第29話
29.
佳純はあごひじを着いたままベッドの上に座って何も言わずに本を読んでいる佳子をじっと見つめた。久しぶりに娘が来たのに嬉しくもないのか、無心に行動する佳子に余計に寂しい気持ちがして、佳純はいつのまにかふくれっ面をしていた。
「お母さん、ちょっとは私のこと見てよ」
まるで母親の愛をねだる子供のように、佳純が彼女の視線を引くために腕をあちこち握って振った。
佳子が普段本を読むことを楽しんでいることをよく知っていたが、明日すぐに家に戻らなければならない佳純としては少しでも彼女と話したい気持ちで文句を言うしかなかった。
そんな佳純の心に気づいた佳子が、ようやく分かったというようにクスッと笑い、本を横に置いた。
[なに?言いたいことがあるの?]
佳子が穏やかな笑みを浮かべて手話で尋ねると、佳純が不満いっぱいの顔で口を細く突き出した。
「そうじゃなくて、娘が久しぶりに来たのに、本ばかり読んでるから」
[いつも、よくテレビ電話もしてるでしょ]
「もう!それとこれは違うじゃない。こうして顔を合わせるのは、いつぶりよ」
寂しさがそのままにじみ出た表情で話す佳純の姿に、彼女をじっと凝視していた佳子がにっこり笑ってそっと横に体を動かした。
[分かったから。お母さんの横に来て。うちの娘を近くで見ようかな]
佳子が手招きすると、佳純はすぐさま彼女の胸の中に飛び込んだ。久しぶりに感じる母親の体温にようやく気分がほぐれたのか、佳純の顔がパアッと明るくなった。息をすることさえ大変で、あの家で患った心の病気が少しは治った感じさえした。
ぐっと我慢していた悲しみが徐々に上がってきて鼻先がジーンとし、目に涙が溜まったが、佳純はむしろ明るく笑いながら尋ねた。
「ここの生活はどう?大丈夫?」
[うん、空気もきれいでみんなよくしてくれて…·。むしろとても居心地よくて、あなたには申し訳ないわね]
切ない表情で頭をなでる佳子の手に再び泣きそうになり、感情がこみ上げてきた。しかし、佳純は顔には出さず、大きく息を吸いながら言った。
「何言ってるの、私も元気だよ。みんな、すごくよくしてくれるから」
[そうなの?もしかして…。隼人くんのお母さんがあなたを苦しめたりはしてない?]
「うん、もちろん!元気だから心配しないで」
話している間ずっと感情がこみ上げてきて、あごの筋肉がずきずきするのが感じられたが、佳純は心を慰めながら微笑を維持した。
[よかった。すごく心配してたんだけど]
「本当に心配しなくてもいいよ。むしろお母さんと二人きりで暮らしてたけど、家族が多くなって、もっといいかも」
[そうなの?その言葉はちょっと寂しいんだけど?]
「寂しがらせようとして言ってるのよ。そうすればお母さんが一生懸命に治療を受けて、元気になって私を迎えに来てくれるでしょ」
佳純は彼女の腰をしっかりと抱きしめながら言った。佳子は暗い様子で彼女を見下ろしながら頭を撫でた。
自分の欲さえなかったら。彼の提案を冷たく断れないほど体調が悪くなかったら。佳純が今のように辛くて胸を痛めなくてもよかったのに…。
過去の自分のいいかげんで無責任だった行動のせいで、佳純が犠牲になっているようで、佳子の胸は一瞬崩れ落ちた。
「お母さん、急にどうしたの?どこか悪いの?」
真っ青になった顔をして息をのむ佳子の姿に佳純が心配そうな目つきで尋ねた。
[いいえ、大丈夫。何でもないわ]
佳子は心配するなというように首を横に振ったが、佳純は不安な気持ちが消えず、彼女の手をぎゅっと握った。
「どこか具合が悪ければ言ってね。すぐにお医者さんを連れてくるから。」
[分かった]
「ダメだ。もう寝よう。お母さん疲れてるみたい」
佳純は飛び上がり、佳子の腕から離れて、ゆっくりとベッドから降りた。大丈夫だと佳子が手を振ったが、佳純は彼女を寝かせて布団までかけてあげた。佳純はその時になってようやく安心したのか、一層安らかな顔つきでベッドの横に置かれた椅子にどっかりと座った。
「最近全然眠れなかったんだって?今日は私がそばで見守ってあげるから、ゆっくり寝てね」
[お母さんは大丈夫。だからあなたも、もう寝なさい]
「私が見てたいの。寝るのは明日、家に帰るときに寝てもいいし」
[そういえば明日…隼人くんが迎えに来るって言ったわね?]
