第6話
6.
佳純は玄暉の問いに、彼の顔をまじまじと見つめた。見ているだけで自然に笑顔になってしまう彼が、積極的に近づくと胸がドキドキした。シックでカリスマ溢れる隼人とは反対に、柔らかく優しい姿の玄暉は佳純にとって、別世界の人間のように感じられた。
「そうね」
「じゃあタメ口で話すよ」
断られるんじゃないかと気をもんでいた玄暉は、佳純の答えに早速タメ口で話し始めた。偶然掴んだ縁を、何としても逃したくなかった。
どうすれば、もっと親しくなれるだろうか。どうすれば、自分のことを負担に感じないだろうか。そんな思いで頭がいっぱいになるほど気になる佳純と、どうにかして縁をつなぎ止めたいというのが、正直な気持ちだった。
「次の授業さ…」
ブーン、ブーン――
会話を続けようとしていた玄暉は、佳純のカバンから聞こえる音に驚き、話を止めた。佳純はカバンから急いで携帯電話を取り出した。
[お兄ちゃん]
彼女の目の色が一瞬にして曇り、手に持っていた箸を落としてしまった。
「大丈夫?」
玄暉は驚き身を震わせる佳純の反応に困惑し、床に落ちた箸を拾った。
「あっ。ご…ごめん」
「新しいの取ってくる。ちょっと待ってて」
佳純は大丈夫だと手を振ったが、玄暉は急いで箸を取りに行った。一人残された佳純は、再び携帯電話の画面を見つめた。鳴り続ける携帯電話。彼女は不安げな表情で通話ボタンを押すと、耳に電話をあてた。
「はい…」
話そうと声を出した佳純の耳に、隼人の声が響く。
―授業中か?
重く低い声、佳純は玄暉のことを目で追いながら、できる限り明るい声で答えた。
「ご飯食べてる」
―学校で?
よほどのことがない限り、佳純が学食で食事を取ることはないと知っている隼人は、疑うように聞き返した。
「うん。ところで、こんな時間にどうしたの?」
いつもは学校にいる時間には連絡はしてこない。それなのに、どうしたんだろう。
―今日は行くところがあるから、終わったら連絡しろ。学校の前で待ってる。
どこに行くのか隼人に聞こうとした佳純は、こちらに向かってくる玄暉が見えると、言葉を飲み込んだ。心臓が激しく鼓動し始めた。その瞬間、脳裏をかすめる彼の忠告。佳純はすぐさま首を回すと、急いで話した。
「わかった。もう授業に行かないといけないから」
―そうか。
佳純は隼人が話し終わるとすぐに、電話を切った。いつの間にか戻ってきた玄暉を、何事もなかったように淡々とした表情で見つめた。危うく彼の声が隼人に聞こえてしまう所だった。
「ありがとう」
佳純は箸を受け取り、決まり悪そうに礼を言った。玄暉はどういたしましてと言うとすぐ、再び食事をはじめた。しばらく静寂が流れ、ぎこちなさに俯いたままカレーをいじくっている佳純に、玄暉が突然質問を投げかけた。
「もしかして、彼氏いる?」
* * *
佳純との通話が終わると、隼人は疲れた顔で椅子に体を投げ出し、深くため息をついた。このところ、佳純のことや新たに推進している事業のことなど、気をつかいすぎたせいか、極度に押し寄せる疲労に疲れ果てていた。
コンコン
少しの間、目を閉じていた隼人はノックの音に体を起こした。程なくして、事務所の中へ秘書の木村玲香(きむら れいか)が入ってきて、隼人は腕時計を見ながら尋ねた。
「皆さん、会議室に集まりましたか?」
普通の人には難しい独特なデザインのスーツを着こなす隼人と目が合った瞬間、玲香は言葉に詰まった。
上司が格好よすぎるのも問題だ。しきりに私的な感情を抱いてしまい、今のような失敗をしてしまう。やっとの事で気を引き締めた玲香が、腕を組んだまま待っている隼人に答えた。
「はい。皆さまお集まりです。専務」
「行こう」
玲香はうなずくと、立ち上がって先を歩く隼人の後を追った。常に完璧な隼人は、女性であれば誰もが羨望の眼差しを送るだろう。ただ、仕事においては厳しい性格であるため、秘書がよく変わることがあったが、玲香は不屈の精神で彼を補佐して1年が過ぎていた。
