第30話
30.
隼人の視線がゆっくりと佳純に向かった。わざと頬を叩いた訳ではなかったのか、混乱と不安が絡み合った彼女の目と指先が一瞬震えるのが見えた。
感情がこみ上げて起こった事故に、もしかしたら感情の溝が深まるのではないかと慎重になった。佳純を落ち着かせるためにゆっくりと手を伸ばしていた隼人は自分の手を強く叩く佳純の行動に止まった。身の毛もよだつほど見慣れない佳純の目つきがいつの間にか隼人を直視していた。
「私の体に…触らないで」
低い声で話した佳純の瞳は震えていた。お互いの息づかいが感じられるほど近くにいても、まるで絶対に手の届かない場所にいるように、2人の距離が広がったようだった。
隼人の視界には佳純の鋭い表情でいっぱいだった。いつも、慌てて気後れしていた姿は跡形もなく消え去り、冷たい表情の佳純が引き下がらずに自分を睨んでいた。
「お前、何を考えてこんなことをするんだ?お母さんを追って死のうとでもしてるのか?今?」
湧き上がる感情を抑えながら言葉を吐き出した隼人の指先が細かく震えた。もし自分が佳純を追ってこなかったら、少しでも彼女の腰を掴むのが遅れていたら、どんなことが起こっていたか想像するだけでも鳥肌が立ち、目の前が遠のいて全身が氷のように冷たくなった。
隼人は乾いた唇を舌で濡らし、佳純をじっと見つめた。初めて見る見慣れない姿。心の片隅が冷たくなってくるのが感じられたが、彼は努めて無視して静かに話した。
「これからは二度とこんなことをしようなんて、考えるな。分ったか?」
「……」
「まずは家に帰ろう。それから…」
「もう私の前に現れないでって言ったこと…忘れたの?」
「なに?」
「お兄ちゃんと顔を合わせるだけでも身震いするほど恐ろしいって言ったこと。覚えてないの?」
冷たく話す佳純のすがたに隼人の眉間が、一瞬動いた。冬の風ほど冷たい声が彼の耳に触れる前に、これ以上話すことはないというように、体を回して歩いて行く佳純を隼人はぼんやりと眺めた。
ひと言ひと言が矢のように心臓に突き刺さり、息が詰まってきた。母親を失った心に感情を抑えきれずに吐き出した言葉と考えるには、佳純の目つきはあまりにも冷たかった。隼人の複雑な視線が遠ざかる佳純の後ろ姿を追った。先ほどとは違い、体を真っ直ぐにしてしっかりと歩く姿が、異常なほど彼の神経を刺激した。
結局、薄暗く立ちこめた霧の中をかき分けながら、ためらうことなく走った隼人は佳純の腕をぐっと引っ張って、胸に抱きしめると叫んだ。
「本気で言ってるのか?」
「離して」
「本気で言ってるのかって聞いてるんだ!」
「本気よ。だから離してよ!」
乾いた唇から叫ぶ佳純の姿が、とりわけ見慣れず、得体の知れない恐怖が隼人の全身を刺激した。目の前に存在する佳純が幻のように感じるほど非現実的な状況の前で、彼は喉まで上がってきた感情を飲み込もうとするように乾いた唾を飲んだ。
「お前が、すごくつらくて…それでこんなことをするなら、俺が…」
「やめて」
佳純がぶっきらぼうに話を切ると、隼人に向き合った。
「何も言わないで…。ただ私のことは放っておいて」
鋭い声で言うと、隼人の腕を振り払い歩いて行く佳純の後ろ姿を隼人は黙って見つめた。耐えがたいほど心が重くなり、追いかけたかったが、自分に向かって叫ぶ佳純の姿が足かせとなって、どうしても追いかけることができなかった。
見るにも不憫で、遠ざかっていく佳純から目を離すことができずに立っていた隼人は、足をふらつかせながら、その場に座り込んでしまう佳純の姿に驚き、彼女に向かって走った。
「佳純。大丈夫…」
彼女がケガをしていないか足から確かめていた隼人は言うことを忘れた。佳純の両目からポロポロと落ちる涙が隼人の胸の奥を残忍にも深く入り込んできたからだ。
「痛い」
すりむいた足を見下ろして低い声で佳純がぼそりと言った。
「全部夢だと思ってたのに…。痛い。足が」
鳴き声が喉まで上がって、息が詰まるのかぷつぷつと途切れる鳴き声が佳純の口から辛うじて吐き出された。
「痛い。お兄ちゃん。痛くちゃ駄目なのに。そうしないとお母さんに会えない。でも足がとても痛いの」
「佳純…」
「痛いのよ!これじゃダメなの!痛がってちゃダメ!」
「……」
「全部夢のはずなのに…。どうして!どうして痛いのよ!」
悲しみと苦痛が混じった彼女の叫びに、固く隠していた感情が一瞬喉の下まで上がってくるのを感じた。
