第13話 二つの城郭
朝、川沿いを一人でぶらぶらと歩いた。明け方まで雨が降っていたようで、白みがかった霧が降りて来ていた。山々の腹は霧に隠されており、突き出た稜線が雲上の島々のように連なっている。遅い日の出が差し出すと、険しい山々と霧が照らされ、幻想とも、夢想とも思えるような陰影が辺りに広がっていった。
宿に戻ると宿の主人は朝食を作り始めており、俺はキッチンに身を乗り出してその様子を眺めた。キッチンに火床はふたつあった。一つは深い鍋が乗せられている。恐らく塩のスープが入っているのものだと予想できた。もう一つの火床にはフライパンが置かれている。主人は俺をちらりと見るとバターをそこに放り込む。そして厚めに切ったパンにピクルスとチーズとローストポークを挟んでフライパンに押し付けた。
油がぐつぐつと音を立てパンに焼き色をつけていく度、香ばしい匂いが辺りに充満し朝のきりきりとした空気の中に澱みをもたらしていた。それは中々良い澱みだった。眠気が晴れ、食欲がもたらされる。一日が始まる感覚だった。
少しして主人が朝食を持ってくる。さきほどのサンドイッチと、洗ったキャベツとミニトマト、そしてベーコンとキャベツのスープだった。
主人は皆を起こしに行った。何だか実家を思い出してしまう。
宿を朝早くに出発した。御者は昨日と同じだったが、兵士は違っていた。乗り込んできた兵士に聞くと交代制であることを教えてくれた。エスファラーイェンの駅からやってきた彼らはカブライアで一泊し、また帰りの便で戻ることが出来る。彼らはクヌートの兵士だがエスファラーイェンの駐屯地で一年の大半を過ごしているとのことだった。
「カブライアへ行くのは憂鬱なんです。何もないでしょう」
兵士が言う。
「まあ、何も無いのを期待して来る人もいるだろ」
「そんな人間いませんよ」
彼は笑った。若く、細い男だった。アマノトケリ出身の十九歳で名をハイルーラと言う。昨年独り立ちして兵士となり、それから故郷には帰っていないらしい。
彼は乗客相手に喋るのが好きな様で俺にエスファラーイェンの名所かなんかを教えてくれる。それと、時々囁くように話す上官や同僚の愚痴が笑いを誘った。
「駐屯地というと、街はずれにあるあれかい。終着駅にある」
デニスが言うとハイルーラはこくりと頷く。
「実は明日、休暇なんです。親父は帰ってこいっていうけど、エスファラーイェンの方が楽しいし。行くのにも山越えるか海を渡らなきゃいけませんから」
「そうか。君くらいの年代だったらなぁ。俺もよく遊んだよ」
「どこに行かれてました?」
「それはちょっと、ここでは言えないが」
デニスが隣にいるハリーデをちらと見る。彼女はふくれっ面をした後、噴き出すように笑う。
下り坂が多いからか、馬車は昨日よりも早く進んでいる。幌馬車はほとんど外の様子が見えないため、いつの間にか外の景色が変わっているなんてことがよくあった。
「イゼットさん、山を抜けましたよ」
俺が昼寝から起きて隣を見ると、ヴェローナがそう言ってほほ笑む。
「代わってもらってもいいか」
「ええ、どうぞ」
俺は景色を見たくて後方にいたヴェローナと席を交代する。
幌馬車は河川の堤防の天端を走っていた。川は進行方向から見て左を走っていたが、草や木々に覆われていてその流れを確認することは出来ない。右方には田んぼが広がっており、少し先には丘の上に集落が築かれていた。
悪天候のせいか、遠方の風景は見えない。雨が今にも降りだしそうだった。
幌から顔を出して辺りを見渡す。広い平野が水を蓄えた田園で埋め尽くされている。小高い山々が辺りを取り囲んでいるが、それも丘ともとれるなだらかなものばかりだ。
「どうです?南部とは違うでしょう」
「ああ、こんな広い平野は見たことが無い」
ヴェローナが俺の隣で同じように幌から顔を出した。
「でも、サラフスの平原はもっと広いんですよね」
「サラフスって、東方の?」
「ええ、地平線が見えるらしいです。その、朝日が昇る瞬間は格別だとか」
想像がつかなかった。海のように起伏のない土地が続いていくような感じだろうか。
「ヴェローナの家はエスファラーイェンのどの辺りだ」
「ええと、エスファラーイェンの外れのほうです。ゴナーバード山の麓。この辺りに雰囲気は近いかもしれません」
ゴナーバード山というと、エスファラーイェンの北方にある山塊だった。
「では、よかったら案内してもらってもいいか」
「へ?」
「エスファラーイェンを。すぐに家に帰りたかったら別だが」
「……もちろんです!」
ヴェローナが敬礼のポーズをとっておどける。
思わず頬が緩んだ。
「イゼットさんが笑ってるの、初めて見ました」
「そうか」
「なんだか、嬉しいです」
二人して顔を見合わせた。
茶色の瞳が俺を見つめている。
何も言えずに黙っていると雨が降り始めてきた。急いで引っ込み、幌の入り口を閉める。
雨は次第に強くなり、幌を強く打ち付けてきた。
そういえば、と言ってハリーデが声を掛けてくる。
「雨だけど、お二人は歩いて行かれるの?」
「ええ」
「傘は?」
「ああ、そうですね。一つしか持ってません」
「じゃあ、一つ貸してあげる。エスファラーイェンにいる間に返してくれたらいいから」
そう彼女が言うと、デニスがバックパックに入れていた小さい傘を差しだした。
駅馬車は駐屯地近くの駅に止まる。そこからエスファラーイェンの市街まで行くには歩くか、民営の馬車に乗り継ぐかだった。
駐屯地からは大した距離ではない。俺は歩いていこうと思っていた。デニス達は馬車に乗るため、そこで別れることになる。
「よろしかったら、夜は家で夕食でも。傘を返していただくついでに」
ハリーデが言う。ありがたい話だった。
駅に着いてデニス達と別れる。駅はベルキス街道の終端地に置かれていた。そこから道は左右に別れ、右方を行けばエスファラーイェンの環状道路に繋がり、左方に行けばバルカシュ川を上る道となる。その道から分岐する橋を渡ればゴナーバード山塊を抜ける道につながる。
エスファラーイェンの方角には二つの城が見えた。一方は簡素な、味気ない城だが、もう一方は華美で装飾過多な城だった。
「昔、あの城には別の豪族がいたんです」
ヴェローナが簡素な城を指さして言う。
「川を挟んで二つの勢力があったのか」
「そうです、三百年ほど前の話ですけど。イビ家に屈服してしまいました」
そのままにされた古城は無慈悲にその敗北を後世に伝えていた。
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