第19話 祭りの夜

温泉は公衆浴場一軒のみだった。平屋建ての建物は年季が入っていて、中に入ると古本のような匂いがした。受付を済ませ、男湯の暖簾をくぐると、強烈な鉄の匂いが香ってくる。

風呂場に入ると黄土色をした結晶が風呂場全体を包み込んでいるのが分かる。かかり湯をし、湯舟に浸かると山吹色の湯面に白く薄い結晶が浮いているのが見て取れた。

それ程濃い温泉ということか。ただ、常時鼻に入り込んでくる鉄の匂いはどうも得意ではなかった。

客は老人が多かった。混んでいるというわけではないが、かといってゆっくり入ることが出来るわけでもない。湯は熱めで、客の入れ替わりは早かった。

のぼせそうになり浴槽の天端に腰かけていると、隣の老人に話しかけられる。

「あんた、この辺りの人間じゃないね」

「ええ、旅行で」

老人は馬鹿にしたように軽く笑う。

「わざわざ、こんなところに。何があるんだ」

「でも、この温泉だったりとか、魚市場とか。観る場所は多いと思いますけど」

「いやいや、こんなもん」

この街の規模に圧倒されていた身としては肩透かしを食らったような気分だった。この都市が彼の言うように「何もない場所」ならば、大陸の諸都市はもっと巨大で、何かがあるのだろうか。

老人の自分語りに耳を傾けていると、すっかり時間が経ってしまった。

風呂場から出ると心地よい疲労感が体に圧し掛かってきた。ここから街を巡るのは少しきつそうだ。

ヴェローナは外で待っていた。温泉のせいかその白い肌はより一層透明感を増していた。俺を見かけると首に掛けたタオルで額をぬぐい、「これからどうしましょう」と言うが、眠気のせいで目はとろんとしていた。

「眠いのか」

「あの、そうなんです」

「じゃあ、帰ろう」

こくりと頷く。


祭りは教会の鐘と共に始まった。夜は更けていた。

広場は人と屋台で埋め尽くされている。屋台にはとりとめのないおもちゃや、飴、少し早いと思うがジェラートなんかも売られていた。屋台で作られた道を抜けていくと、開けた広場に出る。そこでは大道芸人が踊りや、マジックを披露して場を沸かしていた。

「祭りは初めてなんです」

ジェラートを舐めながらヴェローナは言う。

「楽しいか」

「ええ。イゼットさんは」

「少々騒がしいな」

「じゃあ、あっち行きましょう」

大道芸人の踊りを見終わった後、屋台が並ぶ場所から少し外れた場所に来た。桜の木が一本、芝の上に根を張っており、その木陰に座る。

「私、この街に住んでいたのに、何も知らなかったんですね」

「移動の自由が無かったんだろう。貴族はそうだと聞く」

ヴェローナはジェラートのコーンを包んでいた紙を丁寧に折りたたむ。

「でも、私は外に出なかった。いくらでもその機会はあったはずなのに」

花火がどこからかあがった。柳のように光は垂れ、そして消えていく。

「芝居を観ないか」

「……お芝居ですか?」

「芝居どころじゃないがな」

不思議がる彼女の手を引き、広場を後にする。明かりはあるが暗い街、その中を少し駆け足で進んでいく。


劇場で芝居を観た彼女は、昨日の俺と同じようにその熱気に浮かれていたようだった。トゥオレの飲み屋街は歩いているだけで楽しい。二人で土産物屋を冷やかし、屋台でサンドイッチを買い、ただただ歩いていく。

テッサリトの宿に戻る道で、ヴェローナは酒も飲んでいないのにふらふらと揺れていた。街灯に照らされた彼女はステージ上の女優のように空を見上げ、そして俺を振り返る。

「イゼットさん」

「なんだ」

俺が彼女に近づくと、彼女は少しうつむいて、そして俺を見上げる。

「その、明けない夜はないって言うじゃないですか」

「まあ、歌とかでな」

「そうなんです。えと、立ち止まって話す話じゃないですね」

彼女はまた歩き出す。

「私、ずっと、夜は明けてほしくないって思ってたんです。どうして朝が来るんだろう。ずっと夜でいいのに。ずっと夢の中で、ベッドの中で休んでいたいのに」

靴がこつこつと鳴る。

「でも、今私、朝が来てもいいかなって思ってるんです。明けない夜はないって、それが嬉しいんです」

俺は何も言えなかった。ただ、彼女の後を歩いた。

明日も、朝は来る。


しばらくこの街にとどまっていると、旅行をしているという感覚は薄れていった。大抵、朝は早めに起きて河岸沿いをぶらぶらと散歩する。しばらくして適当な店に入って軽い朝食を取り、昼間は雑貨屋や玩具屋を冷やかす。昼になると劇場に行き、サンドイッチとともに狂乱の舞台を観劇する。その後は港まで足を延ばすか、古城に上るか、温泉に入るかだった。

