第32話 舞踏会

ヴェローナに連れられて一人掛けソファに座る。

間取りは俺の部屋と同じだ。入って正面にベランダに出るための大きな窓があり、その前にガラステーブルを挟んで一人掛けソファが二つある。

ベッドは天蓋つきのものが一つあり、薄いレースが視界をぼやかしている。中には枕が二つあり、俺の部屋にあるものと同じように夫婦用のものだとわかる。

白い、長方形の物体が仲良く頭を並べているのを見ると、同じ部屋に泊らないのは何ら不思議なことではないことに気が付いた。

ベッドは一つしかないのだ。

「お茶……はないですね」

ヴェローナは落ち着きなく鞄を探ったり、タンスを開けたりしていたが、やがてソファに落ち着く。彼女は長い髪をゆったりと垂らし、内股に両手を挟んだままこちらを見る。

俺は背もたれにもたれず猫背気味のまま、ソファのアームに右ひじをついて頬を支える。

暫く沈黙が続く。

とりとめのない話しようとは言ったが、何も言葉が出てこない。

部屋を見渡し、何か言葉の弾みになりそうなものを探す。レースのカーテン、洋服ダンス、ベッド。それらをみて、ふと思ったことことを口にする。

「本はもうしまったのか」

「あ、はい。その、お邪魔になるかと思って」

「別に、テーブルに置かれてるぐらい何も思わない。前から思っていたが、本が好きなんだな」

「そう、そうです。お父様が大きな書斎を持っていて、丁度この家のような感じの。それで、よく本を読んでいたんです」

また少し沈黙がある。俺は肘をつくのをやめて身を乗り出す。

「明日は舞踏会だろ。何を着るんだ?」

「ええと、この前デニスさんの工房で作っていただいたドレスがありましたから、それを着ようと。イゼットさんは?」

俺はかぶりを振る。

「実は何も決めてない。明日、レティツィアに聞いてみるよ。手持ちの服じゃ踊れないから」

「燕尾服とか、持ってきていないんですか?」

「まさか家出旅で舞踏用の服が必要になるなんて思わないだろ」

「ふふっ、確かにそうですね」

ヴェローナが少し笑う。もう沈黙はなさそうだ。

「エスファラーイェンにいるときは良く踊っていたのか?」

「いえ、私はあまりそういった会に参加することは無かったんです。いつも姉たちが踊るのを隅から見ていて……だから明日は楽しみで」

ヴェローナは客室用のクローゼットに向かい、ドレスを取り出して胸に当てて見せる。ふわりとドレスのフリルが舞う。

「今日も、少し一人で練習したんです。丁度その本もありましたし。こうやって……」

彼女はソファにドレスを置いて簡単なステップを踏んで見せる。たどたどしく、どうやら本当に踊り慣れてい無い様だった。

「手伝おうか」

「手伝う?ですか」

「相手になるってことだ。取り敢えずソファをどかして」

家具を隅に寄せて、ある程度のスペースをつくる。その真ん中で俺は彼女を引き寄せ、右手を後ろに回し、左手で彼女の手を握った。

「さあ、そっちも」

ヴェローナがこくりと頷き、左手を俺の肩に添える。胸を寄せ、柔らかい身体が押し当てられる。俯いて、目を合わせてはくれない。

「まず、基本からだ。左足を下げて……そうだ、そのまま右に……」

ステップを踏むたび、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。舞踏会などいくらでもあったし、何人もの女性と踊ってきた。今更何を恥ずかしく感じているのだろう。

それもましてや、ただ遊び同然でステップを踏んでいるだけなのに。

何が俺の頬を紅潮させているのだろう。

「何だか」

「ん?」

「何だか……不思議な感覚なんです。体がふわぁって軽くなって、心が高ぶって」

「非日常だからな。俺も踊るのは好きだ」

「そうなんですけど……でもこんな感覚は初めてです」

俺はヴェローナの目を見る。彼女の目もまたこちらを見ていた。

美しい、茶色がかった瞳。その瞳の中にいる俺は、まさしく彼女の言う浮遊感の中にいた。

「なあ」

「はい」

「明日、踊ろう。今度はドレスと燕尾服で」

ヴェローナは頷く。


朝、ソファに寄りかかって寝ていることに気づく。体にかかった茶色い毛布をよけて体を起こすと、薄いレースの先にあるベッドでヴェローナが寝ていることがわかる。

昨日、遊びの踊りをした後、ソファで本を読んでいたことは覚えている。どうやらそのまま寝てしまったらしい。毛布はヴェローナが掛けてくれたのだろう。

ソファから立ち上がり、ぼさぼさの髪を軽く卓上鏡で直す。ちらりとレースの向こうを見るが、ヴェローナは起きる気配が無い。似つかわしくない乱れた寝相で静かな寝息を立てている。