無理やり抑えようとする佳純の悲しむ姿がそのまま目に飛び込み、何も言えないほど息が詰まった。隼人は黙ってひざまずいたまま、座り込んで全身で嗚咽するように身を震わせている佳純を抱きしめた。暖かい体温と共に、痛みがそのまま伝わり、胸が熱くなった。
「すまない」
守ってやれなかったことに対する申し訳ない気持ちが罪悪感とともに押し寄せてきた。あの日、おばさんから危篤だというメールを受け取った時、佳純と一緒に会いに来ていたら…。窮屈な感情をこらえていたら…。そうしていれば、少なくとも自殺という選択を防げたのではないかと思い、彼は結局頭を下げてしまった。
「すまない。本当に」
泣き叫ぶ佳純を抱きしめた隼人は沈痛な表情で贖罪するように言葉を彼女の耳に繰り返した。そして、佳純は彼の胸の中で息絶えるほど我慢していた涙を全て流した。
* * *
葬儀場から夕方遅くに戻ってきた玄暉と満は、家の近くのラーメン屋に入ってラーメンを一杯ずつ注文した。有名な店だからか、一口に入れた瞬間、口の中いっぱいに広がる深い味に魅了されたようで、満は飢えたお腹を満たすことに全力を集中した。しかし、それに対して玄暉は食欲がないのか携帯電話に視線を向けたまま、ただ箸で麺をかき混ぜるだけだった。
「お前、大丈夫なのか?かなり疲れてるみたいだけど」
満が疲れ果てた様子がありありと見える玄暉を見て、心配そうに聞いた。自分に起こったことでも手に余るはずだが、玄暉は佳純の母親の葬式まで気になると数日そばにいた。
「さっき車で少し寝たから、大丈夫だ。お前こそ運転疲れただろ」
「ふん。俺は体力には自信があるからな。それよりお前…」
「ん?」
「そんなに気になるなら、電話しろよ。一日中なにやってんだよ」
葬儀場を出た瞬間から何かに取り憑かれたかのように気が気でない玄暉の姿に、見かねた満が箸で携帯電話を指しながら言った。ただ単純な興味だとばかり思っていたが、心から佳純を心配する玄暉の姿を実際に目の前で見てみると、妙な気分になった。
「いいよ。疲れてるだろうし、まだ落ち着いてないだろうから…」
「だからお前が電話して『大変だよね?でもいつも俺のこと思って元気出して』とか言って慰めるとか、『そばにいられなくてごめん。でも俺の気持ちはいつも君のそばにいるから』とか愛の言葉でも投げかけろって言ってんだよ」
「なんだ…その古くさいセリフは」
「分ってねぇな。女の子にはこういう古典的なセリフが効果的なんだよ」
一編のモノドラマを撮るように、満が図々しく言うと、玄暉はにやりと笑った。彼は結局、手にした携帯電話を片方に置いたまま、焼酎を一杯グイッと飲んだ。その姿がどこか不自然に見え、満がかすかに目を開けて言った。
「お前最近、酒をよく飲むな?あんまり好きじゃないくせに」
「好きじゃないけど、飲めないわけじゃない」
「でも特別な日でもないと飲まないじゃないか」
満がニヤニヤ笑った。
「なんだよ?おとなしくしてたら佳純ちゃんの姿が目の前にちらついてどうにかなりそうとか?」
玄暉は黙って鼻を掻いた。答えが難しい質問をされると出る癖。満は彼の反応に意味深な笑顔を浮かべながら、それとなく言葉を投げかけた。
「あれ?こいつ。お前マジで彼女のこと好きなんだ?」
「うん。凄く好きだ」
「…なに?」
「告白もした。まだ答えは聞いてないけど」
もしかしてと尋ねたが、玄暉ははためらうことなく答えた。同時に満の表情が色とりどりに変わった。玄暉の明快で早い一番目の答えには呆然として裂けるように口を開き、告白したという二番目の答えには驚いて目玉が飛び出すほど両目を見開いた。
みっともないというように首を横に振る玄暉の姿も目につかないほど、満はすでに興奮で盛り上がっていた。
「お前が?佳純ちゃんに告白したって?」
「うん。でもどうしてそんなに驚くんだ?」
「お前初めてだろ。女の子に告白するの」
「今まで好きな人がいなかったから」
玄暉がハキハキと力を込めて答えると、満は言葉を失ったように呆然とした。何はともあれ、こういう所を見るとこんなに男らしいヤツはほかにはいない。
「とにかく、読めないヤツだな」
彼は舌打ちをした。
「ってことは、佳純ちゃんに告白してからスキャンダルが持ち上がったのか?なんてタイミングだ」
「その話はやめてくれ」
「やめられないだろ?スキャンダルの当事者がさっきからあそこでお前をじっと見てるのに?」
満の視線が反対側に向かって動いた。そこにはマネージャーも連れず花恋が1人で座っていた。
