第16話 天井桟敷
一度宿に戻り、昼寝をした。起きてみると日が赤くなっている。ヴェローナは出かけていった様だった。
俺はぼさぼさになった頭を梳かしながら、どうしようかと考えた。
祝祭は明日まで行われるらしい。であるならば若い弟子二人の邪魔はするべきではない。うっかり出会ってしまっても気まずいだけだろう。
そこで、トゥオレ地区にもう一度行ってみてはどうだろうと思った。昼間では入ることが出来なかった居酒屋や、飯屋がランタンをあちらこちらに下げているに違いない。
俺は夜を待ってトゥオレ地区に赴いた。環状線を西方に行き、トゥオレのメインストリートに出る。
大きな交差点の向こうにまばゆい光が見えていた。それはメインストリートの両沿いに規律なく広がっている。道は人でごった返していて、その揺らめく波と不自然なほどの明るさが熱気に満ちた喧騒を創り出していた。
交差点の端で男がギターを弾き始める。彼の周りだけ波紋のように空間が出来ていて道行く人たちがその六弦の音に聞き入っている。誰かが小銭を投げるとそのたびに感謝の言葉を愛想よく呟いている。
ひときわ大きい店が見えた。ランタンが三階建ての建物の各階に整然と吊り下げられている。不自然に大きな、屋号が書かれた看板の元には幾人もの行列が作り出されている。
暫く本通りを真っ直ぐ歩いた。土産屋、菓子屋、飲み屋、怪しげな酒を売る酒屋も見える。そのどれもが争うようにけばけばしいほどの装飾をほどこした建物と強調表示された看板たちを晒していた。そこには田舎の小都市みたいな無機質な同一性はない。無秩序な個性ともいうべきだろうか。その少し危なげない響きを感じさせる空気が、どうしようもなく俺の心を高揚させていた。
またギターを持った人が路上に座っていた。今度は女性で、歌を歌っている。しっとりとしたその歌声に聞き入っていると俺の後ろで恋人と思われる男女が大声で口喧嘩を始めた。汚らしい罵声と優しい歌声が夜空に溶けていく。不思議な感覚だった。
永遠とも思われた長いメインストリートも、途切れるところまできた。それは前面に広がる暗闇と静寂だけで理解することが出来た。さて、どうしようと俺は思う。振り返るとまた喧騒と光があふれている。ここでは、何でも手に入りそうだった。
またもと来た道に歩みを進めていくと、初めて客寄せに引っ掛かった。
「芝居はいかがですか」
「演劇?」
「そうです。銅貨も五枚しかいらないです」
「安いな」
「ええ、でも面白さには自信がありますから」
俺は彼について劇場に入った。彼は今夜上演される舞台の演出をしているらしく、簡単なあらすじが書いたパンフレットを渡してくれた。
客席は一階の上等な席と二階の安価な席に大きく分かれていた。俺は受付で二階の右端にある席を選択した。銅貨五枚というのは二階席だけに限った話だった。
劇場に入り、席を探す。開演が近いからか客席は人で埋め尽くされていた。ただ、綺麗に席へ着いているわけではなく、手すりの傍に群がり、身を乗り出すようにして上演を待つもの、客席を三つ占領して体を横たえているもの、通路に座り込んで談笑に耽るものなど、とてもこれから開演するとは思えないほどの錯乱ぶりだった。
客席の指定などあってないようなものだと確信した俺は、手すり近くの群衆に視界を邪魔されない、舞台の真正面最後尾の席に腰を下ろした。
少しして、舞台上に役者と思われる男が出てきてハンドベルを鳴らす。開演前の注意点と思われる言葉をつらつらと読みあげ、姿を消す。客席がやかましく役者の声は断片的にしか聞こえなかった。
もしや開演してもこのやかましさなのかと思っていると、サンドイッチ売りの少年達がどこからともなく現れた。彼らはおよそ反面教師にしかなりえない、行儀の悪い大人たちに売りつけていく。一人、俺の前を少年が通ったので一般的なハムとキャベツのサンドイッチを買う。少年は受け取った金をポケットに流し込むと、俺に一瞥もせずに立ち去っていく。
サンドイッチ売りがいなくなると、ようやく芝居が始まる。先ほどと同じようにハンドベルが鳴らされ、短めの挨拶があった。その瞬間だけ劇場が静かになったが、すぐにざわめきが戻ってくる。
「駄目だな」
思わず呟く。観客の喧騒は先ほどより大きくなっていた。
芝居の内容はよくわからなかった。
面白いのは、最後尾でも役者の表情が読み取れることだった。眉毛をゆがませて嘆き、口を大きく開けて驚く。大げさともいえるが、演劇というものはそうでなければ観客に伝わらないのだろう。
最前列の客たちは喋りながらも熱心に舞台を見ているが、何かにつけ役者に罵声を浴びせ、サンドイッチを投げつける。
それでも芝居をやめず、大きな身振りで舞台上を駆け回る役者たちは何とも健気で、同情心を誘った。
劇場を出ると先ほどの若い演出家が手を前に組み、出ていく客たちに頭を下げていた。彼は俺を見つけると大きな声で「どうでしたか」とだけ聞いてきた。
俺は良かった、とだけ言おうとして立ち止まった。何か実になる言葉はないだろうか。観劇客が岩をよけて進む川のように流れていく。
「なあ」
「はい」
「あんたは、もっといい客の前でやるべきだ」
とてもいい言葉ではなかったが、何故か演出家は深々と頭を下げていた。
暫く土産屋を冷やかし、居酒屋に入ろうとしてはやめてを繰り返す。そんなに飲みたい気分でもなく、ただあの劇場のような混沌と、そして熱気を求めていた。
大通りを半分ほど戻ったところで、脇道に逸れてみる。街灯があるにはあるが、薄暗く、人通りもまばらだった。
暫く歩いているとまた大通りに突き当たる。そこはカラカトのように平屋建ての木造建築が建ち並ぶ、伝統的とも、懐古的ともいうべき通りだった。
少し大通りを散策していると、先ほどとは店の様相が違うことに気づく。露出の多い服を着た若い女性がこちらに手を振り、または手招きをしてくる。客引きも先ほどの通りとは比べ物にならないほど強い。
ここは歓楽街なのだ。カラカトと違って宿屋や他業種と混じって並んでいないことはある意味健全な光景かもしれない。
含みを持たせた屋号を掲げた看板を眺めながらただただそこらをぶらついていると、なんともいえない胸の高鳴りが体に響いていく。何処かの店に入ってみようか。いや、こんなところで金を使うわけにも……。
突然腕を掴まれた。見ると、胸と股間だけを衣装で隠した女が指を絡ませていた。
彼女が俺の腕を抱きかかえるようにして胸に挟み込む。
あどけない、少女だった。まだ十代後半くらいだろう。ぎこちなく体を寄せる少女に、興奮というよりも悲しさがこみ上げてくる。
断りをいれて離れると、また何事もなかったように彼女は道行く者を勧誘していく。
その姿を見て、何故か昼間の少女を思い出してしまった。
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