隼人を見るたびに、抑えきれない気持ちが生まれて障害になったが、そのたびに強い自制心で耐えていた。いずれにせよ、現実的にあり得ない間柄であることは誰よりも分かっていたので、自分の感情を憧れという名ばかりの感情に置き換えて包み隠し、彼に長い間仕えてきたのだ。
「頼んでいた物は、どうなったかな?」
会議室に向かう途中、隼人は突然振り向くと尋ねた。玲香は待っていたかのように、余裕の微笑みを見せながら答えた。
「この後、受け取りにいく予定です。直接お嬢様に…」
「いや。俺が直接店に行くと伝えて」
「専務がですか?」
「ああ」
「あ…承知いたしました」
隼人の言葉に玲香は頷いた。言われてみれば、この人は容姿の素晴らしさだけではなく、妹を特別に気づかう細やかなところがある。どうして、これほどまでに完璧なんだろう?感嘆しながら隼人の後ろをついていた玲香は、会議室のドアの前で立ち止まる隼人のそばに慎重に近づいた。
ドアの隙間から中年男性の声が漏れ聞こえている。隼人にどうして入らないのか聞こうとした彼女は、冷たくなった彼の表情に息を殺し、会議室から聞こえる会話に耳を澄ませた。
「我が社は、あんな文化コンテンツだかなんだかの事業を進めている場合でしょうか?」
「今がどれだけ重要な時期か…三石(みついし)グループと共同で推進することになったオイル貯蔵事業を差し置いて、あんな事業を推進するとは呆れて物が言えません。若造が出しゃばる姿を見ると、私がこの会社に捧げてきた人生は何だったんだと疑問に思える」
「それは言い過ぎですよ。それでも将来、紅海(こうかい)グループを率いる後継者であり会長の息子なんですよ」
「そこなんですよ。正直、会長の実子ではないという噂も広がっているではありませんか?紅海グループの会長夫人ともあろうお方が、若い男と遊んでいるんだ。まぁ、噂も本当かもしれませんね…」
バタン!
静かにドアの前で彼らの話を聞いていた隼人は、突然ドアが壊れるほど強く開け、会議室に入っていった。暗い表情で彼の顔色をうかがっていた玲香は驚いて、思わず目をギュッと閉じてしまったた。
ゆっくりと訪れる静寂。震える胸を落ち着かせ、重いまぶたをゆっくりと持ち上げた彼女は、その瞬間に見えた隼人の目つきに、固唾を吞んだ。冷ややかな表情と殺気に満ちた目つき。彼に仕えてから1年、こんな姿を見るのは初めてだった。
絶体絶命の瞬間。年配の幹部役員たちは慌てた表情で、ゆっくりと中に入ってくる隼人の顔色をうかがうのに忙しく、何人かは準備された水をゴクゴクと飲み始めた。
ぎこちない雰囲気の中、隼人は役員一人ひとりを記憶に焼き付けるかのように、冷たく見回した。そうして自分と目を合わせられない役員たちに向かって低い声で話した。
「先にご挨拶できず、申し訳ございません…」
「……」
「まぁ、挨拶自体が不愉快なようですので、省略しましょう。私からの配慮だと考えていただければと思います」
隼人の言葉に役員たちは気分を害したのか顔をしかめたが、得体の知れない不安感から言い返すこともできず、隼人の顔色をうかがうばかりだった。隼人は平然と着席すると、話を続けた。
「数日後には会長の出版記念兼紅海グループの関係会社の一つであるA&Tの創立記念パーティーが行われます。その前に、明らかにしておきたいことがあり、この場にお集まりいただきました」
隼人の言葉に会議室はざわめいた。
「紅海グループを見くびっている方が数名いらっしゃるようですので申し上げますが、私が紅海グループに足を踏み入れた以上、あら探しをするようにあちこちかき回すようなことは考えないほうがいい」
「柳原専務!お言葉が過ぎるのでは…」
「助言ですよ、高橋常務。しくじってはいけませんので、こうやって親切にね」
柔らかい微笑みを浮かべていたが、その目は殺気に満ちていた。高橋常務は魚のように口をパクパクさせながら、あきれ顔で隼人を見ていた。しかし、すぐに隼人の気に押されて何も言えず口を閉ざした。
「今回のA&Tの設立の意味が何か、おわかりでない皆さんの姿よりも、あれだけ望んでいたオイル貯蔵事業が立ち消えたのがA&Tのせいだと誤解されている方が多いとう点についてより失望しています」
