第26話
26.
「…先生から聞きました」
隼人の言葉に一樹の眉がぴくりとした。その瞬間、特に隼人をかわいがっていた佳子の顔が思い浮かんだ。
「そのことをお前に…話したというのか」
「父さんより俺のことを信じてらっしゃったから」
隼人の目に過去の残像が映って消えた。
「…いつから知っていたんだ?」
厳しい表情で尋ねる一樹の姿に隼人は少し間を置いて答えた。
「佳純が大学に入学するころ…。先生が話してくれました」
「この世に血の繋がっているのは私しかいないのに…。もしも私がこの世を去ることになったら、かわいそうな私の娘を、あなたが守ってちょうだい。何があっても、あの子のそばにいてあげて。わかった?」
まるですぐそばで話しているかのように、生き生きとした佳子の声が隼人の耳元にかすかに響いた。腕にしがみついて、しばらく涙を流していた彼女の頼みに小さくうなずいたその日の記憶が脳裏をかすめ、胸がチクリとした。
「そのことを知っていて、今まで私に何の素振りも見せなかったということだな…」
低い声でつぶやく一樹を感情のこもっていない目で見つめていた隼人が言った。
「話す必要がなかったので」
「なに…?」
冷たいひと言に一樹の顔が固まったが、隼人は抑揚のない声で話を続けた。
「俺が事実を知っていたからといって、何も変わらないですから」
隼人は力を込めて強く言った。
「どうせあの子を父さんの娘として家に迎え入れると決めた以上、どんな障害があったとしても、あなたは自分の思うとおりに行動するでしょう。それがどのような形であっても」
そう。隼人を無理やり黙らせてでも、迎え入れたはずだ。誰よりも愛した女性の娘だから。しかし、今はあの時の無関心を後悔した。時間を戻せるのなら、佳純が家にやってくる前に戻り、全てを変えてしまいたかった。隼人の目が深く沈んだ。
「それで知らない振りをしするという考えが、せいぜいその程度のことなのか?いくらそうでも、私の家にやってきた以上、あの子は私の娘で、お前の妹だ。この事実は永遠に変わらない」
強い口調で吐き捨てた一樹に力が戻ってきた。胸の奥から寒気が押し寄せてきた。想像もできなかった状況を前に崩れることもあったが、そうすればそうするほど、彼はさらに冷静になった。
「今日のことは聞かなかったことにするから、馬鹿なことはやめて目を覚ませ。お前はもう、前後の見分けがつかない年じゃないんだから、私の言うことは十分に理解しただろう」
一樹は心の中で一度長いため息をついた。
「幼稚な行動を見逃すのも、これで最後だ。私の言葉を肝に銘じろ!」
警告するように冷淡に話した一樹が体を車に向けた。泣きそうになる感情を抑えきれなかった隼人が喉の奥に満ちた熱い言葉を吐き出した。
「父さんが何を言おうと、俺は自分のやりたいようにします」
隼人の声に車に乗り込もうとしていた一樹が体を真っ直ぐに起こして、隼人を振り向いた。朱色の街灯の灯りが隼人の顔を照らし、彼の目は妙に輝いていた。
「あの子は…俺の全てなんです。いまさら昔に戻ることなんてできない」
一瞬、今まで我慢していた思いが走馬灯のように駆け巡った。話すこともできず、心の中で声をあげていたひと言。あまりにも切実だったが言えなかったひと言。
「あの子を心から愛して…」
バシン!