俺はドアをゆっくりと開け、静かに閉める。

自分の部屋に戻り服を着替えると、ノックの音と共にレティツィアの声が聞こえた。

「イゼット、朝ご飯よ」

やけに大きな声だ。


朝食を食べた後レティツィアに舞踏用の服が無いか聞くと、御父上のクローゼットにある服を使わせてもらうことになった。背丈が同じだから服のサイズも大体同じで、着るのに不自由はしない。

「どういうのが好み?」

レティツィアがラックに吊るされた服を左右にスライドさせながら聞いてくる。

「なるべく地味な方がいい。普通に黒色の……ああ、こういうのだ」

俺は黒の燕尾服を取り出す。広い下襟と白い蝶ネクタイ、実家でのパーティでもよく着ていた型だ。

俺が胸に服をあてると、レティツィアはしばらく唸り、首を振った。

「駄目か」

「うん。だって地味すぎるもの。もっと派手なほうがいいわ。特に色ね。青とか、赤とか、とにかく主張の激しい色にしないと」

彼女の選ぶ服はどれもけばけばしい。金の刺繍が入ったもの、宝石が散りばめられたもの。俺はその中でも一番装飾の落ち着いたものにしたが、それでも試着してみるとこっぱずかしい。

「王子様みたい」

「確かに、この服はそれっぽいな」

「違うわ。あなたのこと……」

鏡に映るレティツィアはぼんやりとした表情で俺の姿を見ていた。昨日の、溌溂とした明るさはない。

俺の上着に触れ、裾を触る。親指と人差し指でこすり、そしてぱっと手を離す。

「じゃあ、これにしましょう」

彼女は手をあわせてほほ笑む。


舞踏会は夜、屋敷の奥にある大広間で始まった。

オーケストラの音楽に沿って白髭の中年男性が前に出ると、それにあわせてレティツィアが前に出て二人して踊り始める。この踊りが終われば壁際に待機した紳士淑女が各曲ごとにパートナーを替えながら将来の結婚相手を探していくのだ。

俺は曲の途中で食堂に引っ込み、飯をつまむことにする。食堂に繋がる扉を開けると、そこには中年の男女が幾人かおり、談笑に励んでいた。通常長テーブルが置かれているこの部屋に、今は丸テーブルが幾つか置かれていて、そこに食事と飲み物が用意されていた。

丸テーブルの中央に置かれているクッキーをつまむ。素朴なバニラ味だが、これがなんとも美味しい。他にはシフォンケーキ、ゼリー、ヨーグルト、サンドウィッチ等が並ぶ。夕食としては中々きついものがあるが、舞踏会で口元にソースがついていたり、ニンニクの匂いがついたまま踊るのは確かに不格好ではある。

少し食べてから大広間に戻る。丁度、二曲目が終わったころだった。壁際に追いやられた男女がすっと立ち上がり、獲物を探すように歩き回る。三回くらいこれを続けてまだ誰とも踊れていなかったら、両親の目も相まって相当な苦痛を受けることになる。ただ、今日の俺はただの旅人だ。踊りに誘われなくても焦ることはない。

壁際でちまちまとワインを含んでいると、レティツィアがこちらに手を振っていることに気づく。彼女は花弁のようにふくらみを持った赤いドレスに身を包んでいた。大きくくりりとした目。あどけなさの残る口元。彼女の美しさを示すそれらは情熱的な赤によってより一層際立って見える。

彼女の周りには幾人かの男が囲っている。紋様が描かれたもの、テカテカと光沢があるもの、彼らの服装は皆派手だ。クローゼットの前でレティツィアが話していたことは嘘ではないらしい。この辺りではとにかく主張が激しくなければならないのだ。