家から追いかけてきたのか、それとも本当に偶然居合わせたのか。彼らがラーメン屋に入るやいなや、ついてきた花恋は自然にラーメンだけでなく、ビールまで頼んですすり泣いていた。
顔の半分以上を隠すようなサングラスと帽子を着用していたが、特有のオーラは隠しきれなかったのか、すでに数人が彼女に気づいてちらちらと見ているのがわかった。
「あっちいって声かけてこいよ」
「気にすんな」
「冷たいヤツだな。それでも状況は説明して貰わないとだろ?ここまでついてきたのを見たら、何か話があるみたいだけど」
「満。黙って飯でも食ってろ」
「わかった、わかったよ!短気だな」
ぶつぶつ言いながらラーメンを食べる満の姿に、玄暉はあきれたというように首を横に振った。今考えても腸が煮えくり返るほど腹が立つことだった。
花恋とのスキャンダル。幸い、花恋の所属事務所の力と編集長の人脈でスキャンダル記事の余波は思ったより短い時間で消えたが、だからといって彼女に対する怒りが簡単に無くなるはずがなかった。
許せないという気持ちで玄暉が眉間をひそめたまま、ちらっと花恋を見た。周辺の視線が気になるのか、頭を下げてビールをすすり、泣く姿が過去の彼女との初めての出会いを思い出させた。
今の高慢で華麗な姿とは多少違ったあの時の姿が浮び上がり、瞬間彼の口元に微妙な笑みが浮かんだ。その瞬間、嘘のように花恋と目が合った。それから、花恋が自分に向かって歩いてくるのを見た玄暉は、後悔という単語を思い出すと同時に顔が一瞬しわくちゃになった。
「いくら嫌いでも、表情のコントロールくらいはしてよね」
独特の煽ってくる話し方で声をかけてくる花恋をじっと見ていた一樹は無関心な顔で答えた。
「僕は俳優じゃないから、お前とは違って表情のコントロールはできないんだ」
玄暉は肩をすくめた。
「言いたいことがあるなら、さっさと言って帰れ。友達と重要な話をしてたんだ」
玄暉が満にそっと目配せをすると、満がまるで仕組んだかのように素早く頷いた。花恋が小さくため息をつきながら言った。
「それじゃあ、話が終わったら私の所に来て。そこで待ってるから」
花恋は自分が座っていた席を指差して言うと玄暉が気乗りしないように答えた。
「ここで話せよ。後で時間なんて作れないから」
「でも少しだけ時間作って」
「今話さないなら、また今度にしてくれ」
これ以上意地を張っても良くない雰囲気になることを予感した花恋は、満の顔色を伺いながら話した。
「分かったわ。じゃあ」
彼女は小さくため息をついた。
「まずスキャンダルについて説明すると、私がわざと記事を出したんじゃないの。雑誌のインタビュー中に言ったことを記者たちが勝手に書いたのよ」
花恋の言葉に玄暉は握っていた指を下ろすと、彼女を振り向いた。
「雑誌のインタビューで何を言ったんだ?」
玄暉がストレートに聞くと、花恋が少し間をあけて答えた。
「初めはただ、彼氏はいないのかって聞かれたから、いないって言った」
「それなのに、どうしてあんな記事が…」
「そしたら好きなタイプはどんな人かって聞かれたて…。レニーだって答えただけよ!」
「…それから?」
「あなたと会ったことあるかって聞かれたから、ただ個人的によく知っている間柄だって言った…。まあ、間違いじゃないでしょう?」
図々しい顔でむしろ堂々と話す花恋の姿に玄暉が呆れた表情で彼女を眺めた。まるで自分は何も悪くないかのように子供みたいに強引に言い張る姿が滑稽で、玄暉は自分も知らないうちに苦笑いした。
自分に好奇心を持っていることは知っていた。自分がレニーだという事実を知ってからは、まるでお気に入りのおもちゃを手に入れたようで、両目を輝かせながら関心を表現しえくるの姿に、あの高慢で格別な女性が一緒に遊んでくれる相手が必要なのだと単純に考えていた。面倒なほど電話をして携帯メールを送る時も、ただ自分のストレスを解消する相手が必要だからだと無視していた。
それほど花恋の行動は本気に見えなかった。少なくとも玄暉はそう感じた。それでますます彼女が気に入らなかった。わがままな上、他人の考えなど配慮しない姿、本当に最悪だった。
このまま放っておくと、再び事故を起こしそうな予感に、これ以上放置できないと思った玄暉は、断固とした表情で席から立った。そして、花恋の肩を両手でつかんで引っ張り、互いの距離を縮め、そっと言った。
「お前、僕がそんなに甘く見えるのか?」
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