第25話
25.
『204号室、森佳子』病室の前に張られた名札をしばらく眺めていた恵子は、ゆっくりと病室のドアを開けた。
鼻を刺激するアルコールの臭いがとりわけ気に障り、ハンドバッグからハンカチを取り出し鼻を覆うと、ベッドに横たわっている女性をじっと見つめた。
色白で綺麗な肌に、細い体。ぱっと見には以前とは大きく変わったところがないように見える佳子の姿が気に入らないのか、恵子の目は鋭くつり上がった。偶然にでも二度と出会いたくない人物だったが…。残忍な運命によって、再び向き合うことになった。
眺めているだけでも怒りがふつふつと湧き上がってきたが、努めて感情を落ち着かせた恵子は、コツコツとヒールの音を響かせてベッドに近づくと、横に置かれた椅子に座った。
「お久しぶり」
恵子の声に、寝息を立てて眠っていた佳子がゆっくりと目を開けた。
「こんな所で会うことになるなんてね」
恵子と目が合った佳子は、驚いた様子で飛び起きて座った。いつの間にか、真っ青になった顔をした佳子が体をブルブルと震わせ恵子を睨んだ。恵子は気にも留めず、佳子の全身を見回すとニヤリと笑った。
「まだ生きてるの?」
「う…うぅ…!」
「こんな姿になってまで、娘を口実に私に会いに来させるわけ?」
バチン!
冷たい表情で恵子は佳子の頬を力の限りに叩いた。どれだけ強く叩いたのか、すぐに赤く腫れ上がった頬をさすりながら佳子はすすり泣いた。その様子を見ていた恵子は、眉間にしわを寄せて佳子の顎を掴んで目を合わさせると、口を開いた。
「医者の話では脳内出血による失語症ではなくて、精神状態による緘黙(かんもく)症だそうじゃない」
「…ふっ…うぅっ……」
佳子との距離をできる限り詰めた恵子は、彼女の耳元にささやいた。
「一度しか言わないから、よく聞きなさい」
「……」
「あなたは間違えたのよ」
背筋の凍るような低い声。佳子の目はますます大きくなった。
「あなたが静かに水商売の女として人生を終えていたら…」
「……」
「永遠に私の前から消えていたら」
そうならば…
「あなたの娘が同じように飲み屋に売られるところを見なくて済んだでしょうに」
最後の言葉を残して、佳子から遠ざかった恵子の目に呆然とした目つきの佳子の姿が見えた。初めて知った事実に衝撃を受けたように、真っ青な顔に向かい合っていると、本当に無様に思え、恵子の口から笑い声が漏れた。
家庭を壊し、純真な顔をして夫の前で偽りの涙を流した女だった。この女を許せるような心の余裕はなかった。
「ううぅっ…!」
顔に血管が浮き出し、額に汗が滲むほど興奮した様子の佳子が恵子の方を掴んだ。しかしその瞬間、激しく振り払う恵子の力に押されて、ベッドから転げ落ちてしまった。
ドスンという音と共に落ち、体を支えられないでいる佳子をじっと見下ろしていた恵子の目には、一抹の同情も見えなかった。ハンドバックを持ち直し、佳子をちらりと見ると、恵子はドアのほうへ足を運んだ。
「う…うううっ!」
絶叫するようなうめき声にドアを開けて出て行こうとしていた恵子は振り返って佳子を眺めた。死んでもプライドを守ろうとあがく彼女の姿が、今目の前の姿と重なって妙な気分になった。
「私を恨まないで。こんな状況を作ったのは、あなたなの。私じゃないでしょ?」
その言葉を最後に、胡散臭い笑みを浮かべたまま、恵子は病室を出るとドアを強く閉めた。それから、まるで不潔だというようにハンカチで荒々しく手を拭いた。ドアの隙間から聞こえてくるすすり泣きにも、少しもかき乱されることなく恵子は出口へ向かっていた。外で待機していた金子室長は恵子に近づくと携帯電話を渡した。
「伊藤一文代表です」
恵子は返事もなく携帯電話を受け取ると、車に乗り込みながら話した。
「もしもし」
―ああ。さっき会議中に電話があったみたいだが、突然どうした?
ねとっとした彼の声に、恵子は爪を触りながら答えた。
「お願いがあるの」
―頼み?何なんだ?
