第31話



31.





「それってどういう…?」


「それともバカにしてんのか?」


口角を持ち上げながら尋ねる玄暉から見慣れない寒気を感じた花恋は、彼の両手をポンと叩きながら急いで弁解しようとした。


「そんなことない。私はただ」


「なんの言い訳もするな。聞きたくもない」


花恋は冷めたくなった玄暉の目つきに言葉を失ったようで、ぼんやりと彼を見つめた。


「警告してるんだ」


花恋を注視する玄暉の瞳の中に、冷気が漂っていた。


「これ以上僕の神経を逆なでしたり、馬鹿な真似したりしたら…本当にただじゃおかないからな」


玄暉はひと言ひと言に、正確に力を入れて警告した。花恋の目に徐々に涙が満ち始めた。いつもだったら全力を尽くして大声でも出したが、自分を睨んだ玄暉の目つきが鋭い短剣になって心臓を刺したように痛くて何も言うことができなかった。


「あの、大丈夫ですか?」


玄暉の後を追っていこうとした満は、ショックを受けたようにぼんやりと立っている花恋に慎重に話しかけた。しかし、彼の言葉は聞こえもしないのか、花恋は黙って元の自分が座っていた席に戻った。そして、何かに取り憑かれたような表情でグラスをビールでいっぱいにして、グイッと飲み干した。


「ふん。悲劇のヒロインだな」


いたずらっぽく指でフレームを作ってその隙間から彼女を眺めていた満は、肩をすくめてそのまま元の席に座った。一人で酒を飲む姿を見ていると、なぜか不安そうに見えて足がなかなか離れなかった。


「玄暉、先に家に帰ってて。俺はちょっと用事を済ませて帰るから」


玄暉にメールを送った後、満はテーブルの上に腕を置いてあごを乗せたままじっと花恋を眺めた。サングラスも脱ぎ捨てたまま赤くなった顔で休まずお酒を注いで飲んでいる姿がかなり悲しく見えた。その姿になぜか胸が痛み、満の口から小さなため息が流れ出た。


玄暉の行動を100%理解しているが、一方では花恋の行動も理解できた。もともとプライドの高い女性ほど、自分の感情をひねって表現する場合が多いからだ。


ただ玄暉の心はすでに別の人に向かっていて、それを受け入れて理解する気持ちがないことと、このような複雑な女性心理を理解するには彼があまりにも恋愛に無知だということが問題といえば問題だった。


「おっ。もう一本飲み終わっちゃった」


いつの間にビールを1本飲み干したのか、テーブルの上に置かれた瓶は空っぽで、花恋の目はかすんでいた。危なげに体が前後に揺れるのを見ると、今にも横に倒れそうだった。


一人で放っておくには気にかかり、席から立ち上がり、花恋に向かって歩いていた満は、自分の耳に刺さるドンドンという音に驚いた表情で止まった。


花恋に向けた満の視線の先に、酒に酔ったのか頭を支えられないままテーブルに頭を打ち始める花恋の姿が見えた。ゴンっという音が響くたびに、人々が視線を彼女に向け、同時に携帯電話でその様子を撮っていた。満は戸惑った表情で彼女を見つめた。


「あんな酒癖あるかよ?」


花恋がテーブルを半分に割る勢いで頭をぶつけると、満は気軽に近づく勇気が出なくて迷った。しかし、悩みもつかの間、カメラの音と共に彼女を撮る携帯電話が目障りになり、満はためらうことなく彼女に大急ぎで近づいた。そしていつのまにか彼女の真向かいの席まで占領して撮る人たちをにらみながら大声で叫んだ。


「真理ちゃん!しっかりしろよ。家に帰ろう!」


その瞬間、ラーメン屋の中に静寂が流れた。それぞれ満の言葉に動揺したようで、ぼんやりとした顔で持っていた携帯電話を引っ込めるとひそひそ話し始めた。


「手術した額が凹んじゃうよ!しっかりしろ。真理ちゃん!」


満はテーブルを打っている彼女の額を手で包み、いつの間にか脱げてしまった帽子をしっかりとかぶせて、さらに大きな声で話した。むしろ人々の視線をさらに集めるのではないかという不安な気持ちで満は一つ一つ彼女の荷物を取り始めた。


人々は「真理」という名前にそれぞれ興味を失い、首をかしげた。満はようやく安堵のため息をついた。何人かはまだ疑いの目で眺めていたが、それまで気にするには花恋の状態があまり良くは見えなかった。満は一応彼女の面倒を見ることにした。


「なんでこんなに重いんだよ」


満は上着を脱いで花恋の肩にかけ、彼女の腕を首に巻いた。彼は肩を押さえつける彼女の重さによろめきながらやっと外に出た。ほぼ荷物となった状態で玄暉の車の後部座席に花恋を乗せた後、運転席に座った満は息苦しく締まるネクタイを荒々しくほどいてため息をついた。


とにかく買ってまで苦労するものだと思って一人でニヤリと笑った。彼は花恋に家の住所を聞こうとしたが、胸から響く振動音に携帯電話を取り出し、液晶画面を確認した。


[奥様]


