第24話 樹海案内所

宿のチェックアウトを済ませ、ヴェローナと海岸線をぶらぶらと歩いた。初夏の朝はまだ寒く、海風に肌を震わせる。ただ、薄暗い空は冬の重い色ではなく、ほのかな赤みを帯びていた。

温泉街は朝早くだというのに人が行きかっていた。公衆浴場にも短いながら行列が出来ており、人々は身を縮めながら開店を待っていた。

本館の行列に並び、整理券を持って中に入る。施設は思ったより広い。ロビーを挟んで大浴場は二つあり、毎日男女が入れ替わる。ロビーを奥に進むと二階へ続く階段があり、階上は大きな休憩所になっている。そこでは膨大な量の貸本を、寝そべりながらゆったりと読むことが出来た。

さて、脱衣所で服を脱ぎ念願の温泉に入ることにする。浴場は思ったよりも簡素だ。洗い場の先に大きな浴槽があり、そこから向かって右方へ向かうと露天風呂に着くことが出来る。露天にはこじんまりとした石造りの浴槽と、つぼ湯がいくつか置かれている。

体を洗い、つぼ湯に体を沈めると、体全体が心地よい熱に包まれ、思わず声が出てしまう。

「若いのに、そんなうめき声を出さんでいい」

声がして横を向くと、中年の男が俺と同じようにつぼ湯に身を投げていた。彼は肉づきがよく、顔も丸みをおびていて、湯舟から出た肩はテカテカと光っていた。

「温泉は初めてか?」

男が聞く。

「イラクサの方で何度か。ただ……ここはなんだか温泉という感じがしないんです。まるで白湯に浸かっているみたいだ」

中年男は俺の返事ににやりと笑う。「まだまだ新米だな」といった感じだ。

「溶けている成分が少ないだけだ。確かに無味無臭で実感がわかないかもしれないが、肌に与える刺激が少ないから誰でも入りやすいんだよ」

彼が言うところによると、カスタロフカ島にある大半の温泉はそのようなものらしい。決して効能が薄いわけではないのだが、よく誤解されて温泉好きからは毛嫌いされてしまうこともあるとのことだ。

おもむろに、彼は手を差し伸べて握手をせがむ。男はプラディップという名の放浪画家で、大陸の出身だった。カスタロフカに来るのは三度目とのことで、まだ足を向けていない島の東方へ向かうとのことだ。

せっかくなので島内の温泉についていくつか教えてもらう。彼は弁論家のように順序だてて、わかりやすく、それらを紹介してくれた。どれもある程度離れた場所にあり、旅の楽しみが広がりそうだ。

彼は俺が湯舟から出て、脱衣所で服を着替えているときもまだしゃべり続けていた。思えば、イラクサでも同じように温泉で何度も話しかけられた。ただそれはなぜか同世代の男ではなく、一回りも二回りも上の人達なのだ。

脱衣所から出てプラディップと別れた後、何だか自分が年老いた人間のように思えて、そそくさと休憩所へ向かった。

休憩所にはまだヴェローナはいなかった。青い畳の上には幾人もの人間が寝そべっていて動き出す素振りも見せていない。俺は彼らと同様に畳の上に寝っ転がり、隅に積まれた座布団を二枚引っ張り出して枕にする。

心地よい疲れが、重力を伴って体を沈めていく。まだ朝だというのに眠気は体を支配し、足先を動かすことさえ、面倒になってくる。

ふと、横を向いた。開かれた大きな窓は一際大きな火山を、木枠で刻みながら映し出していた。優美な山。思えばここに来てから何度もこの山を眺めていた。およそ故郷では見たことが無い火山。故郷を出なければ一度も拝むことが出来なかった雄大な景色が、俺にこの旅の意義を示しているようで、なんだか嬉しかった。


樹海の案内所は大通りの一角にひっそりとのぼりを掲げていた。

のぼりの下には四つ足の看板があり、そこにはこう書いてある。

『樹海案内 豊富な知識を持つ従業員があなたを樹海の旅へとお連れします。

 案内時刻 朝五ツより四ツ半

      四ツ半より昼八ツ

      昼八ツより夕七ツ                     』

開放的な他の商店に比べ、案内所は戸が閉められ、薄暗いカーテンのせいで中の様子を伺い知ることは出来ない。

俺達は少々ためらったものの、恐る恐る右手でドアをノックする。

何も反応はない。

二人で目を見合わせ、もう一度ノックをしようと右手を上げる。

「お待たせしました」

一人の少年が建付けの悪いドアをがらがらと開けた。歳は十代前半だろうか。幼なさの残る顔に、大人のような作り笑顔を浮かべて俺達を出迎える。

店内は思ったより整頓されていた。みたところ埃は一つもなく、床はワックスをかけたように光沢を帯びている。ナラの木材で作られた家具たちは一様に、その濃い色彩で部屋に重厚感をもたらしている。

