第37話



37.





「礼儀がないのは相変わらずね。目上の人には先に挨拶でしょ。そうやってじっと見てるだけでいいと思ってる?」


腕を組んで顎を上げて話す恵子を注意深く見つめていた佳純が歯を食いしばって小さく礼をした。


「おはよう…ございます」


佳純を冷たく見下ろしていた恵子は階段を下りてくる隼人を見つけると佳純を顎で使った。


「あの人のところに行って、食事だって伝えてきなさい」


恵子の言葉に佳純は彼女の横を通り過ぎ、一樹がいる部屋へ向かった。そんな佳純をじっと見ていた隼人は自分に向けられた恵子の視線を感じると、すかさず挨拶をした。


「母さん、おはよう」


何か不満な表情で隼人を注視していた恵子が彼のそばにゆっくりと近づいてきた。


「あの子がいるのは気にならない?」


口は笑っているが、目は空に向かってつり上がっていた。本心ではない言葉を言うときに癖のように現れる恵子の表情。隼人は努めて淡々と答えた。


「大丈夫です」


「気にならないではなくって、大丈夫?」


皮肉るように聞き返す恵子の目つきに冷たい空気がしばらく映って消えた。


「そう。よかったわ。あなたが佳純のことを妹として気楽に考えているようで」


「……」


「とにかくこの家に戻ってきた以上、よくしてあげないとね?あの子に残された家族は私たちしかいないんだから」


嫌みたらしい意味深な言葉に隼人の胸は冷たい風に向き合ったように冷えた。


家族。この家に佳純がやってきたからには、家族として過ごすしかなかった。無視しようとした現実と向き合わせようとする恵子の言葉に、いつのまにか隼人の顔に暗い影が落ちていた。


「さぁ、朝食を食べに行きましょう。お父さんが待ってるわ」


隼人はかすかに笑みを浮かべて振り返る恵子を黙って見ていた。


「家族か…」


抑えきれない感情が湧いてきて、目をぎゅっと閉じた隼人はもどかしい気持ちで深くため息をついた。




* * *




学期の最終試験が終わり、疲れたように講義室から出てきた佳純は建物の入口に見慣れた顔を見つけた。


「玄暉くん?」


怪しむ彼女の目が向かった先には、チャイナカラーのコートに黒のパンツに身を包んだ玄暉が柱に背をもたれて本を読んでいた。ちらちらと見る女性達の視線にも読書だけに専念している玄暉をじっと見ていた佳純は、慎重に彼のほうへ近づいた。


「あの、玄暉…」


「佳純ちゃん!」


先に声をかけようとした佳純を見つけた玄暉が明るい笑顔で喜んだ。


「もう終わった?」


耳に付けていたイヤフォンを外しながら玄暉が聞くと、佳純は小さく微笑み答えた。


「うん。玄暉くんも今日は授業だったの?」


「ううん。佳純ちゃんに会いに来たんだ。会いたくて」


玄暉がニッコリ笑いながら言うと、佳純は動きを止めた。照れくさい言葉を言っても平気な玄暉とは違い、彼の言葉に戸惑った佳純の顔は一瞬にして真っ赤になった。


どうしてこんな言葉を考えもしないタイミングでストレートに言えるのか、疑問と共に佳純は戸惑いを隠せなかった。


「期末試験は全部終わったの?」


佳純がぎこちなく話を変えて聞くと、玄暉がニコニコしながらうなずいた。


「うん。先週全部終わったんだ」


「先週?じゃあ学校にはどうしてきたの?」


玄暉がにやりと口を上げた。


「実は佳純ちゃんに話があって来たんだ」


話?意味深な玄暉の言葉に佳純は首をかしげた。


「どういう話?」


「あのさ、作家のアシスタントしてみない?」


「アシスタント?」


突然何を言うのかと佳純は目を細めた。


「メビウスの帯ってレニーの小説知ってるよね?今度映画化される作品」


レニーという言葉に佳純の顔がほころんだ。


「うん。もちろん知ってる」


「実は、僕の叔母さんが出版社で働いてて、レニーとつながりがあってさ。レニーがシナリオ制作を手伝ってくれるアシスタントを捜してくれって頼んできたみたいで。僕に声がかかったんだけど、僕は休み中にも授業があるんだよ。で、もしかしてやってみる気があれば紹介しようと思うんだけど…。どうかな?」