短いが強烈な単語に驚いた満は携帯電話を手にしたままそわそわした。初めての出会いから、連絡がなく内心安心していた満は、途切れない振動音に不安で焦燥感を消すことができなかった。


「ああ…。切れろ。切って。このおばさんめ」


満はまるで呪文でもかけるように携帯電話を手に握ってつぶやいた。しばらくして振動音が止まり、満は安堵しながら深呼吸をした。二度と会うことはないと安心していたが、あの時のゾッとする記憶が思い出され、全身に鳥肌が立った。


「はぁ」


ブーン…。ブーン…。


降り注ぐ疲労感に大きくため息をつき、しばらく椅子に頭をもたげていた満は、再び鳴る振動音に顔をしかめた。どうしてしきりに電話をかけてくるのか。いらいらしたが、途切れることなく手の中で鳴り響くので、彼は仕方なく携帯電話の液晶画面を確認した。


[萌(もえ)]


幸い、恵子ではなく自分の妹であることを確認した満は、胸をなでおろしながら素早く電話に出た。


「萌か」


―お兄ちゃん!私行きたくない…。ううっ…!早く来てお母さんを止めて!


焦った萌の声に満は顔が石膏の像にでもなったかのように一瞬にして白く固まってしまった。事故で片足を失ったが、自分を今まで耐えさせてくれた大切な妹だった。


何か分からない宗教にはまった母親という人が時々訪ねてきては、萌からサタンを追い出さなければならないとか、足が動くようになるためには牧師に治療を任せなければならないとか。何度も引っ越しまでして何とか彼女の束縛から抜け出そうともがいた。しかし、もう自分たちを見つけて家まで来たようだった。


彼の脳裏に過去に萌に起きた恐ろしい事件が浮び上がり、心臓が激しく動き始めた。


「萌、今どこにいる?」


―トイレ…。お母さんが変なおじさんたちと一緒にきて、私を連れて行こうとしてるの。お兄ちゃん!早く来て!私、すごく怖い!


受話器を通して聞こえる萌の切ない声に満は素早くアクセルを踏んだ。いらいらして唇がからからに乾いてきた。彼は携帯電話につながったイヤホンを耳に差し込み、努めて落ち着いた声で話した。


「萌、お兄ちゃんの言うことよく聞いて」


―ううっ…。お兄ちゃん、早く来て!お母さんがドアを壊そうとしてるみたい!ああっ!お兄ちゃん!


すぐにでも息が止まりそうな萌の声に満が唾をごくりと飲み込みながら話を続けた。


「携帯をサイレントモードに設定して、服の内側にしっかり隠すんだ。それからお兄ちゃんが行くまで…」


―お兄ちゃん!あっ!お兄ちゃん!怖い…!


プツッ


「萌?」


途切れた信号音に満の顔が真っ青になった。不吉な気運が悪臭のように全身を包み始めた。


「チクショウ!クソッ!」


バン!バン!


正気を失ったかのようにハンドルを手で叩いていた満は、素早く携帯電話の位置追跡アプリを作動させ、乱暴に車を運転した。考えたくもない事件を経験した後、徹底的に萌を保護することを目的に生きてきた。


そのうんざりする母親という人間が萌にまたどんなことをするか分からないので、親戚とも縁を切って2人で家を出て、死んだようにひっそりと暮らしていた。ところが、しつこく訪ねてきて結局再び事件を起こしてしまったのだ。


このようなひどい状況にもかかわらず、誰にも訴えることさえできないことに、ただ絶望的なだけだった。沸き立つ怒りに満の顔が赤くなり始めた。


「萌に何かあったら…あなたは俺の手で死ぬことになる」


母親という名前の悪魔。悪魔という名前の母親。それでも宗教を盾に持っていた母親に対する憐憫。それも今日で終わりだ。決心する彼の目に殺気が滲んだ。



家の前の道端に車を止めて急いで降りようとした満は、背後から感じられる忌まわしい気配に後ろを振り返った。そこには花恋が気絶したように微動だにせず眠っていた。


妹の萌に対する心配から、後部座席に花恋を乗せたことをしばらく忘れていた満は、悩んだ末にひとまず起こさなければならないという重いに彼女の腕をトントン叩き始めた。


「ほら、ちょっと起きて」


気持ちとしては、放っておいてすぐにでも家に走って行きたかったが、息苦しい車の中にそれも酒に酔った女を一人残していくというのは、到底足が離れなかった。


満は一旦彼女を起こすために服をつかんであちこち揺すった。しかし、起きる気がないのか、それとも酔って意識がないのか、一度うごめき声を上げながら目を覚ますのかと思ったら、すっかり背を向けて横になってしまう花恋の姿に満のきれいな額が少し歪んだ。


「ちょっと!藤川花恋さん」


もう一度大声で読んでみたが、やはりびくともしない。結局、満は車から降りて後部座席のドアを開けると、花恋の肩をつかんで上半身を起こして座らせた。そして横に座って花恋の状態を調べようとした瞬間、満はぎゅっと閉じている彼女のまぶたがぶるぶる震えながら唇の先がうごめくのを見つけた。


