第7話
7.
「乗れ」
隼人が無愛想に車のドアを開けると、佳純は急いで乗り込んだ。
「何の用?」
車に乗るなり押し寄せる恥ずかしさに佳純は用件を聞き、隼人はエンジンをかけながら答えた。
「明後日、何の日か分かってるよな?」
彼の質問に佳純は口を固く閉ざした。昨日、父親の一樹が直接電話をかけてきて頼んだ件だ。出版記念と隼人の推進する新事業の設立記念パーティーが開かれるので、必ず出席するようにとのことだった。
紅海グループ全体の親戚が集まるのはもちろん、各界の著名人が集まる場は佳純にとっていつもどおり居心地が悪くて窮屈だった。
強く勧めてくる父親の言葉にしかたなく行くとは言ったが、正直なところ、どうにかして行かずに済まないかと考えていた。ところが、また現れた障害物に佳純は美しい眉間にしわを寄せた。
「うん。分かってるけど…」
「また逃げようなんて考えてるなら、やめたほうがいい。父さんにお前を連れてくるように頼まれた」
「お父さんが?」
「ああ。お前の姿が見えなければ、俺を戸籍から外すんだと」
佳純は自分に向けられた隼人の鋭い視線に、何も言えず唇をそっと噛んだ。言い訳をしたくても何も思い浮かばなかった。
「今から、どこに行くの?」
そんなことのために、わざわざ学校まで来たのかと思うと、疑問が湧いた。隼人の車が家ではなく別の方向に向かっていることに気づいた佳純は、いぶかしげな表情で隼人を見つめた。その視線を感じたのか、佳純をチラリと見ると不思議なニュアンスが込められた質問を投げかけた。
「そんな格好で行くつもりじゃないよな?」
隼人の質問に佳純は訳がわからないという顔で口を開いた。
「一体…」
「パーティーに着ていくドレスを受け取りにいくんだよ。ヘアメイクもその日の朝、家に来るように手配したから、その人たちに任せればいい」
考えもしなかった彼の答えに佳純は驚いた表情で小さくつぶやいた。
「そこまでしなくても…」
「お前のためにするんじゃない」
隼人は信号待ちで車を止めると、彼女を振り返った。
「紅海グループの家族の一員であり、柳原一樹会長がずっと隠してきたほど大切な娘」
「……」
「世間の注目が集まるんだ。中途半端な格好で行くわけにはいかないだろ」
胸を刺す隼人の言葉に、佳純は酷く落ち込んだ顔で視線を下げた。彼の話を聞いただけで、明後日起こるであろうことに耐えられないと思った。指をさしながらあざ笑う人たちの姿が目の前に浮かんだ。
隼人は突然表情が曇った佳純をじっと見つめると、自分の右隣に置いていた小さなケースを彼女に渡した。
「これ何?」
佳純は手のひらに収まるほどの小さなケースを持ったまま尋ねると、隼人が開けろと目配せをしてきた。少しためらっていた佳純はゆっくりとケースを開けた。そこには見るからに高そうなブレスレットが入っていた。佳純は驚いた顔で隼人を見つめた。
「国内に二つしかないんだ。手に入れるのに苦労したぞ。ドレスにもピッタリなんだ」
彼は強い口調で言った。
「紅海グループの一員として出席する初めての公の場だから、いつものように落ち込んでちゃ困る。気持ちを引き締めて参加するんだ」
信号が変わると隼人は視線を前に戻し、佳純は手に持ったブレスレットを触った。いつだったか雑誌でこのブレスレットを見て心を奪われ、大きく丸印をつけておいた記憶がある。横に「欲しい」とメモをしておいたが、それを隼人が見て覚えていたようだ。涙がでそうになった。
「降りろ」
いつの間に到着したのか、隼人がシートベルトを外しながら降りるように言った。ブレスレットから目が離せなかった佳純は小さくつぶやいた。
「ありがとう…」
「えっ?」
声が小さすぎて聞こえなかったのか、隼人が聞き返したが佳純は恥ずかしい顔つきで首を横に振った。
「何でもない」
佳純の答えに隼人は首をかしげ、車を降りた。空にはいつの間にか、パステル絵の具をまいたように美しい夕焼けが広がり、涼しい風が吹いていた。空気を吸うと息ができるようになり、心配な気持ちは少し消えたようで、佳純の顔に張り詰めた暗い気配が薄くなった。
