第14話 街灯が消される前に
エスファラーイェンの市街に入ると、まずテッサリトという地区に出る。この地区は南方の玄関口になっていることから宿屋が多かった。宿はピンキリでドミトリータイプのもの、朝食とベッドのもの、夕食と朝食がついた家族向けの宿など様々だった。
俺はドミトリーを選んだ。最初は居心地が悪かった狭いベッドも、慣れてしまえばどうということはない。宿はテッサリトの北部にあり、デニスの家も近かった。また、宿の裏には井戸があり、洗濯もすることが出来た。エスファラーイェンに幾日か滞在しようと思っていた俺にとって、これはありがたかった。
エスファラーイェンの街はイラクサ南部とはまるで違っている。南部では焼杉を外壁とした平屋建ての建物がほとんどだったが、ここは大抵建物は三階建てで、切妻屋根は赤く染められ、壁面は漆喰で覆われていた。またこの街では道路は石畳で舗装されていて、歩くとコツコツとした感触があった。南部の都市で建物に入るときには砂を落とさなければならなかったがここではそんな憂慮も必要なさそうだ。
宿屋を出てタルカンという地区に向かう。そこは衣料品、雑貨、家具などの職人が多く住んでいた。
路地に入ると横長の建屋が見えた。それはよくある三階建ての家屋だったが、周囲の建物より少しばかり大きく、一階部分は石積みで出来ていた。玄関は一階と、石段を上がっての二階にあった。
俺達は石段を上がる。一階は工房、二階はリビングと聞いていたからだ。
ノックをすると足音が聞こえ、デニスが出てくる。促されて中に入ると、細長いテーブルに豪華な食事が用意されているのが見えた。七面鳥の丸焼き、かぶや人参のグラッセ、豚肉のシチュー、ローストビーフ、生ハムやクルトンが添えられたサラダ等々。
テーブルを取り囲んでいるのは十代~三十代程の若い男女四人で、彼らは行儀よく膝に手を乗せ、食事を待っていた。彼らは弟子たちだとデニスが言う。彼らは恭しくこちらにお辞儀をした。ハリーデは部屋の脇にいてパシャに乳を与えている。パシャは口をすぼめて乳房に吸い付いていた。
俺達が席に着くと、デニスが俺達を簡単に紹介し、そして食事前の祈祷を神に捧げる。イラクサではそういう文化はない。俺は彼らに倣って肘をつき、指を組んで頭を下げた。
祈りの言葉はない。沈黙と、だれかの咳が聞こえる。目を開けて顔を上げると目の前の少年が優しく微笑んだ。
食事が始まっても、どこかぎこちない空気が漂う。それもそうだ。身内のパーティに知らない人間が来たら、誰だって戸惑うだろう。
「食べる?」
「うん?ああ」
目の前の少年がポテトサラダを掬い、俺の皿に乗せた。俺は会話のきっかけだと思って話しかける。
「今日は何の日なんだ?」
「知らないの?神様が世界が作った日だよ」
隣の若い女性が口を挟む。
「神様が生まれた日よ。何回も教えてるじゃない」
俺は二人を見比べる。口と目がよく似ていた。
「二人は姉弟?」
「ええ。二人してタシケント(エスファラーイェンの西方にある小都市)から出てきたんです。」
「この仕事はどう?」
「ええと……」
女性はちらりとデニスを見て苦笑いをする。すると、どっと笑い声があがった。
「とても楽しいです」
彼女が慌ててそう添える。
「二人は夫婦?」
青年が身を乗り出してヴェローナと俺を差した。俺が首を振ると彼はヴェローナに目を向けた。
「ねえ、明日仕事終わりに広場の祝祭に行こうよ。屋台も出てる。この街じゃ一番の催事だぜ」
ヴェローナの隣に座っていた髪の長い青年も、それではと一緒に祝祭に行きたいと申し出た。
「ええと、その、イゼットさんはどうされますか?」
「俺はトゥオレ地区の繁華街へ行こうと思う」
「祝祭には?」
「気が向いたら」
では、と言ってヴェローナがこくりと頷く。
明日の夜の予定を彼らが話し始めたので、俺は隣にいるデニスに話しかける。彼は家長という言葉が嫌いらしく、所謂家長席には座らなかった。
「この街には温泉があると聞いたんですが」
「ああ、イグリという地区にある。私も数回行ったきりだが。実は、私もタシケントの出身なんだ」
「ここには、弟子入りで?」
「そうだ。十六歳の頃だ。で、ハリーデに出会った。喫茶店で彼女は店員をしていてね。僕は毎日のように通った。珈琲なんて特に好きでもないくせに」
彼がちらとハリーデを見る。彼女はパシャを膝に乗せたまま、優しく頷いた。
街灯が消される前にと外に出た。
宿に戻りベッドの上でぼんやりとしていると、ヴェローナがカーテン越しに声を掛けてきた。
「イゼットさん、入ってもいいですか」
「いいが、どうした」
「その、明日の予定を立てておきたいんです」
カーテンを開けると、彼女は手に地図を持って、ベッドの上に上がり込む。
「宿屋のご主人に頂きました。ちょっと古いようですが」
壁を背もたれに、ヴェローナは俺の隣に座る。彼女の左腿と俺の右腿を支えに地図が広げられる。
「どこに行きましょう?」
「祝祭はどうした」
「あれは、夕方からです。だからそれまで街を歩きたくて」
「そうか」
俺は宿の場所を差した後、まずトゥオレに向けた。
「ここは有名な繁華街だから、一度行ってみたいんだ。旨い店とか知らないか」
「ええと……」
彼女は首を傾げた。
「すみません、この辺りはよく知らなくて」
「そうか、じゃあ」
俺はトゥオレ地区の北部を指さした。
「アメナス地区に行ってみたいと思ってる。巨大な魚市場があるそうだから……ここで新鮮な魚を食べられたりとか、そういう店はないか?」
「……ええと、すみません。ここも良く知らなくて」
「あんまり、知らないのか?」
「ごめんなさい。その、だからこそ巡ってみたくて。いろんなところ」
そういえば、温泉にも行っていないと話していた。彼女はいったいどんな生活をしていたのだろう。
「それと、明日できればだがここに行きたいと思ってる」
俺が対岸の古城を指さす。ヴェローナは地図を覗き込む。
「シャウエン地区は通るのですか?」
「いや、古城には直通の橋が架かっているからそこを通る」
「そうです。そうでした」
やや、間があった。彼女は長い髪を耳にかけ、地図を見つめていた。
「私の家があるんです。ここに」
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