第12話 蛍は見えない
山を下り、兵士と別れた頃には夜が更けていた。
デニスにはエーザーの両親に引き留められ、中々帰ることが出来なかったと説明した。
宿はゲストハウスのようなもので、玄関のすぐそばに居間があり、このあたりの景勝地だろうか、滝や、岩山の絵画が幾つも飾られている。絵本や本も本棚に置かれていて、ハリーデはパシャに表情豊かな声で読み聞かせをしていた。
デニス達は二部屋ある個室の一つに泊まっている。それはミアッサのあの部屋のように、大きなベッドが二つあり、小さな子連れには丁度良かった。
俺達は廊下を進んで左方にあるドミトリーに宿泊することにした。ベッドはどこでもいいと宿の主人にいわれたため、一段目で向かいの場所を取ることにした。
着替えの服とタオルを持って、外に出る。
近くに温泉があると聞き、入ってみたくなったのだ。
それは湧き出た温泉の上に掘立小屋を置いただけの小さなもので、川のほとりに立てられていた。小さなランタンが小屋の脇に掛けられていて、湧き出す湯気に色を持たせている。扉は二つあり、男女に分かれている。中を覗くと、二人入るのがやっとの円型の岩風呂が掘られており、風呂の縁に二つ風呂桶が立てかけられていた。
風呂桶で体を流し、湯舟に体を入れていく。風呂の底は砂利になっていて、足を取られるような感覚がある。
最初は足先に不安を覚えたものの、少しぬるい湯につかっているとそれもほぐれ、やわらかな快感が広がっていく。硫黄の匂いが小屋全体に充満し、顔さえも温泉に包まれていく心地よさに浸った。
扉が開く音がして、我に返る。
隣で服が地面に落ちる音と、ほどなくしてかかり湯をする音が聞こえてきた。
「すごい匂い」
ヴェローナの声がした。湯に足が浸かり、そして全身が入り込む。
彼女はため息のような声をもらす。その声色がなんだかとても艶めかしく思える。
「何の匂いだろう」
「硫黄の匂いだ」
俺は薄い木板越しに答える。
「イゼットさん!どこに行かれたかと思ってました」
「今まで風呂に入ったことはないのか」
「シャワーはありました。浴槽も。でも、その、こんな熱いお湯に入るのは初めてです」
「そうか」
「イゼットさんは?」
「俺もなかった。エスファラーイェンには大きな温泉があるんだろ」
「ええ。でも私は行ったことないんです。姉たちは小さい頃、よく行ってましたけど」
湯が跳ねる音がする。ヴェローナは一度風呂から上がったのだろう。
「姉がいたのか」
「ええ、二人。その、母が違いましたけど。私は庶子なんです」
風呂の縁に腰を掛ける。そんなに熱くないはずだが、頭が少しくらくらした。
「小さい頃は、よくいろんなことを教えてもらいました。手芸だったり、髪の編み方だったり。母も厳しかったけど、ふとした時の笑顔が嬉しかった。でも……」
それきり、沈黙があった。
「ひとつ、聞いていいか」
「ええ」
「何故帰るんだ」
「……それは、わたしの、家族だから」
「あんたの姉や母じゃない」
「でも家族ですから。母上も、姉たちもわたしが駄目な人間だって、沢山指導してくださったんです。父上だって、最後まで私を愛してくれたから」
俺は足を湯につけたまま寝っ転がる。何かいい言葉をかけることが出来ればと思うが、何も出てこない。
「俺も同じだ」では、駄目なのだ。同調するだけでは、何も変わらない。
ランタンの光が川沿いの道を照らしている。川が砂利とこすれる音と、虫の鳴き声だけが響き、歩くたびに闇は深くなってくる。
長風呂でのぼせたヴェローナはおぼつかない足取りで歩いている。肩にかけた上衣は風に揺れ、風を切って走るように腕を後ろに立てている。
俺はヴェローナの隣で川のせせらぎを聞いていた。こんなに澄んだ川ならば蛍がやってきそうなものだが、どこにもその姿は見えない。
宿に戻るとデニスが本を読んでいた。
宿の主人もいる。彼は若い男だったが髭が顔の半分も覆うほどの剛毛で、とても二十一には見えなかった。
「その、パシャは寝てしまったのですか?」
ヴェローナは濡れた髪にタオルを乗せたまま言う。
「妻と一緒に。あとは起きないことを願うだけだな」
宿の主人とデニスが笑った。二人は知り合いのようで共にウィスキーのロックをたしなんでいる。
デニスに促されてテーブルの脇に二人して座る。宿の主人がグラスを空にすると、話しかけてきた。
「二人はどこから?」
「カラカトから」
「そら、また遠いな。何の旅だ?」
「巡礼の旅、と言いたいところだが、実を言うと違う。目的もない、放浪の旅だ」
二人の男が感心したように唸る。正直褒められた行動ではないと思うが。
「確かにあてはないかもしれないが、経路は決めているんだろ」
宿の主人が言う。
「いや、今はただこの島を一周することしか考えていない」
主人は葉巻を咥えて、地図を貸してみろと言う。俺がバックパックから地図を取り出すと、そこに指でピンを差す。
「取り敢えずエスファラーイェンまでは?」
「それは、まあ」
「だとしたら、そうだなぁ」
彼は指でエスファラーイェンから海に出て、イラクサとモイウンティウムを分かつ、ゴナーバード半島をなぞるように航海していき、やがて半島の北にあるスローイア島に行きついた。島の中央には巨大な成層火山が描かれている。
「ありきたりだが、この山は一度見た方が良い」
アクメッド・シェリフはカスタロフ随一の名峰と聞く。麓にはラヴィランという宗教都市があり、巡礼者を集めていた。『嘘』として目的地としていた場所である。
「船か……」
「不満か?」
「海が苦手なんだ。昔ちょっとな」
デニスが理解したかのように手を横に振る。
「カラカト辺りは確かに揺れるが、この辺りの海ははるかに穏やかだ」
俺は腕を組んで考える。ゴナーバード半島を通るのもいいが、半島は山々で占められている。山地から離れてみたい気持ちもあった。東方へ抜ける道もあるが、これまたかなりの山越えが予想されるルートだ。ここは一つ、船旅というのもいいかもしれない。
「船かぁ、いいですね」
ヴェローナは両手で頬杖をつき、そう呟いた。地図のあちこちを眺める彼女を見て、俺はなんだかもどかしい気持ちになる。
エスファラーイェンまではあと一日、イラクサはそこが終着駅だった。
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