第20話 夕日の先へ
次の日、酒場できつい酒を飲みながらマイサと芝居について話していた。彼女も芝居が好きだが、あの劇場は品がないからと行ったことが無いらしい。
俺は、いつも観ていたあの若い演出家の芝居が終わってしまったことを話した。騒がしい観客のせいでまともに観れたことはないが、中々興味深い恋愛物語だった。
新しい芝居のチラシを配る女に聞くと、あの若い演出家は故郷に帰ってしまったらしい。自分の才能に見切りをつけた、とのことだ。
「ここは夢の墓場なのよ」
マイサは独り言のように呟く。
俺は口を開こうとして閉じる。
小さなグラスに溶けた氷が、乳性の酒に澱みを作っている。
しばらく取り留めのない話をして外に出た。
もう遅い時間だというのに人は多く、街灯の光が道行く者の影を映している。
月は半分掛けた状態で淡い光を放っている。ふと昨日のハイルーラが放った言葉が耳をこだまする。
『朝が来るのが怖いんですよ』
石畳を歩いて大通りを南に歩いていくと、人影は増えていく。道行く人々の顔を見ながら、何も言えなかった昨日の自分を思う。
やがて一つの街灯に人だかりができていることに気づいた。
この辺りはよく歌い手が路上で演奏を行う場所だった。最初はそうだと思っていたが、音楽は聞こえてこない。ならば、大道芸人かとも思ったが、それにしては物見客が無反応だった。
人だかりをかき分け、円の中心に何があるかと進んでいくと、街灯に照らされた石畳が舞台のように開けているのが見えた。
暗い舞台の上、照明の丸い光が示す先。
不自然に白い光が照らされ、暗闇が開けた先で。
そこで、人が死んでいた。
不自然に首をもたげ、体をうつ伏せにしている。腹に刺さったナイフが血だまりの中でちらりと光っている。
ハイルーラだった。
昨日まで生きていて、一緒に酒を飲んでいた若者。
毎日が不安で、朝が来るのが怖いと言っていた青年。
おどけた声で笑い声をあげる者、深刻そうな顔で話あう者。野次馬達のどれもが彼に駆け寄ろうとはしない。ただ一定の距離を取り、この珍しい現象を見物している。
俺も、そうだった。
ただ、傍観しているだけだった。手を差し伸べようとしなかった。
野次馬の環から離れ、宿までの道を歩く。
焦点のあっていないあの目を何度も思い出し、暗闇の中で何度も振り向く。
ベッドに入り込み、目をつぶってもそうだった。
あの鮮明な舞台に映し出された彼の最期は、いつまでも頭の中を離れなかった。
朝、眠れずに目が覚めた。
暫くベッドに座ったままぼうっとしていると、ヴェローナがカーテンを少し開けてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日、うなされてました」
「ああ」
「その……どうしたんですか」
彼女は片手に珈琲を持っていた。俺の横に座り、それを手渡す。
口を近づけてみるとまだ熱かった。湯気が顔にあたり、眠気が冷めていく。
「人の死ってみたことあるか?」
「いいえ、まだ」
「その、友人が死んだんだ。……真面目な奴だった、少なくとも俺にはそう思えた。でも、奴には居場所が無かった」
柄でもなく、涙が出てきた。
「逃げろってそう言えばよかった。やめてもいいんだって、そう言えば良かった」
ヴェローナが肩を抱きしめてくれた。やわらく、そして暖かい腕が包み込む。二段ベッドの下段、朝の冷たい空気が入り込むこの空間で、珈琲と肌のぬくもりだけが確かに存在している。
ヴェローナと河岸沿いを散歩した。
バルカシュ川を流れていく船は穏やかな波音を立てながら海を目指していく。その姿を追っているといつの間にかその姿は消え去り、遥か西方にゴナーバード半島の尾端が濃い影となって現れていた。
散歩を終えて、デニスの工房へ行った。ハリーデが余った布でヴェローナに拵えてくれたらしく、それを受け取りに行ったのだ。
工房の二階にあるドアをいつものように開くと、なんだか中が騒がしい。居間には布で包まれた家具が雑然と並べられており、二人の若い弟子が大きな家具を運び出している途中だった。
「どうしたんだ」
俺は一息ついた弟子たちに聞く。
「二人、この工房をやめるんです」
悪い予感がよぎった。
「あの姉弟か」
「ええ、そうです。両親が帰って来いというんですって」
姉弟は長旅に備えて買い出しをしているとのことだった。