「行こう」
隼人が見るからに高級そうなブティックに向かっていった。そんな彼の後ろ姿をしばらく眺めていた佳純は、少しして複雑な表情で彼の後を追って店の中に入っていった。
* * *
普段なら絶対に着ないスーツに身を包んだ玄暉は、居心地悪そうな顔でネクタイを締めた。息の詰まるような固いワイシャツの質まで、何一つ気に入るところがなかった。
「しかめっ面しないの!今から殺されに行くみたいよ」
編集長は荒々しく言うと、玄暉は運転に集中している彼女を睨んだ。運転が下手なので、ハンドルを握るときは特に神経を尖らせるのだ。
しかし、大したことではないのに大声を出す彼女を見ていると、理解できるかは別として、今すぐにでも車を降りたいと思うのは当然だった。
しかも、今のこの状況は誰のためなんだ。死んでも行きたくないというのに無理やり引きずり出され、かなりの時間を費やして趣味でもないファッションショーまでさせられ、結局全身にじんましんが出そうなスーツを着せた編集長。そう、彼女のためではないか。それなのに、むしろ大声を出してヒステリーを起こすとは、呆れて笑ってしまうのも当然だった。
「行きたがる社員も大勢いるでしょうに、どうして僕なんですか?」
「我が社はあなたで持ってるのよ。あなたを外す訳にはいかないでしょ?」
「どうせ僕がレニーだって知ってる人なんて誰もいるわけないのに…」
玄暉が不満そうにつぶやくと、編集長が今にも前方の車にぶつかるというような勢いで目を見開いた。
「事故でも起こせば黙る?」
彼女が警告した。
「もう一度不満を言ったら、その口を縫い付けてやるから」
肝を冷やすような編集長の言葉に、玄暉はサッと視線を向けた。この性格…これだから追いかけてた男たちもみんな逃げたんじゃないのか。
玄暉は溢れ出る言葉を必死にこらえ、窓の外を眺めた。それほど遠くないところにホテルが見えた。玄暉は緩めていたネクタイを締めなおした。
「あ、ジュンはホテルに預けてあるわよね?」
編集長は正面に目を向けたまま尋ね、玄暉は面倒くさそうに答えた。
「どうして猫を金を払ってまで預けるんです?家においてきましたよ。それにジュンって何ですか?あいつのことビーンだかベンだかって呼んでませんでした?」
玄暉の問いに編集長は気乗りしない様子で答えた。
「趣味が変わったの。最近流行りの男にね」
「変態ですか?自分の趣味で猫の名前を変えるなんて」
「ちょっと!」
玄暉の厭味な物言いに編集長は叫ぶと、彼のことを睨んだ。玄暉は「こんなことでどうして怒るのだろう?」という表情で彼女を見ていた。タヌキ野郎。編集長はフツフツと沸き立つ怒りを抑え、口を尖らせた。
「あんたに寂しい女の気持ちが分かる?そんなことより、ジュンは寂しがり屋だから長時間一人にしておけないのに…」
編集長は玄暉が猫をホテルに預けておかなかったことを攻撃するかのように、言葉尻を濁しながら睨んだ。しかし、玄暉は関心がないのかシートにもたれかかったまま目を閉じた。そんな玄暉の反応に編集長はチラリと彼の顔色を伺いながら、我慢していた言葉を慎重に切り出した。
「昨日、お父さんから連絡がきたんだけど…あなたが電話に出ないって」
玄暉の眉が動いた。よりによって今日みたいな日に父親の話をどうして持ち出すのか、彼は編集長を避けて体をドアのほうへ向けた。
「寝てました。何日か徹夜続きで」
「お姉さんたちが、日本に来たいって。あなたに会いたいのよ」
玄暉は振り向いて意味深長な表情で編集長と向き合った。
「姉さんたちが来たいって?」
「ええ」
「父さんが来たがってるんじゃなくて?」
編集長は口をギュッと結んだ。
「この話は終わりにしましょう」
玄暉は窓枠に肩肘をついて頭をもたげたまま、これ以上話したくないとでもいうように、視線を再び窓の外に向けた。編集長はそんな彼の姿に、諦めたように首を横に振り正面を見つめた。これは、いくら努力しても解決できない問題だった。
当事者ではない以上、これ以上干渉するのには無理がある。編集長は余計なことを言ってしまったと頭を掻いた。彼女は一瞬流れた静寂に、雰囲気を変えようと咳払いをして、ちゃめっ気のある口調で話しかけた。