それも飽きれば、デニスの工房に足を踏み入れたりした。職人達の動きを邪魔しないようただ部屋の脇にある丸椅子に座り、織機のカシャカシャという音を聞いているだけでも、俺は満足だった。

弟子の中では、姉弟の、特に弟の出来が良かった。何といっても手が早い。そして織られた布も素晴らしくなめらかだった。夕方、格子で囲まれた窓から差し込む光が淡く彼の姿を捉えると、ピアニストが舞台で鍵盤に手を添え、淡々と、自分の才能など気にせずにただ弾いていく、そんな姿が頭をよぎるのだ。


夜になると繁華街に行くことが多かった。ヴェローナはお酒を飲めないからと遠慮したが、俺は夜の怪しい空気にすっかり魅了されていた。

駐屯兵であるハイルーラとはよく話すようになった。

彼は毎晩のように女を連れて居酒屋や飯屋に現れ、上官の愚痴と同僚の不満を俺にぶちまけていた。

「たまには水でも飲まないか」

俺がそう言うと、彼はそれはできないと答える。

「酒を薄めるのは大陸の人間がやることですから」

その日の彼は特に酒が回っていた。連れてきた女がそそくさと出ていくのにも気づかずにカウンターに突っ伏したり、天を仰いだりした。

「旦那は何故故郷を離れたんです?」

俺は少しうつむいてタコの揚げ物をつまんだ。

「……自分に自信がなくなったんだ。長男として、ましてや社会人として、俺はやっていく力がなかった」

「でも、それでも仕事を放りだすことなんてできないな」

少し頭に来たが、まあそれもそうだと考え直す。

彼は芋酒を一気に飲み干す。もう顔は真っ赤で、目は充血していた。

「もう帰らないか?」

「どうしてです?」

「これ以上飲むと、明日が心配だ」

「ん、いや大丈夫ですよ」

ハイルーラはまた芋酒を飲み干すと、俺の裾を掴む。

「旦那、俺、今の仕事は辞められないんです」

「何故だ」

「俺は……俺は、向いている仕事なんかないんです。だからこの仕事をやめたら、俺には何もなくなる」

彼はイカの揚げ物を食らう。俺は片肘をつき、彼の顔を眺める。

イカの揚げ物を見つめる目つきは何処か危なげで、口元はわなわなと震えている。

それが酒のせいではないことは、彼と何日か食事を供にしてわかっていた。

彼の職場は軍隊だ。それこそ商家や農家とは比べ物にならない理不尽な仕打ちや暴力が待っている。

彼は毎晩、宿舎から抜け出して夜を過ごしているのだ。女を連れまわし、酒を飲み、その場限りの快楽に酔いしれて。


ハイルーラは店を出た後、しばらく口を開かなかった。街の明かりを抜け、薄暗い公園に辿り着くと、彼はベンチに座りましょうと言ってきた。

しばらく二人でぼうっと空の星を眺めた。まばゆい光に包まれたこの街では強い光線を放つ星のみが点々と存在を示している。

「俺、この街に来てからずっと故郷に帰っていないんです。なぜだかわかりますか?」

かぶりを振ると、ハイルーラは少し笑い、両手でベンチにもたれる。

「故郷に帰ると、ここに帰りたくなくなるんです。ずっと家にいてしまいたい。家では食後にお茶を飲むんです。たわいもない話をして……でもすごく楽しいんですよ」

俺は公園の広葉樹から見え隠れしている月を見る。

こういう時、どういう言葉をかければいいのだろう。

頑張れだとか、今は耐え時だとかそんな言葉はいくらでも聞いてきたし、声も掛けられてきた。でもその言葉に従って追い詰められてきた人たちのことも知っている。

それに、俺はそんな言葉をかけられるような人間じゃない。

ただ目の前の仕事から逃げだしてきた男だった。

しかし……、それでもなにか言葉が欲しかった。

同情とか相槌でもない言葉を、彼に、自分にかけてあげたかった。

「明日が、怖いんですよ。朝が来るのが怖いんです」

彼はぼそりと呟いた。



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