第23話 波音を聴きながら

チェックインを済ませ、部屋のベッドでぼんやりとくつろぐ。チェストとランプを境にベッドが二つ置かれたその部屋は、北方に掃き出し窓があり、海岸をうかがうことが出来た。窓を閉め切っても波音は一定のリズムで流れ、薄闇に包まれた気だるげな午後に一層の眠気をもたらしている。

「イゼットさん」

ベッドで横になっていると、ヴェローナが隣のベッドに座り話しかけてくる。

「何だ」

「温泉、入りたいですか?」

彼女は少し煽る様に言う。

「まあ、そうだな。明日の朝行ってもいいか?」

「ええ、それはもちろん。それで、ですね。さっき宿のご主人から面白い話を聞いたんです」

「面白い話?」

「そうです。その、ここでは海水温浴というものが流行っているらしいんです。それで、その、このお宿でもやっているとのことで」

何でもヴェローナが言うには、海水に浸かることで温泉と同じように疲労回復や疾病の予防に効果があるのだそうだ。

「大陸では男性も女性も一緒に海に入るそうなんですが、ここではできませんから、風呂釜に海水を入れていたそうなんです。そこからより効能を高めるためにかまどに火を焚くようになったとか」

海水といえば、べたべたと張り付く潮の印象が強く、そこに浸かるなど想像がつかなかない。温めると何か変わるのだろうか。潮の匂いはどうなるのだろう。

どちらにしろ、今日は温泉に入ることが出来ないのだから試してみるのもいいかと思った。肌に合わなければ濡れタオルで拭けば良いのだ。

宿の主人に温浴したい旨を伝えると、夕食後に準備すると返答があった。宿の主人は中年の女性で、目尻の寄せた皺が、親しみやすい笑顔を作り出していた。昼間対応してくれた店員は息子のようで、厨房でせかせかと調理をしている。

宿泊客は俺達以外に一組、若い夫婦が食堂の窓際の席で紅茶を飲んでいる。テラス席は閉鎖されているが、大きな窓があるおかげで、暗い闇夜にうつる白い波のあぶくを眺めることが出来るのだ。

やがて、料理が運ばれてくる。海鮮が中心で定番のマグロ、鮭、ハマチ、エビ等が刺身で並ぶ。イカやうつぼの揚げ物が深い皿に盛り付けられており、クルトン入りのサラダが脇に詰められている。ご飯は山盛りで、幾らでもお代わりしていいということだった。

ヴェローナにとってこれは苦痛そのものだった。彼女は魚類が苦手で、特に海鮮は食べていると気分が悪くなってしまうほどらしい。

店員に肉類はないかと尋ねると、親鳥の骨付き肉を出してくれた。スパイスが効いていてそして歯ごたえがあるとのことだった。

ヴェローナは手が汚れないようにフォークとスプーンで肉と格闘を繰り広げたが、やがて恐る恐る骨を掴み、肉を口に含んだ。

「あっ、すごく硬いです」

「味はどうだ?」

「普通の丸焼きよりも味が濃くて、おいしいです。でも、ちょっとべとべとします」

彼女は口元をハンカチで丁寧に拭う。俺がその様子を見ているとこちらの視線に気づいた。

「どうしたんですか?」

「なんでもない」

「でも、その、ずっと私の顔を見ていました」

彼女が首を傾げるので、俺は乱雑にサラダを口に放り込み、口元についたドレッシングを舌で拭って見せる。

「……ちょっとお下品です」

「一度やってみたかった。ハンカチも汚れないしな」

ヴェローナはハンカチと俺の口元を交互に見比べる。そして自問するように空を見上げ、舌で口先を舐めた。

「やっぱりお下品です」


親父に連れられてカヌーの練習をさせられたとき、酔いと恐怖で海に落ちてしまったことがある。親父は助けてはくれたが、すぐに帰ると言い出し、馬車に乗り込んだ。

馬車の幌には俺と親父の二人だった。親父はずっと黙り込んで後方に消えていく景色を眺めていた。カラカトの港町、果樹園、そして渓谷の滝。

ただ、俺は分かっていた。親父はずっと俺のことを見ていた。流れていく日常の中に、息子の、不甲斐ない姿を。

「どうですか?」

ヴェローナが問い掛けてくる。

釜の入り口は跨ぐには高すぎるため、木製の足場に乗って入り込む必要がある。彼女はそこに腰掛け、サンダルについた砂を落としていた。

風呂釜は宿から少し離れた砂浜にぽつんと置かれていた。釜は一つしかないとのことでどちらが先に入ろうか決めようとしたが、言い出しっぺのヴェローナは遠慮すると言う。それは人前で裸になることがどうとかいうこともあったかもしれないが、風呂釜から香る強烈な潮の匂いも原因だったかもしれない。

「臭いな」

「それはそうでしょうけど……どんな感じです?」

「べたべたする。とても療養にはなりそうにないな」

「う~ん。そんなぁ」

ただ、この光景は風流であると思った。ラヴィランはエスファラーイェンに比べはるかに田舎だが、そのために夜空には無数の星たちが光輝いていた。

そして星の光はアクメッド・シェリフ山に白い輪郭を残し、雪を頂いたその巨山に黒い影をもたらしている。それは樹海と、そして海の影と溶け込み、波打ち際まで伸びているように見えた。

「明日、もう一つしたいことがあるんです」

「何だ」

「温泉街の商店街で見つけたんです。その、樹海を案内してくれる案内所を」

「樹海を?」

「そうです。えっと、これまでずっと都市を歩いてきたので、自然に触れてみたいなと」

確かに面白そうではある。山がちな森林はいくらでも見てきたが、平地の、あれほどの大森林は見たことが無い。

「樹海で行くとしたら、そのサンダルでは無理だな」

「えっ、ああ、そうですね」

ヴェローナはサンダルを脱ぎ、足指をこすりあわせて砂を落とす。

ちらちらと揺れる彼女の足先と、足場に置かれたサンダルを見て、俺は知らず微笑んでしまっていた。

「どうしたんですか?」

「いや」



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