第28話
28.
「お兄ちゃんが好きなおかずを選んだんだけど…どうかな」
隼人の顔色を伺いながら佳純はぎこちなく微笑みながら言った。いざ隼人と二人きりとなると、緊張してしまうのか声が震えていた。
「これが俺の好きなおかずだって?」
隼人がお盆に置かれた料理をじっと見下ろしながら尋ねた。佳純はまるで宿題のチェックを受けている学生のように気後れした様子で答えた。
「いつもよく食べてるから…」
いくつかのおかずとわかめの味噌汁。普段は和食を好んで食べているところを見ていたので、喜んでくれるのではないかという気持ちで、練習までして作った料理だった。しかし、佳純の期待とは裏腹に隼人の表情は気に入らないようだった。
「お兄ちゃんの好きな物、作り直してくるね。何がいい?」
がっかりした様子を隠して、佳純が無理やり笑いながら尋ねると、しばらくじっと料理を見ていた隼人が箸を取った。
「いいから、どこへも行かずに隣にいろ」
「ん?」
「1人で食事をするのは嫌だから、隣にいろ」
隼人の感情のこもっていない視線に佳純は戸惑った表情で力強く頷きながら彼のそばに座った。
佳純は、もしかすると口に合わないのではないかと焦って隼人を見た。味噌汁を一口飲んだ彼の表情には特に変化は見られなかった。佳純は隼人が眉をしかめなかっただけでもよかったと思い、安堵のため息を漏らした。佳純は胃もたれしてはいけないと隼人のそばに水を注いだコップを置き、手持ち無沙汰に周りを見渡した。
その時、佳純はふとベッドの下に見慣れない物が落ちているのを発見した。何だろう?彼女は隼人の顔色を伺いながらゆっくりと体を起こした。できるだけ体を低くして、ベッドの下を探ると、佳純の手が小さな物体を捕まえた。取り出してみるとライターであったので、首をかしげた。
「お兄ちゃん、タバコ吸わないよね?」
一度も隼人がタバコを吸っているところを見たことがなかったので、隼人の部屋にライターがあることが意外だった。佳純は手に取ったライターを隼人に渡した。その瞬間、冷たく変わった隼人が急いで立ち上がると、佳純の手からライターを奪い鋭い目つきで睨んだ。
「俺のものに勝手に触るなと言っただろ」
「あっ。ご…ごめん。ベッドの下に落ちてたから…」
戸惑いながら視線を落とした佳純の姿にもライターを握った隼人の表情は次第に冷たくなっていった。
優奈の遺品だった。死ぬほど辛くなると、時々タバコを吸っていた彼女が使っていたライター。何もかも燃えて無くなってしまったが、唯一残ったのが彼女の手垢のついた物だった。だからこそ二度と取り出して見たくない物でもあった。
見るだけでも息が詰まり、鳥肌が立って酒に酔って部屋のどこかに投げてしまったが、ベッドの下にあったようだ。隼人はそのまま手にしたライターを引き出しの中に投げ入れると、遠くに立って自分を見つめている佳純の顔を見た。
気に障った。優奈と重なって彼女との残忍な記憶を引き出すことも、強固な物で塞いでいた自分の感情の壁を純粋な顔をして何事もなかったかのように壊してしまったことも、全て気に障った。
「出て行け」
冷淡な反応に佳純が驚き顔を上げ、ハジュンを見上げた。漆黒のように暗い彼の瞳がしっかりと自分を見つめていた。
「お兄ちゃん?」
「出て行けと言ったのが聞こえなかったのか?」
低い声に困惑した佳純の顔が赤くなった。今の状況に混乱してしばらく考えていた彼女は、あっという間に自分を通り過ぎて部屋のドアへ向かう隼人の腕を素早く掴んだ。冷たく瑠璃帰る隼人の目つきにドキっとしたが、このまま出て行ってはお互いの距離がさらに離れてしまいそうだという不安に勇気を出して口を開いた。
「ごめんなさい。お兄ちゃんが自分の物を触られるの嫌いだって知ってたのに…。私が悪かった」
佳純は隼人を掴む手に力を込めた。
「次からは気をつける。だから許して」
当惑した表情で何とか状況を解決しようと努力する佳純を、隼人が深まった視線で眺めた。自分の腕をぎゅっと握って落ち着かない佳純の姿を見ていると、無理やり顔を背けた妙な感情が徐々に上がってきて自分を刺激するのが感じられた。