レティツィアが男達に断りをいれて俺のところに駆け寄ってくる。ふりふりと揺れるドレスを見ながら、俺は自然と手を前に組んでいた。

「踊って!」

「ああ」

彼女に引きずられて広間の中央に躍り出る。俺は彼女の腰に手を廻し、もう片方の手でその小さな右手を握る。

音楽が始まる。ゆるやかな拍子だ。最初は少しぎこちなかったが、やがて弦楽器の音に体を預けられるようになってくる。

「舞踏会は初めて?」

レティツィアが聞く。

「いや、何度か」

「だと思った。一昨日はただの農民だって言ってたけど、もっと高貴な身分でしょ」

「農民ではある。ただ、少し周りよりは裕福だった」

「じゃあ、私と一緒ね。粗野に振舞おうとしているけど、それなりの教育は受けてきたのが分かるわ」

親父のお陰だろうか。粗野に振舞っていたつもりはないが、肩の力を抜いて旅をしてきたのは確かだ。それでも幼少期から叩き込まれた教えは簡単に消えるものではない。

「食事は?もう済ませた?」

「ああ、美味いな」

「もう、それだけ?」

「バニラ味のクッキーが中央の丸テーブルに置かれている。ひとしきりつまんだがそれが一番だ」

「うん。それが正解。具体的に言わなくちゃ、女の子は満足しないから」

「あんたが焼いたのか?」

「ううん。違うわ。味見もしてないし」

「じゃあ、また食べたらいい。あれは美味い」

レティツィアは少し考えたように目を逸らし、そして軽く首を振る。

「駄目よ。ご飯食べたらお腹膨れちゃうから」

「クッキーくらいなら問題なくないか」

「でも、嫌なの。私、お腹膨れやすい方だから。飲み物とかもだから。だから……今日はずっと準備してきて……」

彼女は言葉の途中で俺の胸に顔を埋めた。彼女の息遣いが聞こえる。

「今日は、あなたと踊りたいの」


レティツィアと一緒になって二曲目になり、三曲目に入っても彼女は離してくれなかった。胸から顔を上げてはいるものの、その目は潤んでいて、一言も口を利こうとはしなかった。

流石に四回も同じ相手と踊ると印象は良くない。俺はレティツィアの目を覗き込んで、彼女に声を掛けようと口を開いた。

「私、王子様をずっと夢見てた」

俺が言葉を発する前に、彼女の声が唇から響いた。

「白馬に乗った王子様。近くに何もない屋敷で、来るのは家柄ばかりの男達で。でもあのとき、白馬には乗っていなかったけど、美しい白髪のあなたが現れた」

彼女は続ける。

「あなたは綺麗だった。王子様そのものだった。だから私、あなたに気づいてもらいたくてリボンを川に流したの」

レティシアは広間の中央でステップを止めた。

少し背伸びをして、耳元に近づく。

「あなたが好き」

かかとを落とす。

「でも、あなたは違う」

俺は自分の愚かさを痛感した。

今日が終われば、ではない。

熱が冷めれば、ではないのだ。

彼女の気持ちに気づいていながら、その気持ちを野放しにしたまま、ただ逃げていこうとした。

俺は彼女の右手を降ろす。腰の手をほどき、彼女の両手を取って向き合う。

レティツィアは目を合わせてくれない。ただ俺は彼女の瞳を覗き込んで言う。

「俺は……俺は、君を幸せにできない。恋人にはなれない」

「うん」

未だに音楽は鳴り続けているというのに、俺達は立ちすくんでいた。ステップを踏む周囲の男女から好奇の目を向けられながらも、ただ薄い殻に閉じこもったように。

レティツィアは鼻で息をして、口で大きく吐く。そのまま上目で俺をじっと見つめる。涙で潤んだ目、今にも涙がこぼれ落ちそうな目はぱっと閉じられ、彼女はくしゃっとした笑顔を浮かべた。

「馬鹿。もうちょっとフォローしないと。友達としてまた会いたいとか、首都に着いたら手紙を出すとか」

「ああ、すまん」

「ふふっ、もう少し踊ろ。変な二人と思われちゃうから」

俺の手を腰と右手に沿わせ、また踊り出す。

拍が速い曲だ。楽しく踊らないと損だろう。

足と手に力を込めた。


「壁の花になってしまいました」

ヴェローナが苦笑しながら言う。彼女の容姿であれば何人か言い寄ってきそうだが、素性のしれない人間だからだろうか。彼女は早々に食堂へ引っ込み、クッキーと紅茶を嗜んでいたらしい。

「結局一緒に踊れませんでしたね」

「あと一曲残っているが」

「ええと……、どうしましょう」

「無理に踊らなくていい。本当はこういう場も得意ではないんじゃないのか?」

「その、はい。人が沢山いると緊張してしまうんです」

二人してベランダに出ていた。紅茶を口に含むと、不思議と気分が落ち着いていくのを感じる。今日はなんだかよく眠れそうだった。

「イゼットさん」

「何だ」

「まだ、旅は終わらないですよね」

「まだ半分も行ってないからな。どうして?」

「いえ、その、何でもないです」

ヴェローナは食堂に飲み物を取りに行くと言ってベランダを出ていく。

俺は柵に寄りかかり、ぼうっと星を眺めた。

テンポの速い音楽が、夜の暗闇に似つかわしくない高揚感を掻き立てている。

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2024年11月29日 20:00

カスタロフカ島放浪記 キツノ @giradoga

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