佳子が手話で尋ねると、一瞬黙っていた佳純がすぐにうなずきながら答えた。
「うん。運転手さんのお母さんが亡くなったんだって。それでお兄ちゃんが代わりに来てくれることになったの」
[よかった。そうじゃなくても隼人くんに会いたかったのよ]
佳子の言葉に佳純は不審な目つきで彼女を凝視した。そういえば、佳子は特に隼人を可愛がって大事にしていた。時々、理解できないくらい。
突然湧いてきた疑問に佳純は首を少しかしげて尋ねた。
「お母さんはお兄ちゃんが好き?」
[そうよ。イケメンだからね]
「そういうのじゃなくて…。他に理由はないの?」
しばらく迷っていた佳子が、佳純の前髪を一度触って手話で答えた。
[イケメンで、能力もあるし、そのうえ優いから好き]
「お兄ちゃんが…優しいって?」
[そうよ。世の中の誰よりも優しいのよ。外見は固くて人情がないようでも、中身は誰よりもか弱くて柔らかいんだよ、あなたのお兄ちゃんは]
「まさか」
佳純は同意できないというように首を横に振った。佳子が小さく笑いながら手を動かした。
[初めて会った時、どれだけ可愛かったか。恥ずかしがり屋で、しかも意外と純情で。私があなたのお兄ちゃんの主治医として相談を受けていた時、どれだけ言うこともよく聞いたか]
「あ、お母さんはお兄ちゃんのことずっと前から知ってたんだよね」
[ええ。隼人くんはあの時高校生だったかしら?そうだったと思う。あの時ちょっと辛かったのよね。いろいろと]
「お母さんは精神科医だったでしょ?ということは…」
[精神に問題があったんじゃなくて、心に問題があったのよ。幼い時、とても大きな傷を負ってね]
「……。それって何?」
[あまり深く知ろうとしないで。患者の個人情報を流出させるのは法的に禁止されてるのは知ってるわよね?]
「そんなこと言わないで教えてよ。ホント重要なことだけ言ってくれないから、ますます気になるでしょ」
[ダメよ。とにかく可哀想で優しい子なの。だからお母さんの言うことを信じてお兄ちゃんと仲良くしてね。これから私に何かあったら、隼人くんがあなたを守ってくれるから]
「またその話?お母さんに何かあるわけないでしょ。こうやって私が守っているんだから」
佳子は不安そうな佳純の手を取って、音もなく口をゆっくりと動かした。
[もしも…の話。何があるか分らないでしょ]
「いやだ、そんなこと言わないで。なんだかこわくなっちゃうじゃない」
落ち込んだ表情で話す佳純を佳子は努めて平然とした表情で眺めた。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったが、これ以上そんな元気さえないのか小さくため息をつき、疲れた表情で佳純を眺めながら唇を動かした。
[分かった。もうこんなことは言わないわ]
「本当だよね?」
[ええ。約束する。だからもう寝ましょう。何だか疲れちゃった]
「うん、早く寝て。今日は私がお母さんのそばで見守ってあげる」
明るく笑って話す佳純を嬉しそうに眺めていた佳子が、握った佳純の手の甲をなでながら最後にやっと口を開いた。
[ありがとう、佳純。愛してるわ]
* * *
「愛してるっていう一言も、ちゃんと言えなかったのに…」
乾いて切れた佳純の唇から沈んだかすれた声が流れ出た。ベンチに座って頭を落とした彼女の顔は汗と涙で濡れていた。
その姿を遠くから見守っていた一樹の顔が痛ましいほど歪んだ。見ているだけで心が崩れ落ち、鋭い刀で心臓を痛めつけられるように苦しかった。
彼女を守ってやると約束したが、結局守ってやれなかった。自殺で命を絶つほど大変だったはずなのに、結局そばにいてやれなかった。佳純が辛い思いをしないように、面倒を見ると言ったが、結局彼女があれほど切実に願った最後の約束さえ守れなかった。
乾いた胸の片隅から血が湧き上がり、目を刺激した。目の前に佳子、愛したその女性の顔がちらついて硬く固まっていた心臓が揺れ動いた。
「原(はら)室長、佳純を連れて先に帰ってくれ」
「かしこまりました。会長」
原に一言告げると、一樹はそのまま葬儀場の中に体を向けた。これ以上佳純を見る勇気がないのか、肩を落として歩いていく彼の後ろ姿をじっと眺めていた原は、ゆっくりと佳純の方へ足を運んだ。体を丸めたまま震えている姿が見るにも絶えず、彼の口から小さなため息が溢れた。