玄暉の言葉に佳純は戸惑った表情を浮かべた。レニーを手伝うアシスタントなんて、信じられないのか佳純の両目がいつの間にかまん丸になっていた。


「私には経験もないし、まだ勉強し始めたばかりの学生なのよ。それでも大丈夫なの?」


まだまだ力の足りない自分のせいで、玄暉や彼の叔母さんに迷惑をかけてしまうのではないかという思いに、佳純は慎重に尋ねた。しかし、玄暉はそんな心配はいらないと言うように力強くうなずいた。


「もちろん!そんなに難しいことじゃないよ。心配しないで経験積むためにやってみれば?」


「経験を積む…?」


「将来、作家になりたいんだよね?レニーの隣にいれば、きっと助けになるはずだよ」


特に「隣にいれば」という言葉に力を込めた


玄暉は期待のこもった表情で佳純の答えを待った。


「もしも、レニーが私のこと気に入らなかったら…」


「そんなことない!気に入るよ」


ためらう佳純の言葉に本能的に答えた玄暉は少し恥ずかしかったのか頭を掻きながら言った。


「ぼ…僕がもしレニーなら、絶対に君のこと気に入ると思う…。ヘヘッ。それにそんな心配はしなくていいよ」


玄暉の言葉に悩んでいた佳純は決心したように、はっきりとした声で言った。


「じゃあ、お願いしたい。その仕事、絶対にやってみたい」


初めて見る意欲あふれる佳純の姿に玄暉の口元にいつのまにか笑みが広がった。


「いいね!じゃあ明日一緒に出版社に行こう。まずは叔母さんを紹介するね」


玄暉の言葉に頷いた佳純の表情に緊張の色が見えた。あんなに憧れていたレニーに会えるなんて。期待感に既に佳純の心臓が激しく鼓動した。


「重要な約束があるから、今日は家に送ってあげられないんだけど、どうしよう」


校門の前に着くと、玄暉が時計をちらりと確認し佳純を振り向きながら言った。


「いいの。私のことは気にしないで早く行って」


手を振って話す佳純を、玄暉が申し訳なさと残念な気持ちが入り交じった表情で見つめた。


「そうか。じゃあ気をつけてね。また明日!」


「うん。またね」


短く挨拶を交わしたあと、玄暉と別れて1人残された佳純は、周りを見回すと繁華街のほうへ向かった。


佳純は家に早く帰りたくない気持ちで、しばらくぼんやりと道を歩いていた。そうするうちにふと道ばたで売られていた焼き鳥を見つけ、ちょうど音を立てているお腹を撫でた。そういえば試験のことに気を取られていて食事を取っていなかったので、とてもお腹がすいていた。


普段なら、通り過ぎる屋台料理だったが、今日に限って特に食べてみたいと思い、佳純は屋台に近づき人のよさそうな女性に焼き鳥を指差して言った。

「これを1つください」

佳純が注文すると、女店主がにっこりと笑いながら焼き鳥を1本温めてから佳純に渡してくれた。おいしそうなにおいに佳純は慎重に焼き鳥を口に運んだ。思っていたよりもずっとおいしかった。彼女はすぐに1本平らげると、隣に売っていたアイスクリームも手に取っていた。


学校が終わると急いで家に帰っていたため、周りの繁華街をまともに見て回ったことがなかった佳純は、両目を輝かせながら商店街のあちこちをのぞきながら見て回った。


かわいらしいアクセサリーや、個性的な洋服に靴、デパートに並ぶ商品とはまた別の魅力に佳純は視線をそらすことができなかった。


こうしてしばらく見て回るのに余念のなかった佳純はカバンの中で鳴る携帯電話の振動音に足を止めて電話を取りだして確認した。


お兄ちゃん?


隼人からかかってきたことを確認した佳純は、気軽に出ることができず、しばらくためらっていた。もしかして学校の前に来てるのではないか、という考えに佳純は再び戻ろうとした。その時、振動が止まり彼女の目の前に隼人が現れた。突然現れた彼に驚いた佳純は一歩後ずさりした。


