白い牡鹿

第21話 人魚の歌声に導かれて

船は半島に沿って波をかき分けていく。

しばらく甲板に立ちただぼんやりと薄闇の景色を眺めていたが、闇が深くなる度に周囲の景色が溶けていくと、そそくさと船室に引き返した。

俺達が乗ったのはクルンメル号という船だった。船の客室は三階層に分かれており、それぞれ下から三等室、二等室、一等室となっている。俺達が泊った三等室はいつものように二段ベッドだった。

荷物をベッドに預け、しばらくそこで天井を見ていたが、何だかこの夜をこのまま睡眠に費やしてしまうのももったいないように思えてくる。船旅は明日の朝には終わってしまうのだ。

ヴェローナを呼ぶと、本を片手にカーテンが開かれた。少し顔色が悪いので聞くと、酔ってしまったらしい。

「じゃあ、やめておくか」

「そんなぁ。じっとしているからだめだと思うんです」

彼女は本をベッドにほっぽり出してベッドから飛び起きる。

特に行く当てもなかったので、ヴェローナの行く道々をついていくことにした。

三等室を抜けると吹き抜けのフロアに出る。天井に掛かったシャンデリアが煌びやかな色彩を放っており、フロア全体を包む重厚な木目を照らしている。シャンデリアの直下には小さなステージがあり、そこで大道芸人がジャグリングを披露していた。

なんだか見たことがある芸だなとみていると、それがエスファラーイェンで見たそれと同じと気づいた。丁度同じタイミングでエスファラーイェンを離れたということだ。大道芸人は幾人かでチームを組んでいるらしく、祭りで見た面々がずらずらと出てくる。特に面白かったのは変面というもので、仮面をかぶった男が扇子をすっと顔の前で横切らせると一瞬にして仮面が変わってしまう。終いには扇子も使わずに手を横切らせただけで変面をしていた。他の芸も面白かったが、拍手と歓声が最も大きかったのがこの芸だった。

変面を最後に芸が終わると、客は散り散りになって消えていく。ヴェローナと顔を見合わせると、彼女は申し訳なさそうに呟く。

「晩御飯は……どうしましょう?」

そういえば、船に乗ることに必死で飯を食べることに関しては何も考えていなかった。ロビーの案内を見ると、食堂があるのは特等室のある最上階だった。当然金額もそこそこするだろう。

取り敢えず食堂まで行ってみたがやはり中々の金額だった。また、雰囲気としても庶民が入っていけるような場所ではない。

「でも、私達みたいに三等室に泊った人はどうしているのでしょう」

「あらかじめ干物なんかの保存食を持ってきているのだろう」

「その、ご飯を持ってきていない人も沢山いると思います。そういう人のためにもご飯は用意されているはずです」

ヴェローナと共に船の中を探索することにした。まずは二等席、その次は三等席と満遍なく歩いていく。三等席のロビーまで戻ってきたとき、ふと乗務員に聞けばいいでではないかと当たり前の考えが浮かんだが、やめにした。食事探しを名目に船内を探索するのも悪くはない。

三階席を船首に向かって歩いていく。細い通路は人が行き交い、とても眠りにつけそうな環境ではない。人々の話声が混ざり合い、一つの喧騒となって蠢いている。赤ん坊の泣き声を横切ると三等席は途切れ、細長い廊下が続いていた。

「何もないな」

ヴェローナは首を振った。口に人差し指をあて耳を澄ますしぐさをする。

「何か聞こえませんか?」

息を潜めて立ち止まった。確かに女性の声が聞こえる。それは廊下の先にある開け放たれた扉の向こうからだった。

ヴェローナは扉に耳をあてる。興奮した面持ちで俺を見上げる。

俺が何か言う前に、彼女はゆっくりと扉を開ける。

中は倉庫らしく、埃をかぶった机や樽や家具が置かれている。

声は近づいていくうち、歌声であることがわかった。か細く、不安定な音程がはりついた空気の中をこだましていく。

急に、家具の森を抜けた。埃っぽいフローリングの木目が波打つ海のように光っている。月の光は小さな丸窓から差し込み、空虚な空間に舞う埃と、一人の少女を映し出している。

少女は小さな窓に見える海に向かって歌を歌っていた。小さな椅子の背もたれに寄りかかり、退屈そうに口を開いている。その不気味なほど白い顔を銀色の髪が撫でている。髪は後ろで乱雑にまとめられ、その小さな体についた尻尾のように頭を垂れていた。

やがて、彼女は俺達に気づいた。歌が止まり、こちらを人形のような瞳で見つめる。

「いい声ですね」

ヴェローナが手を合わせて言う。銀髪の少女は少し口を開け、「何か用?」と呟く。

俺が答える。

「そういうわけじゃない」

「迷子か何か?」

俺はかぶりを振る。

「違う。声が聞こえたから」

彼女は背もたれに掛けた右手に頬を乗せる。

「そんなこともあるのね」

それは返答というより、独り言のようだった。


銀髪の少女はイズンと名乗った。

家族や出身について聞くと、口をつぐむ。どうやら並々ならぬ事情があるらしい。

俺達は椅子を引っ張り出す。暗い夜、ただ月明りだけが互いの表情を映している。

彼女は伏し目がちに窓の外に揺れる波を眺める。

「これから何処にいくんだ」

俺は海を見つめるイズンに聞く。

「ハンメルフェストへ」

「聞いたことが無いな」

「フォルセル諸島といえばわかるかしら」

俺は地図を思い浮かべる。フォルセル諸島はカスタロフカ島の最北に位置する小さな島々だった。カスタロフカでも随一の豪雪地帯であるベルアギアを南の対岸に持つが、フォルセル諸島では雪が降ることはまれらしい。それはあまりにもからだと父は言っていた。

「そんな遠くまで。お一人なんですか?」

ヴェローナが聞く。

「ええ」

「その、危なくないですか。良かったら行けるところまで一緒に」

「……」

イズンは疲れたように頬に手をつき、また海を見つめた。

「私は、一人がいいわ」

しばらくして、そう言った。



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