ただ無視すれば良いことを、どうしても自分の手を離さないという彼女の行動に、張り詰めていた自制心が一瞬崩れ落ちるのが感じられた。結局、感情を我慢できず、隼人は片腕で彼女の腰を包み深く胸に引き寄せた。そして右手で彼女のあごをつかみ、自分の顔の方に引き寄せた。
突然の状況に驚いたのか、まん丸にした目で細かく体を震わせている佳純が隼人の視界に入った。冷たい光を帯びた隼人の目が細くなった。
「…出て行けと言われたら出て行けよ。どうしてしがみつくんだ?」
低く陰鬱な声が顔に触れると、慌てた佳純の顔が真っ赤に火照った。隼人の暑い吐息が近くに感じられ、自然に指先が震え、気が遙かに遠くなった。佳純は捕まえていた隼人の腕をギュッと握ると辛うじて口を開いた。
「お兄ちゃんが私のせいで怒ったみたいだから…。私はただお兄ちゃんとほかの兄妹みたいに仲よくしたいのに…」
「兄妹?」
耳障りな単語に隼人の眉毛がつり上がった。純粋なのか馬鹿なのか分らない佳純の姿に隼人の口から虚しい声が溢れた。
「はぁ。こうしてみると、親父は本当に面白いやつを家に連れ込んだんだな」
佳純は全身を押さえ付ける隼人のどっしりとした目つきに青白い顔で体を震わせはじめた。
「お兄ちゃん…?」
「兄妹なんて。誰が?」
「あの…」
隼人が佳純の首筋を包み込み、自分の顔に深く引き寄せると唇を奪った。彼の腕から抜け出そうと佳純は体をひねったが、抵抗すればするほど逃がさないというように、隼人が佳純の腰をしっかりと抱いて強い勢いで彼女を押さえつけた。
全身を焦がすような強い旋律が全身を襲った。窒息しそうに追い詰める隼人によって、息さえまともにできなかった彼女の顔は赤くなった。何とか隼人から逃げだそうと必死になったが、唇の間に食い込む柔らかな感触は抵抗するほど荒々しく彼女を踏みにじった。
結局疲れたのか、隼人の腕を押し返していた佳純の腕から力が抜けた。その瞬間、嘘のように隼人は離れ、佳純はこらえていた息を強く吐き出した。
「ゲホッ。はぁ。はぁ」
胸がおかしなほどドキドキし、足が震えるほど気が動転した。慈悲などない一方的なキスに佳純の唇は血を含んだように赤く腫れ上がっていた。
「これで正気になったか?」
ぐっと近づいて隼人が低い声で尋ねると、やっと息をした佳純が驚いて隼人の頬を叩こうとするように手を上げた。しかし、それさえも隼人に阻止されむしろ彼の力に引っ張られ前に傾き、息づかいを感じるほど近づいてしまった。
「甘やかしてくれる兄がほしいのなら、家を間違えたな」
鋭い閃光を放つ隼人の目つきに押さえつけられるように、真っ青な顔をした佳純がまだ彼の感触が残っている唇を震える手で拭きながら言った。
「何をするの?どうかしちゃった?」
「どうかしたのは俺じゃなくお前だ」
「なに…?」
静かに沈んだ目つきで、意味の分らない言葉を吐き出す隼人に向かい合った佳純の唇はブルブルと震えた。
「それはどういう…意味?」
「この家でお前を家族だと思っている人がいると思ったか?」
隼人は佳純を引き寄せると耳元にささやいた。
「誤解するな。ここはお前の好き勝手にままごとをするような場所じゃない」
ストレートな隼人の言葉に、佳純の顔が真っ青になり始めた。ただ隼人と仲よくしたいという純粋な気持ちで近づいた自分の気持ちが、残酷にも引き裂かれ心臓がバラバラに裂けてしまうようだった。背筋がひんやりスルほど冷たい声にゾッとし、佳純は早く彼の腕を引き離して後ずさりした。
混乱と恐怖が絡み合った佳純の目がじっと彼を睨んでいたが、隼人は気に留めず佳純の視線を流すと無表情な顔でドアの方へ近づいた。
「出て行け」
「……」
「続きをしたくないなら、さっさと出て行くんだ」
無味乾燥な口調で出て行けと催促する彼の姿に、佳純は下唇をそっと噛んだ。さきほどの衝撃が消えないのか震える手を握りしめた状態で、ゆっくりと部屋の外に向かっていた佳純は、隼人の前で足を止めた。
静かな雰囲気の中でぶつかった視線が、まったく引き下がらずに張り詰め、お互いに向かった。そしてその瞬間、手を上げた佳純が稲妻のように彼の頬を強く叩きつけた。
バシン!
