カスタロフカ島放浪記

キツノ

逃げ出したくて

第1話 谷を抜けて

私の祖父、イゼット・アルカンは若き日に現在のイラクサ県のシャグモ村よりカスタロフカ島周遊の旅に出た。

本書は祖父が話していた断片的な記憶と、日記をもとに旅行記として編纂したものである。

―イゼット・アルカンの孫娘、セレン・アルカン―


いつからか漠然と、旅に出たいと思うようになっていた。

それは知識欲にかられたものなのか、終わりのない仕事の日々から解放されたいということなのか。どちらかというと後者なのかもしれない。ただこの場所から逃げ出して、自由に旅がしたいと、そんな考えが頭を巡るようになっていた。

その考えが実行に移されたのは俺が二十二歳の時、桜が散り、少したった頃である。

使いどころがなく貯まった金と、修道者になるという建前を抱えて、屋敷の前に出ると、集められた村人たちと両親から激励の言葉を授かった。

拍手をするものもいれば泣いているものもいる。そんなに親しい人間ばかりだったとは思えないが、これがイラクサの辺境とは言えど村の名家という肩書がなせる業だろう。

俺は各方向に深々と頭を下げ、貰った花束を掲げて村に背を向けた。

(花束は直ぐにそこらの石像に捧げた)。

細く蛇行した村道を下っていく。村は山の中腹にあるため、何処かへ行こうとすれば必ずこの険しい山道を下ることになる。

中ほどまで行き、少し休憩する。切り立った岩場があり、そこから景色を眺めることが出来る。

辺りに広がるのはアククラ山地という低くも険しい山々で、うっそうとした木々に包まれた山たちが大地の皺のように続いていくのが見えた。

眼下には河川が大きく蛇行しながら流れていく様が見える。この辺りは谷が深く川の流れが速いため、流れに逆らっての舟運には無理があり、川の左にある少しの陸地が上流域への唯一の交通手段となっている。

俺は休憩を挟んだのちに下山を再開した。

少しずつ川の音が大きくなっていき、杉林が開けてくると、断崖絶壁のベルキス街道に差し掛かった。街道は平らに敷き均されており、右を走るパグラム川に人や馬が落ちることが無いよう、木の杭で柵がなされている(ただ、触ってみるとかなり不安定だった。あてにはできない)。人通りは多いとは言えないが、巡礼者らしき集団は目につく。彼らはこの街道を俺と反対方向に進み、アククラ山地の最高峰、バディーニへと行きつく。四方向へ流れる大河川の水源が一方に集まり、古くから水神への信仰が盛んな場所だった。

暫く歩いていると、左右の山々が岩がちの山々に変わっていき、そしてどこからともなく滝の打ち付ける音が聞こえてくる。左方を見ると木々の間に五段に連なった滝が青く澄んだ水をパグラム川へと流し込んでいる。滝の最下段にある滝つぼは青く澄んだ聖水として扱われ、巡礼者はここでその手と足と目を清めていた。

俺も、手を滝つぼにつけて清めた。水は透明で底にある砂利の形でさえもありありと読み取ることが出来る。

「すみません」

後ろから声をかけられて振り向く。

「地元の方でしょうか」

巡礼者らしき女性二人がこちらを見下げていた。

「ええまあ」

「ここで水を汲んでも?」

「さあ、どうでしょう」

汲んでいる人間を見たことはなかった。

二人は目を見合わせると、またこちらに向き直る。

「どこまで行かれるのですか」

左の女性が聞く。

「カラカトまで行きます。なぜ?」

俺が立ち上がると、右の女性がおもむろに一通の便箋を取り出した。

「これを、カラカトの『灯篭』という宿の主人に」

「どのあたりに?」

「安宿街にあります」

俺は手紙を受け取る。別に断る理由もない。せっかくなのでそこに泊まるのもいいだろう。

女性が立ち去ると、団体の巡礼者たちが押し寄せてきたのでそそくさとその場を後にする。


眼前には杉に包まれた山が見える。山の中腹だけ木がなぎ倒されており、麓には大量の丸太が積まれていた。

近くまで来てみると丁度街道を木馬が横断していた。小太りの男が旗を振り、道行く人に静止を促す。高々と山積みされた丸太はわずか二人の男によって引かれている。

男達は半裸で、汗で体が照っていた。

小太りの男が旗を下げ、木馬道が横断できるようになる。

木馬道を越えて原木の行方を追うと、河岸で原木が筏に組まれていた。

先ほどの屈強な男二人が筏を押すと、傍にいた漕ぎ手の二人がそれに飛び乗る。

知らぬ間に隣で見物していた男児が父親に抱きかかえられ、手を振る。

漕ぎ手が振り返すが川の流れは急であり、すぐに彼らの後ろ姿しか見えなくなった。

「どこまでいくの?」

男児が聞く。

「地の果てまでさ」

父親が答えた。

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