「今日は柳原一樹会長が大切にしている娘さんも来るんだって」
玄暉は関心がないというようにあくびをしたが、彼女はものともしなかった。
「あなたくらいだったら、性格があれだけど。近頃の女の子は…」
「結構です」
玄暉はバッサリ話を切り、編集長は怒ったのか彼の後頭部に向けて拳を握った。気持ちとしては一発殴ってやりたかったが、彼女は気の抜けた玄暉の反応に戦意を失ったかのようにため息をつき、手を引っ込めた。
今から行く場所は、作家活動はもちろん今後生きていく上で必要な人脈を広げることができる重要な席なのだ。当の本人は全く関心がないように見えるため、編集長として心配が深まるばかりだった。
よどみのない筆力をみれば世間に対する目はとっくに開けているようだが、時々頭をもたげるムダな我執には本当に頭が痛くなる。
「とにかく、着いたわよ。あなたの本分を忘れちゃだめ。呼ばれたらすぐに駆けつけて挨拶して、できる限り人脈をつくるの。どういうことか分かるでしょ?」
いつの間にかホテルの前に到着し、編集長はベルマンが車のドアを開けようと近づくと、最後に忠告するように目を大きく見開いて言った。だが、玄暉は最後まで協力するつもりがないのか、皮肉っぽく答えた。
「よくわかりません」
彼の返事に編集長のまぶたがわなわなと震えた。そういえば、こいつは人の心を引っかき回す能力に長けていたんだ。編集長は燃え上がる目つきで玄暉の後頭部を見つめて叫んだ。
「ちょっと!左衛門玄暉!」
彼女は車から降りてベルマンに鍵を渡すと、玄暉を追った。ところが、すぐに玄暉はその場に立ち止まり、どこかをじっと見つめていた。
編集長もやはり、そんな玄暉の視線の先を追って見つめた。そこには高級リムジンが列をなしてホテルの外まで並んでいた。入口には中年の夫婦と思われる二人と、見るだけでも目の保養になるような男女がホテルに入っていった。
「ロイヤルファミリーね?」
しばらく彼らから視線を離すことができなかった玄暉は、目の前にいる人たちを知っているかのように話す編集長を振り返った。
「ロイヤルファミリーですか?」
「そう。あなたが今日、気をつかって会わなきゃいけない人たち」
編集長が中年の夫婦を指さした。
「あの男性が紅海グループの柳原一樹会長で、隣の女性が奥様の柳原恵子女史」
「では、後ろの二人は?」
「誰?」
編集長は玄暉が視線で指す方向を確認すると、怪しそうに彼を眺めた。
「会長の子どもたちよ。あのスラっとしたイケメンが実質的な後継者の柳田隼人。その隣にいるのが、私も初めて見たけど、おそらくさっき私が話した会長の娘じゃないかしら?」
「娘…?」
「容姿が悪いって噂だったけど、相当な美人ね。会長が大切にするのも納得だわ」
編集長がふと浮かんだ思いに目を細めて、玄暉を振り返った。
「ところで、そんなにじっと見つめているってことは、さっき関心ないって言ってたけど、実際見たら考えが変わったみたいね?」
「あなたも男なんだ?」と編集長がからかってきたが、玄暉の目は混乱しているようだった。精一杯着飾った姿は、普段の地味な姿とはあまりに違い、しばらく気づかなかったが、確かに佳純だった。そういえば、名字は「柳原」だ。一瞬にして疑いが確信に変わった。
「そろそろ行きましょう」
しばらく注意深く彼らを観察していた玄暉がホテルに入ろうとすると、編集長が素早く彼の腕を引っ張った。彼の手のひらはなぜか冷たく濡れていた。編集長は緊張したような玄暉の姿に疑問を抱いたが、最後に頼むように力を込めて言った。
「私の言ったこと忘れないで。できるだけ人脈をつくるの」
編集長のはっきりした意志がうかがえる発言に、玄暉はニヤリと笑った。どうやっても止められない。玄暉は負けたというように頷いた。
「わかりました」
玄暉は編集長の手を振り払い振り向いた。
「早く行きましょう。叔母さん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます