第27話



27.





どうにかして、レニーというペンネームで永遠にみんなの前に出ることがないように願った。姉たちが自殺で死ぬ寸前まで行ったという恐ろしい悪夢が現実に繰り返され、人々の話題にならないで欲しいという気持ちからだ。


自分のせいで人々の口から姉たちの名前が挙がれば、やっと心を落ち着かせて生活している姉たちを罪悪感で二度と見られなくなるほどだった。そのために隠したい気持ちがより切実であったのに、それを花恋がぶち壊してしまった。めちゃくちゃになった状況に直面した玄暉の顔に複雑な心境がそのまま現れていた。


―郊外のスタジオよ。でも今来たら…


「切るぞ」


プツッ。花恋が言い終わる前に電話を切った玄暉の口から強いため息が漏れた。尋常でない雰囲気を察した満が心配そうな顔で玄暉の前に座って言った。


「まずは落ち着け。落ち着いてから…」


「一緒に来てくれ。今の精神状態で運転したら事故るかもしれないから」


立ち上がると玄暉は部屋に向かった。すると編集長は固まった顔で玄暉の腕を強く掴んだ。


「今行ったら、事が大きくなるだけよ」


「自分で何とかします」


「玄暉!」


「彼女が意図的に記事を流したんだ」


「えっ?」


「あの性格だ。電話で話したところで埒があかない。それなら直接行ってやり合う方がいいんです。だから止めないでください」


編集長の手を引いた玄暉がロフトに上がって着替え、帽子を深くかぶって下りてきた。その姿をじっと見ていた満も急いで準備しろという玄暉の目つきに、やむを得ない顔で服を着替えた。どうせ止めても無駄だと直感的に感じた満は服を着て下りてくると、何も言わずにテーブルの上に置かれた車のキーを手にした。


「私も行くわ」


編集長も就いてくる勢いで体を起こしたが、玄暉は彼女の両肩を掴んで座らせながら言った。


「一緒に動いていたら時間の無駄です。叔母さんは事態の収拾をしてください」


玄暉の言葉を聞いた編集長の心配が深まった。もしも興奮して逆に大ごとにしてしまわないか心配でもあったが、意地を張っている状況ではないことは誰よりもよく分っている彼女は玄暉の意見にうなずくしかなかった。


「わかったわ。その代わり、携帯電話の電源は切っちゃダメよ」


編集長の頼みに玄暉が小さくうなずいて玄関に向かい、靴を履くとドアを開けた。そうして外に出ようとした瞬間。インターフォンがなると共に目の前に見えた見慣れた人影にとても驚き、立ち尽くした彼の目が大きくなった。


「ふぐっ…。玄暉くん…。ううっ」


佳純だった。彼女はしばらく泣いていたのか、赤く充血した目で自分を見つめていた。慌てた玄暉は乾いた唾を飲み込み、どうすればいいか分らないという表情で佳純を見つめた。


何か言わなければならないが、あまりにも驚いたせいか、それとも緊張したせいか、全身がまるで全身麻酔でもしかかのように、思いどおりに動かすことができなかった。その姿を追ってきた満が発見すると、戸惑った表情で佳純に近づいた。


「佳純ちゃん、どうしてここに…?そんなことより、何かあったの?」


満が慎重に聞くと、佳純が震える手で流れる涙を拭うと、なんとか口を開いた。


「お母さんが…。ううっ。お、お母さんが…。ううっ」


「お母さん?」


「お母さんが…。うぐっ…。死んじゃった…」


「…えっ?」


「ううっ…。お母さんのところに行かなきゃ…。ふぐっ…。今すぐ…」


佳純の言葉に玄暉と満の目つきがくらく曇り、佳純はそのまま倒れるように床に座り込んだ。




* * *




仕事に集中できず、早く退勤した隼人は、首を締め付けるネクタイを荒々しくほどき、床に投げつけた後、机の上に置かれた水を1杯飲んだ。


冷たい水が食道をすぎ胸の辺りに到達するのが感じられたが、焦げ付いた胸を冷やすには足りなかったのか、収まらない乾きのせいで、口がカラカラに渇いてきた。



「確かに警告したぞ。これ以上私を怒らせたら、その時は息子であっても許さない」



全身を恐ろしく押さえつける一樹の言葉と表情があの日からしきりに反芻され、ひとときも頭から離れなかった。


かすかに消えていく小さな火種が再び燃え上がったように、消そうと努力した事実が結局コントロールできない感情のせいで自分の口から外に出てしまった。結果的には自分が佳純から徐々に遠ざかる悪循環が始まったのだ。



「お兄ちゃんと向き合っているだけでも、ぞっとする。だから二度とこの家に来ないで…」



その瞬間隼人の顔に冷たさが漂い、消えた。佳純に対する失望でも絶望でもない切実さが次第に濃くなった。遠くなればなるほど全身を刺激する不安に目の前がくらんだ。


あの玄暉とかいう男のせいで、そこまで激しく変わってしまったのだろうか?いや、そんな理由と言うには、自分を真っ直ぐに見つめていた佳純の目にはあまりにもはっきりと軽蔑が含まれていた。


一度も見たことのない姿。あの日隼人はあっという間に押し寄せる感情に爆発してしまい、全てを台無しにしてしまった。


ズキズキとする頭痛が押し寄せてきた。苦痛に片目をしかめた隼人は押し寄せる疲れにそのまま倒れ込むようにベッドに身を投げた。


全身に触れる柔らかい布団の感触に少し心が落ち着き、苦痛が消えるようだった。はるかに楽になった表情で両目を閉じため息をついた隼人は、もう少し楽な姿勢を取るために体を横に向けた。その瞬間、体に何かが当たり彼は手をまさぐりながらそれを手にした。変わった模様が刻まれたライターだった。


隼人が妙な目つきでライターの表面を触りながら蓋を開け、親指に力を入れてホイールを回した。しかし、火花が散っただけで火はつかなかった。


しばらくライターのホイールを回していた隼人は、ふと思い浮かんだ過去の記憶に焦点がぼやけ始めた。閉じた目の前の空間に隙間ができたように光があふれ、過去の幻影が目の前に現れた。




* * *




「この子の食事は別に部屋へ持っていくように言ったでしょ?」


2階から下りてきた隼人は激しく大声を出す稽古の声に足を止めた。一樹が仕事で海外出張に行ったため、しばらく家の中が騒がしくなるとは予想していたが、初日から嵐が吹き荒れる冷淡な家の雰囲気に心穏やかではなく、隼人の表情がすぐに暗くなった。


「何事ですか?」


隼人が小さな声で階段の下に待機していた家政婦に尋ねると、彼女がキッチンの方を気にかけながら慎重に口を開いた。


「奥様が会長がいらっしゃらない間はお嬢様と一緒に食事をしないとおっしゃられて…」


「さっき見たらあの子が料理も手伝っていたみたいだけど…。いったいあなたは何をしているの?私があの子が作った食事を食べるとでも思った?」


ヒソヒソ話していた彼女が再び聞こえてきた恵子の鋭い声に驚くと、貝のようにぎゅっと口をつぐんだ。キッチンの中は息が詰まるほどの緊張感が漂っていた。しばらく留まっていた家政婦数人が隼人に小さく黙礼をし、急いでキッチンへ向かった。


日常的に起きることなので平然としていてもいいのだが、押し寄せる煩雑な考えに隼人は深いため息を吐きキッチンに足を運んだ。家政婦たちがテーブルの上に置かれた食べ物を一つ二つ片付け始め、その横には佳純が両手を合わせたまま、罪でも犯したかのような表情で頭を下げていた。


隼人の両目が彼女の姿をうかがった。涙ぐんだままどうしていいか分からずにいるだろうという彼の予想とは異なり、彼女は平気な表情ですべての状況を我慢していた。


もうある程度慣れた、ということか?佳純の姿が興味深いとでもいうように、注意深く眺めていた隼人の口元にかすかな笑みが映って消えた。


「出て行かないで、何をしているの?」


今すぐ出て行けと目を向ける恵子をちらりと見た佳純は、そっと頭を下げてキッチンの外に足を向けた。その瞬間、隼人が待っていたかのように入ってくると、彼を見た恵子の表情はさっきとは違って明るくなった


