。独特の臭みがありますし」
隣に座っていた男がヴェローナを見た。少し、空気が張り付いた。男は何も言わず食事を再開する。
俺はまたヴェローナを見た。彼女はホタテのスープを苦々しそうな顔で飲んでいた。
夜、小便で起きる。便所は階下にあるため、わざわざ下に降りなくてはならない。
燭台を持って部屋を出て、マッチで火をつける。暖かい光が広がる。と同時に階下でも光が灯されているのを見つけた。
メディーンが広間の長テーブルに燭台を置き、椅子に足を投げ出しながら本を読んでいた。
俺は彼女の邪魔をしないよう広間を壁伝いに歩いた。彼女は特に気が付くこともなく、本を読み続けた。
便所で用を足し、同じように壁伝いを歩いていると、彼女の手から本が離れていることに気づいた。俺は立ち止まり、燭台の火がゆらゆらと彼女の顔を照らすのを見た。メディーンは口を小さく開け、頭をだらりと傾けて目を瞑っていた。
傍まで歩いていき肩をとんと叩くと、体をびくりと震わせて目を覚ました。
「火をつけて眠ると危ない」
本を拾い上げて膝の上に乗せる。メディーンは寝ぼけ眼で俺を見て、にこやかな笑みを浮かべた。
「こんばんは!ヴェローナの……」
「少し、声が大きい」
俺が人差し指を立てて唇に当てると、彼女も同じようにして人差し指を立てて、いたずらっぽく笑った。
部屋に戻ろうとすると、メディーンが椅子を差し出して、座るよう要求する。
「せっかくだから何か話しませんか」
「何の話を?」
「特に、それは決めていませんが」
確かに雑談にテーマなどないだろう。
俺は椅子に座り机に肘をついた後、ふと、彼女の膝にある本を見た。
「あんたもこの本を読むんだな」
「え?」
「イーフレイム大陸放浪記」
「あ、そうです。ヴェローナから貸してもらいました」
「面白いか」
「ええ、すごく!イラクサでは砂漠なんて見られませんから。自分の見たことのない景色が、頭の中に広がっていく感じがすごく好きなんです。あと、なんだ、旅行記というより小説のように読めるのがいいなって。作者の方がどう思ったとか、旅を重ねていく中で出会う人たちとの交流とか」
メディーンは本の表題をなぞるように眺める。
「私の死んだ父は、旅商人でした。私は知らないけど、母はそう言ってました。いろんなところを旅して、そこでの話を聞くのが、母は好きだった。それこそ父はイーフレイムにも行ったのかもしれません」
メディーンは本を抱きかかえる。
「私、いつか父のように旅をしたい。今はおじいちゃんとおばあちゃんを助けないといけないけど、いつか世界中を巡ってみたいんです」
俺は片肘をつき、頭を手で支えながら、蝋燭の火を見つめていた。蝋はあと少ししか残っていない。
「……世界中を巡るとしたら、もう帰ってこれないだろう。何十年もかかる。帰ってきたとしてもこの町の人間も様変わりしている」
「はい」
「自分の家がなくなるということだ」
「うん」
「それでも旅をするのか?」
メディーンは俺の目を見た。大きな、透き通った瞳がこちらを見ている。
「それでも、旅をしたい」
そうだ、と思った。
それでも旅をしたいのだ。
部屋に戻っても眠る気がせずに、ベランダに出て、黒い海と星を眺めた。
水平線上に光が見える。漁船が出ているのだろうか。小さな点で表現される白い光が線の上を滑っていく。
暗闇の中、もう一つ、灯台の光があった。橙色の光が海の上に突き出し、水平線の光の間に長い直線を創り出している。
明日の朝、ここを出ようと思った。
アマノトケリまではどれくらいだろうか。
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