「愚か者め!今すぐ黙るんだ」
言い終わる前に一樹がかなり怒った顔で隼人の頬を力一杯叩いた。
一瞬、彼たちの間に厳しい寒さが吹き荒れたような冷たい空気が漂った。隼人は強い衝撃に口の中を切ったのか、道に血を吐き出した。いつの間にか彼の黒い瞳の中に、青白い冷気が漂っていた。
「確かに警告したぞ。これ以上私を怒らせたら、その時は息子であっても許さない」
激怒した一樹がかなり強く隼人を責め立て、最後の言葉を吐き出した。
「それから、もしも佳純に何か馬鹿なことを話したら」
「……」
「その時はお前にこの国から出て行く覚悟をしてもらう」
* * *
「あらあら。この子たちったら、お酒にやられたわね」
編集長は入ってくるなり見えた光景に舌打ちせざるを得なかった。食卓の上にさまざまなつまみと酒瓶が転がっていて、血気盛んな男2人が床に気絶したように手を取り合って眠っていた。その姿がどれほど切なく見えたのか、編集長は呆れたという顔つきで、繋がれた彼らの手を足で踏みつけた。
「痛っ!」
その瞬間、満が悲鳴を上げて目を開けた。その姿が気に入ったのか編集長の口元に満面の笑みが広がった。満は顔をしかめながらゆっくりと体を起こした。
「いらしたんですか?」
「もう!お酒臭い。いつもは誘っても飲まないくせに、どうしちゃったの?」
編集長は手に持った買い物袋をテーブルの上に置きながら尋ねた。
「あぁ。突然こいつが酒を飲みたいっていうから…」
編集長が大股でバルコニーに近づき窓を開け、言葉尻を濁す満の声に意味深な表情で彼を振り返った。突然お酒が飲みたくなった?ふと科ののの頭に事務所から息せき切って飛び出していった玄暉の後ろ姿が思い浮かんだ。
「どうして?彼女と上手くいってないの?」
「はい?彼女ですか?」
初めて聞いた話だというように、首をかしげた満の姿に編集長は大喜びした子どものように頷いた。
「知らなかったの?それがね!玄暉が…」
「叔母さん、できれば海ほど広いお節介は家に置いてきたらどうです?」
2人の話し声に目を覚ましたのか、玄暉がボサボサの髪を掻きながら起き上がった。編集長はぎくりとしたが、むしろ勢いよくテーブルの上に置いてある袋を叩きながら言った。
「海のように広いお節介を家においてくるついでに、これも持って帰っちゃうわよ、甥っ子さん」
「それ何です?」
「酔い覚ましの食事よ」
「酔い覚ましの食事ですか?」
満が両目をパチパチさせて、彼女の持ってきた袋を見たが、玄暉は関心などないと言った表情で彼女を通り過ぎて冷蔵庫から水を出して飲んだ。
「わぁ!さすがアメリカンスタイルは違いますね。朝から肉汁たっぷりのステーキに、クリームパスタ、それにバゲットまで」
期待していた物と全く違う料理に、見ただけでも胃がムカついたのか、満が口いっぱいに空気を含むと、首を横に振った。
朝からこんなこってりした食事とは…。信じられないというように、満の表情には悲しさがにじみ出ていた。しかし、その気持ちを知ってか知らずか、編集長はむしろニッコリ笑うと、パンを一つ取り出してみろと言うように口にくわえて話した。
「ダサいわね。エレガントな女性は最近こうやって酔いを覚ますのよ」
「あぁ。はい…。エレガント…」
「朝から何の用ですか?」
玄暉が会話を遮って尋ねると、編集長は忘れていたことを思い出したかのように目を大きくしてソファーに飛び乗って話した。
「あぁ。目に入れても痛くない甥がもしかして飢え死にしてないか心配で来たのよ」
「話が長いところを見ると、既に不安ですが」
「確かに。『目をさしてやりたい甥』って言いたかったんじゃないんですか?」
「あんた達は!」
意地悪に話す彼たちの姿に、もうひと言、言おうとした編集長は何となく視線を向けたテレビに額を手のひらでポンと打った。こんなことをしている場合ではない…。彼女の口から自然にため息が出た。その姿を瞬間的に見た満が口の中の食べ物を飲み込むと言った。
「おばさん、そんなに大きなため息をついたら、福が逃げますよ」
「逃げる福でもあればいいわね」
決まり悪そうに満が顎の先を掻きながらソファーの方へ向かった。
「先にシャワー浴びろよ。俺はテレビでも見てるから」
満の言葉に玄暉がうなずいた。編集長がいつの間にかそばに近づき、テレビのリモコンを手にする満の行動にビックリしながら、声を上げた。