「隼人」


「料理を元に戻してください」


静かに食卓に近づきながら話す隼人の声に、家政婦達はためらいながら視線を一カ所に向けた。そこには恵子が立っていて、笑みの消えた顔で瞳がかすかに揺れていた。


「食事を作り直すように言ったから、ちょっと待ってね」


「せっかく準備したんだ。そのまま食べるよ」


隼人の言葉に佳純が怪しそうな目つきで止まった。突然の彼の行動が理解できないのか、出て行くことも考えずにじっと立って、彼を見つめた。


「あなたがそう言っても、私は嫌。早く作り直して…」


「母さん、食べよう」


低くて強い口調に恵子が家政婦に向けていた視線を隼人に移した。隼人の行動を疑問に思ったのか、彼女の眉毛がすっと上がった。


「私が嫌だというのに、食べようということ?」


「まだ仕事がたくさんあるんだ。このまま飢える?」


隼人がいざこざを繰り広げることさえ面倒だというように鋭く言うと、恵子は口をぎゅっと閉じた。普段だったら寂しい気持ちを表わしながら何か言ったはずだが、今ちょうど会社の仕事を始めたところで、とても疲れている隼人のことを考えて口の中に漂う言葉を飲み込んだ。


結局、勢いが弱まった恵子は、家政婦に食べ物を持って来いと手招きし、隼人を澄ました顔で眺めた。


「そうね。あなたが本当にそうしたいなら、そうしないと」


彼女はテーブルの上の食べ物に目を通した。


「じゃあ、食べなさい。お母さんは誰かのせいで食欲が失せたわ」


毒舌を飛ばし、佳純を睨む恵子の冷淡さに隼人の瞳が深まった。予想していた反応だった。彼は佳純をちらりと振り返った。恵子の気に押されて大きく萎縮した佳純がどこか気になった。


「じゃあ、佳純が俺のご飯を部屋に持ってきて」


突然の彼の一言に、緊張感が漂い始めた。まるで言ってはいけない言葉を吐き出したように、皆がそれぞれ焦った目つきで顔色を伺った。恵子は結局、我慢していた不快感を表わした。


「どうしてそんなことを、あの子に頼むの?仕事しながら食べるなら、私が持っていくわ」


「いいよ。どうせ、あの子がいると母さんが食事できないだろ。すみません、俺の食事を簡単に準備して佳純に持たせてください。母さんの食事も別に準備お願いします」


「あ、はい。お坊ちゃま」


その返事を最後に隼人は振り向いた。そんな隼人をじっと見つめていた恵子は不満いっぱいの顔をして黙ってキッチンを出た。あっという間に静寂が流れ、ぼんやりと立って途方に暮れていた家政婦たちは、すぐに隼人の顔色をうかがって素早く食事の準備を始めた。


まるで何事もなかったかのように一糸乱れず動く彼らの姿に、小さくため息をついた隼人の視線がこっそりと佳純に届いた。緊張した姿でぽかんと立っている彼女の唇の端が下に向いていた。


隼人の目が揺れ、表情が妙に歪んだ。佳純に過去の優奈の姿が重なって、胸の中から熱い何かが跳ね上がるのを感じた。突然吹き荒れる感情に慌てた彼は、自分に向かって近づく佳純を無視したまま、そのまま2階の部屋に上がって深呼吸をした。


「ふぅ…」


初めて佳純の顔から優奈を思い出したように、忘れようと努力したあの日の記憶が蘇り、再び彼の頭の中は複雑に絡み合ってしまった。心臓を締め付ける痛みに隼人は我慢していた息を吐き出した。


自ら車に飛び込んだ姿。もう歳月が経ってその日の記憶に慣れてもおかしくないだろうが、体はまだその日の衝撃を覚えているのか、勝手に震えていた。気持ちを落ち着かせようとやっと息を整えて目をぎゅっと閉じて開けた隼人は、その時になって震えが収まったのかそのまま垂れ下がった体を椅子に任せた。あっという間に溜まっていた疲労が押し寄せるのが感じられた。


コンコン


「お兄ちゃん」


少しでも疲れを取ろうと目を閉じていた隼人は、佳純の声に体を起こしてドアの方へ歩いて行った。さっきの苦痛が鮮明に残っていたため、しばらく迷ったが、隼人は努めて平気な表情でドアを開けた。


「入れ」


ドアの前に隼人がいるとは思っていなかったのか、佳純が両目を丸くしたまま立っていた。入ってこいという言葉にもかかわらず、しばらくぼんやりと立っていた佳純は、手に持った盆を奪い取り、黙って後ろ向きになる彼の姿にやっと我に返ると部屋の中に入った。


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