「室長から大体の話は聞いてるはずよ。どうして知らないふりをするの?」
イライラした口調にしばらく黙っていたが、すぐに一文の声が聞こえてきた。
―前回、話したはずだが?今後はお前の家のことは自分で…
「アリサの記事を止めるために、どれだけ苦労したかわすれた?」
―わかってる。それとこれとは、別問題だろ。お前の頼みを聞いてやったら、お前の旦那に会社を潰されるところだったって、お前の知ってるだろ
「キチンと仕事をしていれば、兄さんにそんなこと起こらなかったはずよ」
―……
「だから今回はお願いだから失敗しないでほしいの」
―……俺はもう汚れ仕事はしたくないんだ。お前は今でも俺がチンピラだとでも…
「父さんに話して、兄さんの望む芸能事務所をあげてもいい」
―恵子、お前ってやつは…
「兄さんじゃなくても、こういうことをしてくれる人はたくさんいる。それでも私がどうして兄さんに頼むか分かってるでしょ?」
―分かってるとも。分かっちゃいるが…
「いいわ。やりたくないなら別の人を…」
―おい!待てよ
ためらうことなく電話を切ろうとした恵子は、慌てる一文の声に冷笑を浮かべた。
―分かった!分かったよ。その代わり今言った約束は絶対に守れよ
「私がこんなことで、デタラメを言うわけないって、よく知ってるくせに」
―そうだな。お前はこういうところは確実にやるっていうのは分かってる。で、何をすればいいんだ?
一文が声を上げて訪ねると、恵子は大きく微笑んで答えた。
「前回のことを挽回できるチャンスをあげる」
唇を触りながら窓の外を見ていた彼女の目が一瞬冷たく輝いた。
「森佳子。今回はミスなく…。彼女が私と同じ空の下に存在できないように処理して」
* * *
ドアの外に立っている一樹を感情のこもらない顔で隼人が見つめた。
「何を黙ってるんだ?お前がどうしてこんな時間に佳純の家にいるのかと聞いているんだ」
感情が乾いてしまったかのような一樹の口調に、隼人は緊張をほぐして戸惑いを隠そうと努力した。しかし、そうすればそうするほど、不安な気持ちに背筋が冷たくなり、のどがカラカラに渇いてきた。考えもしなかった状況に直面して、頭の中にあったいろいろな考えが全て消えて空っぽになってしまったようだった。
しかし、むしろ隼人は一樹の目を避けることなく、まっすぐ凝視した。彼の心の中を把握しようとしたが、物静かな一樹の目つきからは何も読み取れなかった。
「何でもありません」
「何でもないのに、どうしてここまで来たんだ?」
「兄が妹の家に来るのは特別なことじゃないでしょう?」
短い答えに一樹の視線が隼人を通り越して佳純に向かった。一樹の視線を感じた佳純はぎくりと驚きながら、ぎこちなく顔を向けた。一樹の目が細くなった。
「お父さん、入ってください」
2人の間に流れる冷たい空気に顔色を伺っていた佳純が、慎重に一樹に向かって小さな声で言った。2人の間に自分が入らなければ、息の詰まるようなこの静寂が続きそうで不安だった。
「もう遅いから、今日は帰るとしよう」
「えっ…?」
「話は明日すればいい」
この状況をどうやって整理すればいいのか、悩む暇もなく一樹は引き返そうとした。突然の彼の行動に驚いた佳純が隼人を通り過ぎ一樹の手首を掴んだ。
「せっかくいらしたんですから、お茶でも飲んでいってください」
「結構だ」
「お話があるんでしょ?なんのお話なんです…?」
佳純の問いに一樹は慰めるように彼女の頭を撫でた。
「明日電話する」
佳純と目を合わせながら優しい声で話す一樹をじっと見ていた隼人の表情がかすかに固まった。自分には一度も見せたことのない話し方と行動が、佳純の前ではためらうことなく出た瞬間、胸の奥が詰まったようだった。幼いころ自分を苦しめた誤解の種に再び向き合ってみると、押し殺していた感情が吹き出し、隼人は思わず手を握りしめた。
「もう部屋に戻って休みなさい」
一樹が腕を掴んでいる佳純の手をポンと叩きながら、優しい声で言った。佳純はちらりと隼人の顔色を伺うと、手を離した。自分に向けられた雪原のようにがらんとした隼人の目つきは妙な気分になるほど見慣れないものだった。
「なにをしている?お前も帰るんだ」