「それは、どういう意味ですか!」
それとなく出た隼人の見下した言葉遣いに、激怒した高橋の声が響き渡った。若造が何を言っているとでも言いたげに睨み付ける彼の目つきにも、隼人は顔色一つ変えずに淡々と続けた。
「オイル貯蔵事業に手を出した瞬間に繰り広げられるハイエナの争いに紅海グループが傷つく前に、芽を摘んだんです」
「専務!今のお話は…」
興奮した状態で話していた高橋常務は、自分をまっすぐ見つめる隼人の眼差しに言葉を飲み込んだ。
「高橋常務がオイル貯蔵事業を進めるために、どれだけご尽力されたか誰よりも分かっています」
隼人は少し話を止め、高橋常務を薄く開いた目で見上げた。
「三石グループと、どのような取り引きがあったのかも知っています」
隼人が秘密を語るようにささやくと、高橋は緊張した。今すぐにでも爆発しそうな隼人に反論でもしようものなら、頑なに守ってきたこの地位を退かなければならなくなると感じたのだ。酷く苛立った心が、そう告げていた。
「ほかに何かおっしゃりたいことは?」
隼人は高橋が震える手をテーブルの下に隠すのを見て、追い打ちをかけるように聞き返した。高橋は歯を食いしばり、何も言い返すことができなかった。そんな彼の態度にほかの役員たちも粛然とした姿勢で俯くと、隼人はテーブルの片隅におかれた書類を玲香に指さし、話した。
「資料を配ってください」
「はい、専務」
玲香が書類を全員に配ると、隼人が全員をしっかりと見回し、多少高圧的な口調で伝えた。
「今後A&Tが成長していくための事業目標、および企画案ですので、ご検討いただき、将来の成長の可能性と方向性についてお考えください」
紙をめくる音が会議室を埋め尽くし、不満顔の役員たちに隼人は最後に鋭い警告を突きつけた。
「それから今後、私を含む紅海グループに関するデマがあなた方の口から出た場合…」
「……」
「紅海グループには残れないことを覚えておいてください」
* * *
「それでは本日の授業はこれまで」
教授の言葉で最後の授業が終わった。佳純はゆっくりと本をカバンに入れ、ボーッとした目つきで講義室を出た。
もしかして、彼氏いる?
彼女の頭の中に繰り返し浮かぶ玄暉の突然の質問。
君と仲よくなりたいんだけど、よかったら番号教えてくれない?
玄暉は輝くような笑顔で電話番号を聞いてきた。どのような反応をすればいいか分からず、しばらくあっけにとられていた佳純は、最後には玄暉に番号を教え、それから二人は別れた。
今までの人生で、同年代の男性と言葉を交わしたことのない佳純には、玄暉との出会いは思っていたよりずっとときめき、深い余韻が残るに違いなかった。新しい人との出会いは、考えていたよりずっと気分のいいものだった。
さらに明るくなった表情で、その時の記憶をかみしめていた佳純は、いつの間にか近づいてきた校門を出るときに、突然ある人物が視界に入ってきて、その場に立ちすくんだ。いつ来たのか、隼人が車を止めてドアに寄りかかって電話をしていた。
グラビアから飛び出したような完璧にスーツを着こなす姿に、通り過ぎる女性たちはヒソヒソと話しながら彼から目をそらすことができずにいた。その姿を遠くから見ていた佳純の口から、小さなため息が漏れた。誰もがうらやむほどのステキな兄だったが、彼女にとってはかなり難しい兄だった。
初めて彼と会ったときは、こんなことになるとは思わなかった。今はその時の感情が嘘のように、近寄りがたい存在になってしまった。その距離はいつの間にか地球一周ほども遠くなり、これ以上縮まることはできなくなった。
「佳純」
電話を終えた隼人は遠くから自分を見ている佳純に気づき、彼女の名前を呼んだ。周りの女性たちは、あんなにステキな男性が呼んでいるのはどんな女性だろうと、興味津々の表情で佳純に視線を送った。突然集まった視線を感じた佳純は、恥ずかしくなり足早に隼人の元に向かった。
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