花々が散りばめられた壁面には幾つかの絵画が掲げられている。それらは貴族が高い金を出して描かせたような人物画ではなく、動物の生き生きとした姿が映し出された絵画だった。狐、兎、イラクサでよく見たカモシカなんかもいる。

その中で目を引いたのは、一頭の鹿だった。ただの鹿ではない。白く、巨大な鹿だった。一本の木が生えているようなうっそうとした角をピンと張り、森の中、わずかに差し込んだ光に照らされながらこちらを見つめている。

「父上、お客様です」

少年が部屋の奥にある机に向かって言う。この机だけ不自然に小汚く、積み上げられた本が『父上』を隠していた。

少しして、本の山から男が顔を出す。男は息子に茶を出すように言った後、俺達を机の前にあるソファに座らせる。彼は何も言わずに煙草に火をつけ、一服をする。

男は無精ひげをなぞり、よれよれのシャツをまくって、煙を吐き出しながら挨拶をする。

「ようこそ。私はラティーフ。さっきのは息子のエッサ」

外見によらず、男の声は落ち着いていて、風格があった。

「よろしく。俺はイゼット。こちらがヴェローナ」

ラティーフは軽く会釈をする。何か返答があるかと思ったが、彼は少し黙った後、手を組んで、樹海案内の説明を始めた。

曰く、樹海案内ができるのは昼八ツからとのことだった。従業員はラティーフとエッサ含め六人しかいなく、店番を当番制で行っているらしい。

暫く説明を受けていると、エッサが紅茶を運んできてくれる。柑橘系の匂いがほのかに香る、上品な紅茶だ。

明日の案内ができるかと聞くと、ラティーフは直ぐに首を縦に振る。

「他に客は?」

「二人ほど。直前に来るお客も多いから何とも言えないが」

予約を取り付け、午後の注意点を聞いたあと、ラティーフと少し雑談をした。

最初は俺が辿った道程を話していたが、やがて話が尽きるとラティーフは自分の身の上を話し出した。

ラティーフが大陸からこの島に来た二十年前、温泉は既に湧いていたが、ハープサルはまだほとんど開発されていなかった。巡礼者もまばらで、教会は財政難に苦しんでいた。

そこに変化が生じたのは十二年前、現在のフサイン司教がスローイアに降り立ってからである。ハープサルの開発を推し進めることで大陸の富裕層や旅行者の別荘や巡礼先として、ラヴィランを認知させるに至ったのだ。

「私は当時、安定した収入がなかったから開発には積極的に参加した。ハープサルの東区にあたる住宅街は、それこそ十数年前はただの森だったんだ。私達が築き上げたといってもいい……」

木こりとして森に入って木を切っていると、森が我々を追い出そうとしてくる。ラティーフはそう言った。カモシカやリスやサルが、こちらをじっと見つめて動かないとき、言いようのない恐怖を感じたのだそうだ。

「これは、その、その時の絵ですか?」

ヴェローナが壁に掛かった絵を差して言う。

ラティーフは頷き、じっくりと絵を見つめて言う。

「大事な絵だ」


昼八ツまで暇が出来たので、エスフェルト大聖堂に足を延ばした。

教会の扉は信徒以外にも開放されていて、毎日幾人もの人々が訪れる。この日も長い行列の末にやっと中に入ることが出来た。

入ってまず目に入るのは荘厳なステンドグラスだった。それは聖堂の最奥に取り付けられ、祭壇に太陽の光を与えている。描かれた模様はよく見えないが、その色彩は見事なものだった。

聖堂は中央身廊の他に側廊を左右に二つづつ設けている。長椅子に座り祈る人もいるが、大抵は行列に身を任せて身廊を抜けていく。

せっかくなので長椅子に座り、休憩することにした。辺りは人でごった返しているが口を利くものは少なく、足音だけが響いている。

ヴェローナは長椅子に座るとやおら手を組んで祈りを始めた。小さい手を組み、目を瞑り、背中を丸める。

神への祈り。

儀礼的にしかそれを感じられなくなったのはいつのことだったか。セビトリアで祈った時も、頭の中には何の言葉も浮かんでこなかった。

「祈らないんですか?」

「やり方が分からない」

「こうするんです」

彼女は右手と左手を組んで、先ほどと同じように背中を丸める。

俺も同じように手を組み、目を瞑った。

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