「ダメ!」
耳に突き刺さる鋭い声色に、唖然とした玄暉と満が彼女に視線を向けた。気まずそうな編集長は満から素早くリモコンを奪うと、ぎこちなく笑った。
「お酒を飲んでテレビなんて見たら、目が回って…あっ!それから気持ちも悪くなるでしょ。もう少し寝たら?後で起こしてあげるから」
「二日酔いじゃないから、大丈夫です!」
満が優しく笑いながら言ったが、リモコンを渡すつもりはないのか、編集長が奥歯を噛みながら言った。
「そう?アハハ。やっぱり若いと回復力もすごいのね。それじゃあ本でも読めば…」
「どうしたんです?テレビを見るって言ってるのに。リモコンくださいよ」
いつもとは違う彼女の行動におかしさを感じたのか、玄暉が手を差し出した。同時に編集長の顔に困惑の色が広がった。
「そ、それが」
ピッ
「ついた」
いつの間にかテレビの前まで行ってボタンを押した満が満足そうな笑みを浮かべ、編集長の顔は徐々に固まっていった。
「何か面白い番組は…」
満がチャンネルを変えると、玄暉が挫折したようにまっ暗な暗雲垂れ込める表情をした編集長をチラリと見た。
どうしたんだ?玄暉は彼女の姿が理解できないというように首をかしげると、ソファーに座って視線をテレビに向けた。その瞬間、世界が停止したかのように、動きを止めた彼の顔が石膏の像のように固まっていった。
「何だ…。これ…?」
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満は驚き両目をまん丸にして玄暉と画面を行ったり来たりして眺めた。編集長は罪人のように深いため息をつくと話した。
「私も今朝知ったの。まずは訂正記事を要請したから、あなたは心配することは…」
「まさか、このレニーって僕のことじゃないですよね?」
玄暉が魂の抜けたような顔で尋ねると、編集長はすぐには答えられなかった。一瞬雪原の上に霜が降ったように玄暉の表情が冷たく変わり、今すぐにでも爆発しそうな彼の目が鋭く光った。危険だ。編集長の口が急に開いた。
「心配しないで。どうせみんな、あなたが誰かなんて知らないんだから!私がありとあらゆる人脈を使って何とか収拾する。だからあまり心配しないで!」
「…何も言わないでください」
ゾッとするような不気味な彼の声に、編集長がギュッと口をつむった。だから訂正記事が出るまではテレビを見られないようにしたのに…。
居心地の悪い状況で編集長は何もできず焦りながら足をバタバタさせた。
「玄暉、あんまり考えすぎないで…」
ブー…ブー…
どうにかして彼をなだめようと玄暉を振り向いた瞬間、編集長はテーブルの上で鳴る彼の携帯を見下ろした。もしかして、記者達が玄暉の正体を突き止めたのかしら?不安な気持ちで視線を向けると、液晶画面に浮かんだ名前を確認して眉をひそめた。
藤川花恋?編集長が目を細めて玄暉をちらりと見た。下唇を噛みしめながらテレビから視線を話せない姿が、今にでも何かやらかしそうな勢いだった。
「電話よ」
自分の言葉に気を取られていたのか、玄暉は何の反応もなくテレビを見ていた。結局、編集長が肩を叩きながら携帯電話を手に握らせた。
「とりあえず出て。いったい何を考えてこんなことをしでかしたのか、聞かないと」
催促する編集長から携帯電話を受け取った玄暉は眉をひそめた。
[藤川花恋]
液晶画面を確認した彼野手が怒りを抑えるようにブルブルと震えていた。しばらく黙って携帯電話を見つめていた玄暉がゆっくりと通話ボタンを押した。
―……。私よ。とりあえず怒らないで話を聞いて
玄暉は電話を耳に当てるやいなや聞こえてきた花恋の声にすっかり沈んだ声で言った。
「もういい。すぐに記事を下ろせ」
―それは事務所も今努力してるんだけど、あまりにも大ごとになっちゃって…
「だから…?できないって言いたいのか?」
―ふぅ…。まずは落ち着いて。私だってこんな記事が出るなんて知らなかったの!こっちもどうにかなりそうよ!
「今どこだ?」
―私?今は雑誌の撮影中だけど…?
「だから場所はどこなんだよ!」
湧き上がる感情が抑えられず、玄暉が受話器に向かって叫んだ。一瞬部屋の中に重たい静寂が流れ、怒りを抑え切れなかった玄暉の顔が真っ赤に染まった。
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