「お嬢様。そろそろお家にお送りいたします」
原の声に佳純が行く利と顔を上げた。ウサギのように赤く充血した目には涙がいっぱい溜まっていて、溢れ出す涙をこらえようとするように唇をギュっと噛みしめた。
「送って行きます」
「1人で帰ります」
袖で涙を拭いた佳純がふらふらと体を起こして立ち上がった。
「お嬢様」
「車のキーを…ください」
冷たい顔をして手を差し出した彼女の姿がとても不安そうに見えた。原が落ち着いた眼差しで佳純を見つめた。魂が抜けたように空虚な目つきをした姿が見るからに倒れてしまいそうでハラハラした。
「とても疲れていらっしゃるようですので、私が…」
「大丈夫です。自分で帰ります」
湿った声で話した佳純が原を通り過ぎて歩いていった。一瞬だったが鋭さを隠した彼女の目つきを見た原は、なぜか不安感に彼女の後を追った。
「お嬢さま」
「私がついて行きます」
原は自分の肩を引っ張る手に後ろを振り返った。そこには黒いスーツを着た隼人が無表情に立っていた。原が固い表情で周りをちらりと見て、低い声で言った。
「会長がここにいらっしゃったことをお知りになったら、激怒されます。家に帰ってください」
「自分でどうにかします」
「専務」
「これ以上何も言わないでください」
「……」
「ついても来ないでください」
警告するように殺気のこもった言葉を吐き出した隼人の勢いに結局、原は固く唇を閉じて自分を通り過ぎていく隼人をただじっと見つめるしかなかった。すぐにでも彼を引き止めたかったが、だからといってむやみに意思を曲げる人ではなかった。それを誰よりもよく知っているので、これ以上文句を言うことができなかった。
結局、諦めたように原はそのまま葬儀場の方に体を向け、隼人はいつのまにか遠ざかった佳純の後を追って素早く歩いた。店が立ち並ぶ通りを通り抜け、とぼとぼと歩く彼女は見るからに危険そうだった。車が轟音を立てて道路を走っていて、その横を佳純が体を揺らしながら歩いていた。
すぐにでも道路に飛び込んでしまいそうな危険な歩き方に隼人は少しずつ彼女との距離を縮めた。すぐにでも駆けつけて彼女の体を自分の内側に立たせたかったが、どうしてもそうできず、万が一の状況に備えて神経を尖らせたまま彼女の後を追った。
後ろ姿を眺めることさえ胸が張り裂けそうに辛かった。自分も佳子の死に息が詰まるほど苦しいが、唯一の家族だった母親を失った佳純の心はどうなのか見当さえつかず、喉が詰まり、胸が張り裂けるほど息苦しくなってきた。
「はぁ…」
しばらくあてもなく歩いていた佳純が橋の上に止まったまま両目をぎゅっと閉じていたが、目を開けると深くため息をついた。そして下に流れる小さな川を見ようとするように手すりに向かって体を向けた。
冷たい風に佳純の髪が宙に舞い、生気を失った両目がまっ暗に覆われた橋の下を向いていた。その姿だけでも言い表せない痛みが伝わってきて、隼人は一時も佳純から視線を離すことができなかった。
しばらく佳純の姿を見守っていた隼人は、手すりに近づく佳純の姿に全身を刺激する不吉な予感を感じ、ゆっくりと距離を縮めた。
危険で残忍な考えが浮かび上がり、彼は足を早めた。その時だった。奇妙なほど平穏な顔をした佳純の体がゆっくりと前に傾くのを見た隼人がびっくりしながら叫んだ。
「佳純!」
素早く佳純に向かって走った隼人がやっとのことで佳純の腰を抱きしめた。佳純はビクっとしながら素早く首をかしげた。冷たくなった隼人の顔が見え、彼の荒い息づかいが熱く首筋に響いた。
「何をしているんだ!」
高くて冷たい隼人の声が彼女の耳の中に飛び込んだ。しかし、何かに取り憑かれたように空っぽの目をした佳純は、自分の腰を包んでいる彼の腕をつかんで押しのけながら淡々と言った。
「離して」
「佳純!お前、本当に死ぬつもり…」
「離してよ!」
バチン!
佳純が隼人の腕をぐいっと押しのけ、宙に浮いた彼女の手が彼の頬を思いっきり叩いた。あっという間の出来事。顔が回るほど強い衝撃に焦点を失った隼人の唇から虚しい音が漏れた。包み込んだ左頬がひりひりし、腫れたところに熱気がそのまま感じられた。
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