「もう俺の電話は簡単に無視するんだな」


手に持った携帯電話を振りながら、隼人が静かに尋ねると、佳純が戸惑った表情で口を開いた。


「どうしてここだって…」


「学校の前からついてきたんだが、全然気づかないから。お前って、本当に鈍いんだな」


隼人がそっと目を上げて話すと、佳純の顔が一瞬赤くなった。全く気配に気づかなかった。食べ歩きと、見て回るのに気を取られていた。


訳もなく恥ずかしい気持ちで佳純は隼人の視線を避けて彼に背を向けて歩いていった。


「今日の約束はキャンセルか?」


口を閉じて先を歩く佳純のそばに近づき隼人が優しく尋ねた。


「もう少ししてから会うのよ」


「あぁ、そうなのか。俺はお前が1人で食べ歩きをしてるから、約束がキャンセルになったのかと思った」


肩をすくめてアイスクリームを眺める隼人の視線に、佳純の顔が上気した。お腹がすいていて、焼き鳥を一気に食べたのを思い出し、佳純の口から自ずと咳が漏れた。


「1人で食べたら旨いか?」


隼人がアイスクリームを視線で刺しながら聞くと、佳純がいぶかしい目をして隼人をちらりと振り返った。


「お兄ちゃんは、こういうの食べないでしょ」


「お前が食べてるのを見てたら、旨そうで」


隼人の答えにしばらく留まっていた佳純は足を止めるとアイスクリームの店があるほうを指差した。


「食べたいなら買ってあげる」


佳純がすぐに店のほうへ足を向けると、隼人が彼女の手を掴んだ。


「いいよ」


隼人がアイスクリームを持っている佳純の右手を引っ張り、甘いクリームを一口かじった。突然の行動に戸惑い驚いた目をした佳純とは違い、隼人の表情は淡々としていた。


「お前が食べてたのだから…」


「……」


「もっと旨いんだな」


冗談なのか本気なのか分らない彼の言葉に佳純の顔が一瞬にして真っ赤になった。


何気ない表情で、いつの間にか自分の手にあったアイスクリームを奪う彼を見ていると、なぜだかわからない妙な感情に、心臓がドキドキした。こんな一面があったのか?普段とは違う雰囲気に佳純は隼人から視線を離せなかった。


「何をそんなに見てるんだ?」


佳純の視線を意識した隼人が振り向いて尋ねた。慌てた佳純は俯きながら急いで答えた。


「違うの。私…私は!約束の時間だからもう行くわ。後で家でね」


隼人と少しでも一緒にいると、何かしでかしてしまうのではないかという予感に、佳純は隼人を振り向きもせず急いで足を早めた。隼人はアイスクリームを横にあったゴミ箱に捨てると急いで佳純を追いかけて手首を掴んだ。


「ちょっと話がある」


真剣な隼人の声に佳純がいぶかしい顔で振り向いた。


「何の話?」


佳純が聞き返すと、しばらく言葉をためらっていた隼人がゆっくりと口を開いた。


「もしも俺とお前が本当の兄妹じゃなかったら…」


兄弟じゃないと知ったら…


「お前のことを好きになってもいいか?」


激しく動き出す心臓の音を感じた佳純は、思わず一歩後ずさりした。強烈な隼人のひと言に佳純の頭の中は真っ白になり、全身が炎に包まれたかのように熱くなった。


「それってどういう…」


「もう一度言おうか?今言ったこと?」


低い隼人の声に佳純はびっくりしながら素早く応えた。


「言わなくていい」


手首を捕まえている隼人の手を素早く振りほどいた佳純の顔は戸惑っているのが歴然だった。彼女の指先がいつの間にか細かく震えていた。


どうやって表情をコントロールすればいいのかわからず、佳純はしばらく視線を下に向けたまま息を止めた。必死で消そうとした過去の隼人に対する感情が、再び嘘のようにこみ上げ、佳純の心臓を突き動かすようだった。抑えきれない感情。戸惑っていた佳純は素早く隼人の視線を避け、背を向けて立った。


「私、本当に約束に遅れちゃうから、もう行くね」


息を止めてやっと言葉を吐き出した佳純は、そのまま前だけを見て歩き始めた。このまま隼人と一緒にいると、どうにかなりそうだった。


どうにかして隼人の視界から遠ざかろうと、歩みを早めていた佳純は、いつの間にか追ってきて自分を遮る隼人に足を止めるしかなかった。


「何してるのよ。どいて」


「まだ話は終わってない」


「お兄ちゃん!やめて…」


「好きなんだ」


佳純の言葉を遮り隼人がひと言吐き出した。


「お前と俺が兄妹だろうとなかろうと、関係なく、お前が好きなんだ」


隼人を無視しようとしていた佳純の心臓が、一瞬どきっとした。


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