ヴェローナと二人で片付けの手伝いをした。姉弟は色んなものを持ち込んでいたらしい。幾つもの道具箱、カラフルで少しあせた布団、大きなタンスまで。
それらを全て積み終わり、弟子たちとすっかり空になった部屋を見た。
窓からの光が、夕日のように寂しげな色を灯している。いままでそこには何も無かったかのように、埃がふわりと空を撫でる。
エスファラーイェンを出ていこう。
明日にでも、いや、今日でもいい。
宿を引き払い、デニス一家に挨拶をする。若い弟子四人は突然の出発に驚いていた。
結局、姉弟が別れを告げる前にデニス達と別れることになった。
ハリーデの拵えた服はなんとも華美だった。彼女はヴェローナに試着を迫り、まんざらでもない顔でヴェローナは応じる。
あの空き部屋から姿を現したヴェローナは、少し恥ずかしそうに男達の前でポーズをとって見せた。
昼過ぎにデニスの家を出発する。
久しぶりにバックパックを担ぎ街を歩いていると、なんだかはやる気持ちが抑えられなくなってくる。船はこの時間では夕方の便しかなかった。
ヴェローナは見送りをしてくれるのだと言う。俺達は喫茶店に入り、だらだらと時間を潰すことにした。
しばらく会話は無かった。ヴェローナは店の装飾や、店員の動きなんかをぼうっと見ている。
「家は、あの古城に近いのか?」
「え、ええ。そうです。あの時渡った橋の、少し上流にある橋を渡ればすぐなんです」
「送ろうか?わざわざ港まで寄るのも」
「でも、えと、そうですね」
「それか、この辺りで別れようか。丁度中間地点だ」
俺は地図をテーブルに広げてヴェローナの言う橋の前を差した。彼女は地図を覗き込み、古城へ続く橋を差す。
「ここは夕日が素晴らしいですから。ここにしませんか?」
俺が頷くと、彼女はテーブルにカスタロフカ島の地図を重ねた。
「イゼットさん」
「どうした」
「この島って、その、南方の大陸とかと比べて、ひどく小さいんです。でも私達、イラクサを歩いただけですごく時間かかっちゃいました」
「大半はエスファラーイェンだったが」
ヴェローナはくすりと笑うと、それはそうですけどと前置く。
「私、思ったんです。このままこの島を巡って、南方の大陸なんかも縦断すれば、そしたらもう私はおばあさんになってしまって、もう家に帰ることもないんだろうなぁって」
俺は、そうかとだけ呟いた。
夕日が海を染めていた。その光は石造りの殺風景な橋にも色を与えていて、俺達はその暖かく冷たいアーチを昇っていく。
人はあたりにいなかった。鳶がどこかで鳴き、俺達はその姿を探す。
あそこの夕日はいいとか月はいいとか、そんなものは眉唾ものだと思っていた。
しかし、確かに夕日は綺麗だった。それは周りの景色がどうとか、そういったことではなかった。
揺れ動く球体が海に吸い込まれ、薄明が残る。紫色の雲が頭上に浮かんでいる。
隣で夕日を見ていたヴェローナが手すりから手を離した。道の真ん中で深々とお辞儀をする。
「今まで、ありがとうございました」
「ああ」
「その、お元気で」
「お元気で」
「……船の時間は大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。ただ、手続きもあるから」
「そう、そうですね」
ふたりして口ごもる。
「じゃあ、また」
「また」
「どこかで」
「……ああ」
彼女が古城に向けて歩き出す。その後ろ姿を見て、俺は言葉を探した。
同情でも、相槌でもない言葉を。
俺は口を開こうとして、閉じて、そして開く。
「ヴェローナ」
ヴェローナが振り向いた。
「一緒に来ないか」
彼女は口を小さく開けて俺を見ていた。緩い風が長い髪を揺らし顔に掛かる。頬を涙が伝い、水滴となって石畳に落ちていく。
「一緒に逃げよう」
彼女は手で涙を拭う。だらしなく鼻水も出てきて、俺は慌ててハンカチを出す。
ハンカチで鼻周りを拭ったヴェローナは、うつむいて、そして顔を上げる。
「私、逃げてもいいですか」
「ああ」
「旅をしてもいいですか」
「そうだ」
彼女が右手を差し出す。俺が右手で握手をすると、ふふっと笑う。
「やっと、名前を呼んでくれましたね」
「名前?」
「ヴェローナって」
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