佳純に部屋に戻るようにと手を振ると、振り向いて一樹が隼人にそっと言った。彼は鋭い目つきを隠し、一樹の後ろをついて行った。佳純は息を殺して彼らを見つめていた。嵐の前のような不安な気配が襲ってきた。
「気をつけて帰ってください」
挨拶をした佳純の声を後にしたまま、隼人と一樹はマンションの外に出て行った。短い距離だったが、まるで荒涼とした砂漠を歩いているかのように、長い呼吸で一樹の後ろをついていた隼人は、目の前に止まっている一樹の車を見つけると足を止めた。
「俺は自分の車で帰ります」
隼人は鋭く振り返る一樹の視線に向き合った。周りを包み込む殺伐とした勢いにも隼人は乱されることはなかった。その姿に一樹は眉間にしわを寄せた。
「私の車に乗るんだ」
「寄っていくところがあるので」
「乗れと言ったら乗るんだ」
いつもなら無味乾燥に「そうか」と短い返事だけで冷たく背を向ける一樹だが、いつもと違い、高圧的に車に乗せようとする彼の姿から、何か話があるということがわかった。自分をじっと凝視している一樹の視線を打ち返すように、鋭い目つきで隼人が答えた。
「まだ仕事が残っているんです」
「明日にしろ」
「父さん」
「乗れと言ってるんだ。グズグズ言うんじゃない!」
「お話があるなら、ここでどうぞ」
隼人の断固たる反応が気に入らないのか、一樹の表情が固まった。自分の息子ではあるがこのような冷淡な態度に向き合っていると、若い頃の自分の過ちと向かい合っているようで気に入らなかった。
まるで固い結界を張って越えてくるなと言うように、冷たく押し出す一樹と対面するときは、近づきたいという気持ちよりむしろ自分もその距離を維持したほうがお互いのタメだと判断した。これ以上は狭められない親子関係。しばらく様子を見ていた一樹が感情を抑えながら低く言った。
「いったい何を考えている」
「どういう意味ですか…」
「お前と佳純が話しているのを聞いた」
重く冷たい声が彼の口からゆっくりと流れ出た。隼人の指先が細かく震えた。絶対に変わらない鉄壁のような彼の表情が変わった。
「どうかしてしまったのか…!」
一樹の目元のしわがぴくぴくと動いた。
「私の常識ではとうてい理解ができなかった。説明してみろ」
「……」
「妹に対していったい何を考えているのか、話せと言っているんだ!」
自分を責め立てる高くゾッとする声に隼人は奥歯を噛みしめた。全身を圧迫する彼の殺伐とした視線に向かうと、むしろ我慢の緒がぷっつりと切れるのを感じた。まるでおかしな人物を見るように睨め付ける一樹の視線に向き合った瞬間、残酷にも自分を追い詰めた父親という存在を我慢する余裕も理由もなくなってしまった。
隼人は我慢していた息をすっと吐いた。全てはこのような状況を作った父親のせいだと叫びたい気持ちも一抹の憐憫で我慢していたが、それさえも一瞬消えてしまったようだった。
これ以上この感情を消すことも絶える自信もなかった。こうして結論を出した隼人は、数え切れないほど揺れていた動揺を飲み込むことができず、震える口から我慢していた言葉を吐き出した。
「佳純がどうして…俺の妹なんですか?」
激高した声で叫んでいた一樹は隼人の言葉に両目を見開いた。なんだと?頭を雷にでも打たれたように、一樹の頭の中は真っ白になった。今すぐにでも「馬鹿なことを言うな」と反論したかったが、固くなってしまった体は自分の意志とは関係なく感情を露わにしていた。
「いったい何を…」
「血なんて一滴も混じっていないあの子がどうして俺の妹だというんですか」
隼人の言葉に一樹の目には複雑な感情がそのまま現れていた。口元がかすかに震えていた。隼人が既に佳純の出生について知っているというのか?真っ直ぐに立っていた体が小さく揺れた。否定するには既に全ての真実を知っている様子の隼人の瞳が真っ直ぐに自分を凝視しており、自分を締め付けるように冷たく鋭く輝いていた。
もともと確実ではないことは口に出さない性格だということをよく分かっているので、やぶ蛇になるような言い訳は必要なかった。彼は息を整え、心を落ち着かせてから、ゆっくりと口を開いた。
「誰に聞いたんだ?」
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