寝てるんじゃなかったのか?彼の脳裏に花恋の行動が通り過ぎると、空笑いが噴き出した。いつから気がついていたのか分からないが、ラーメン屋で見せてくれた衝撃を越えた信じられない行動を考えれば、今の行動は十分に理解できた。


かなり恥ずかしいだろう、と思い満は車から降りて腕を組んだまま、花恋に言った。


「今日あったことは忘れてあげるから、もう車から降りてもらえませんか?今ちょっと急いでいるんで」


低い満の声に花恋がキョンシーのように飛び起きて座わると、周りをきょろきょろと見回した。


「ここはどこ?そしてなぜあなたが私をここに…」


「ねえ、俺は今質問に答えてる時間がないんだ。だからちょっと降りてください」


「いえ、あなたが私をここに…。あ!」


花恋が話し終える前に満が彼女の手を握って車から引きずり下ろした。慌てた花恋は、自分の手首を握っている満の手を振り払いながら叫んだ。


「何をしているんですか!」


今の状況が不愉快であるというように、花恋はイライラした表情で身なりを整えた。満は一歩後ろに下がって彼女の顔をじっと見つめながら言った。


「声の調子もいいし、目つきもいいし!勢いを見たら、わざわざ送って行かなくても、自分で家まで帰れそうですね」


「あのさぁ。私がここかもわかんないのに、一人で行けって言ってる?」


「ここは○○区○○市場の前です。後ろに市場が見えますよね?」


満が手で自分の後ろを指差すと、花恋があきれたように鼻で笑いながら彼に近づいた。玄暉と友達であることを証明しようとするかのように、自分を無視する言葉と行動が妙に彼女の目に障った。


しかも、ここまで連れてきておいて、いきなり勝手に行けとは、酔いが覚めたように気がついた花恋は、跳ね上がる怒りゲージに目を尖らせた。


「財布も携帯も全部車に置いてきたのに、こんなふうに置いて行っちゃったらどうすればいいの?」


満は不審な目で彼女が手に持った帽子を指差しながら言った。


「最初からそちらが持っていた所持品はその帽子とサングラスだけでした。ああ、そういえばサングラスは食堂に置いてきたような気がしますね」


「今ふざけてるの?あなたの車じゃなくて、私の車に置いてきたの。道ばたで玄暉を見つけて、急いでついて行くために車に全部置いて…。ああ、そんなことは問題じゃなくて、とにかく!あなたが勝手にここまで連れてきたんだから、最後まで責任を取って貰わなきゃ。どうして一人で置いていこうなんて考えるのよ?」


酒に酔ってぼんやりしていた人なのかと思うほど、次々と言葉を吐き出す花恋をじっと見守っていた満が、困った表情で深いため息を吐いた。


酒に酔って意思表現が不可能な状況ではあったが、先に助けてくれと言ってもない彼女をおせっかいに連れてきたのは自分だった。今になって捨てて行くようで心が穏やかでないことも事実だった。


だが、今すぐ萌がどうなったのかさえわからない状況の前で、何もかも持っている女性に対するマナーが発揮されるほどの時間と精神的な余裕が彼には残っていなかった。満は素早く上着のポケットから財布を取り出し、花恋の手にカードを1枚握らせながら話した。


「連れて行けないのはごめんなさい、とりあえずこれでも持って行ってください」


満をじっと見つめながら言った。


「こんな格好で歩きまわって皆が私を気づいたらどうするんですか?」


「それはちょっと困るわね」


「そうですよね?だから…」


あなたに責任を持って、今すぐ連れて行ってほしいの…。


この言葉を最後にしようとした花恋は、言葉を吐き出す前に自分が持っていた帽子をつかんで頭にすっぽりかぶせる満の行動に驚きながら彼を見上げた。


「まあ、帽子をかぶったからといって、きれいな顔が隠れるわけではありませんが、一応は人目を避けるためにかぶることにしましょう」


首を少し傾けた状態で淡々と話す満を見る花恋の顔が少し赤らんだ。


「今な…何を言ってるのよ?」


恥ずかしくなるような言葉を平気で言う満を、花恋が呆れた表情で眺めた。しかし、彼は気にせず、手に持ったスーツの上着を彼女の肩に巻きつけながら言った。


「それから肌寒いからこれを着ていって」


「ちょっと」


「『ちょっと』じゃなくて、黄川田満です」


当惑する花恋を眺めながら満は肩をすくめた。


「これ以上話がなければ、もう行きましょう」


行こうという言葉がどういう意味かと思って迷っていた花恋の手首を満が掴んだ。それから彼女を引っ張って、ちょうど前を通ったタクシーを捕まえた。うっかりタクシーの前に立った花恋は満の手を払いながら言った。


「こんなつもりだったら、最初からタクシーに乗せて行かせればよかったのに。こんなとこまで何のために連れてきたのよ」


花恋の問いに「実はここに来る間に君を乗せたことを忘れていた」という言葉が浮かんだが、彼は努めて吐き出さなかった。


「実は拉致したんですよ、藤川花恋さん。酔っ払った姿に惚れちゃって」


一生忘れられない酒癖、彼の口角がゆっくりと上に上がった。



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