「お前…?」
「また私にこんなことしたら、その時は…許さないから」
隼人の頬を殴った佳純の手はブルブルと震えていた。感情が高まって言葉を最後まで続けられなかった佳純は、血の気のない青白い顔をして、そのまま隼人を通り過ぎた。
言葉にできない気持ちに隼人の表情が痛ましく崩れ落ちた。恨み混じりの目つきで自分を厳しく睨んでいた佳純の表情に向き合い、感情を抑えられなかった自分の姿が頭の中に刻印され、激しい怒りが胸の奥からこみ上げてくるのが感じられた。
「はぁ」
隼人は重く沈んだ静寂の中で深いため息をついた。佳純に殴られてひりひりする頬を過ぎ、まだ強烈に香りの残った自分の唇を触りながら、隼人は壁に背中をもたげたまま両目をぎゅっと閉じた。
* * *
ブーン…。ブーン…。
まるで悪夢でも見たように苦しそうな表情をした隼人が指先を刺激する振動にゆっくりと目を開いた。まぶしい照明の光に目をしばたたいた隼人は、しきりに響く携帯電話の液晶画面に見えた名前を確認すると眉間にしわを寄せた。
穂乃恵さん?名前を確認するなり押し寄せる不吉な予感にしばらく携帯電話を見つめていた隼人は、体を起こすと慎重に通話ボタンを押した。
「もしもし…」
―ふぐっ…。どうすれば。どうしよう…。ふぐっ
耳の中に容赦なく入ってくる鳴き声に、隼人は我に返ったのか両目を見開いた。
「どうしたんですか?」
―佳子が…。佳子が…。ううっ
「先生に何か…あったんですか?」
ここ数日、体調が悪化したとはいえ、生死に関わることではないと言っていたので安心していたが、穂乃画の声に彼の心臓は張り裂けんばかりに鼓動した。
「おばさん?」
―ううっ。ごめんなさい。1人でシャワーを浴びたいって言ったときに止めていれば…。ううっ…
「いったい何の話ですか?泣いていないで詳しく…」
―自殺だなんて…!うわぁん…。かわいそうな佳子。どうすればいいの…。ふぐっ
自殺?脳裏にその単語が差し込まれた瞬間、携帯電話を持っていた隼人の手がだらりと落ちた。まさかとは思ったが、実際に現実となると気が遠くなるほど強い衝撃に頭を強打したようだった。
抑えきれない感情にぼうっとした目つきで部屋の中を徘徊していた隼人は、やっと気を取り直して乾いた唾をごくりと飲み込んだ。そして、まだ切れていない携帯電話を耳に近づけた。
「佳純…彼女にも連絡されましたか?」
―ええ。真っ先に連絡したけど…。それから電話に出ないのよ…
「…わかりました。とりあえず、俺が佳純の家に行ってみます」
隼人は電話を切るとすぐに、椅子にかけてあった上着を手に取ると部屋を飛び出した。彼の頭の中はいつの間にか1人で全てを抱えているだろう佳純でいっぱいになった。
頼む。家にいてくれ…
全身を締め付ける不安に車に乗った隼人はそのままためらうことなく、佳純の家に向かった。
* * *
真っ青な顔をした佳純の青い唇に軽く痙攣が起きた。魂が抜けてしまった彼女の姿を見下ろした玄暉は、ようやく気がついたのか落ち着いて彼女の肩を引き起こした。
佳純の体が強い台風に今にも折れてしまいそうな木の枝のように力なく震えていた。その姿があまりにも気の毒で、玄暉はゆっくりと近づいて彼女を抱きしめた。
震えている佳純から悲しみがそのまま感じられ、玄暉の心臓はがたがたと崩れ落ちた。玄暉が落ち着けというように、彼女の背中を軽くたたいた。
悲しみの大きさが見当もつかず、どんな慰めの言葉も口に出なかった。ただ全身で号泣する彼女をぎゅっと抱きしめてあげることしかできず、胸の中が傷ついたように痛んだ。
「まずはお母さんのところへ行こう」
落ち着いて二人の姿を見守っていた満が深いため息をついて先に口を開いた。その瞬間、母親が亡くなったという彼女の言葉に恵子の顔を思い出したが、編集長から佳純の家族関係をぼんやりと聞いた記憶があり、考えを整理することができた。
哀れな気持ちで佳純を見つめていた満は、堤防が崩れたように限りなく涙を流す彼女の姿に自ずと粛然とした。
「お前が佳純ちゃんを連れてきて。マンションの前に車を持ってくるから」
「分かった」
満の言葉に玄暉は沈痛な表情で答えた。彼の頭の中からスキャンダル記事など消えていた。どうしたのかと横から聞く編集長の問いかけに返事もせず、玄暉は佳純を慎重にそばに立たせて支えた。
空が崩れ落ちたように真っ青な顔で止まることなく涙を流す彼女の姿があまりにも切なく、支えている玄暉の手に力が入った。
「さあ行こう、佳純ちゃん」
玄暉の低い声に佳純は魂が抜けた顔でかろうじてうなずいた。まるで今の状況が現実だと感じられないように、彼女の目は焦点を失ったまま絶えず湧き上がる涙を流した。
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