第32話



32.





「ば…バカなこと言わないでよ」


滑稽な満の言葉に慌てた花恋がぎこちない表情で急いでタクシーに乗り込んだ。馬鹿にしすぎじゃない?


「気をつけて。それから、これからは1人で絶対に飲んじゃ駄目ですよ」


「はぁ。それって…」


満は振り返った彼女の声を無視するかのように、信号を待ちながら急いで携帯電話を確認した。


位置追跡してみるとまだ家にいるのと出るのに。しかしそのことがいっそう満を不安にさせ、焦らせた。萌を残して帰っていったのか、それとも別の何かが起こったのか、さまざまな考えに表情を曇らせた満は、信号が変わるとすぐに横断歩道を渡り、家のほうへ走った。


家の前に到着するなり満は息をつく暇もなく、玄関の鍵を開けた。ドアが開き、慌てて中に入ろうとした満は自分の肩を掴む手に止まった。


「黄川田満さん?」


荒々しく息を吐いた満は聞き慣れない声に振り返った。きちんとしたスーツに身を包んだ30代後半に見える男が自分を見つめていた。


「どちら様ですか?」


「ちょっとお時間を」


固い男の口調に満は眉をひそめた。低く強い口調。突然、満の脳裏に母親と共にずっと苦しめてきたチンピラ達が浮かんだ。


「あなた、もしかして教会の人?」


いざとなったら1発殴るかのような勢いで拳を握った満がそっと尋ねた。男は少しの動揺も見せず、満を凝視して無味乾燥に答えた。


「奥様がお待ちです」


「奥様?」


予想もしていなかった答えに驚いた満は周りを見回した。そのとき、彼の視界に高級車が入った。


後部座席のウインドウがゆっくりと下り、現れた顔を見た満は思わず乾いた唾を飲み込んだ。


柳原恵子だった。


まさかとは思ったが、本当に家まで訪ねてくるとは。得体の知れない恐怖が押し寄せてきた。


「今、急ぎの用があるので別の日にしてくれるようお伝えください」


泣きっ面に蜂の状況に戸惑ったが、満は萌のことが先だという思いで男を通り過ぎ家の中へ入った。


「今すぐ一緒に来ていただきます」


男が再び行く手を塞ぐと、満の顔が歪んだ。


「家のことで急ぎの用が…」


「妹さんをお捜しでしたら、我々が安全な場所へお連れしましたので、ご心配なく」


男の言葉に満は首を回して恵子と目を合わせた。


何を考えているのか分らない彼女の妙な目つきからは、得体の知れない冷たさが感じられた。何がどうなっているのか、頭の中がさっぱりまとまらなかった。


「妹をあなたたちが連れて行ったということですか?」


「とても驚かれたのか、ぐったりされていたので、我々が病院へお連れしました」


「病院ですか?」


病院という言葉に驚いた満の顔は真っ青になった。いったい何があったのかわからないが、今はこうやってもたもたしている時間はない。


現状を把握するのは萌が無事か確認してからでも遅くはない。どうして恵子が家まで訪ねてきたのか、どうして彼女が妹を保護しているのか、何を望んでこんなことをしているのか、終わりのない疑問は後から解決すればいいことだ。


そう考えをまとめた満は緊張から汗が滲む手を握りしめて、急いで口を開いた。


「どの病院ですか?」


満の質問に男が待っていたかのように恵子が乗っている車を指差しながら答えた。


「まずは乗ってください」


気が進まなかったが、まずは乗ろう。気を引き締めた満は唇をゆがめたまま車のほうへ足を進めた。




* * *




「なんですって?」


ぶるぶると震える恵子の手には鋭く割れたグラスのかけらが握られていた。赤黒い粘り気のある血と、それよりももっと濃い赤ワインが彼女の指の間に流れ落ちた。しかし、恵子は何の痛みも感じないのか、うめき声も出さずに、淡々とした表情で座っている一樹を睨んだ。


「今月中に連れてくるから、準備しておけ」


一樹は香りの強いウイスキーを一口飲むと冷たく言った。それに対し恵子は血が湧き上がるように、心臓が激しく鼓動し始めた。


一生、森佳子という女を胸に生きてきただけでは足らず、やっとの事で追い出した彼女の娘を連れ戻して暮らそうとするとは。図々しい男め。


裕福な家の娘として華やかな人生を送ってきた恵子に、その辺の者たちも感じたことのない恥辱的な感情をまた感じろと無理強いする。ろくでもない人間が。恵子がぞっとする笑みを浮かべながら震える口で新たに切り出した。


「私をバカにしてるの?」


氷のように冷たい恵子の声に、一樹は眉を上げた。ひどく残忍な女。かつては気品もあり優雅な姿を忘れなかったあの女性が変わるのは一瞬だった。


嫉妬に目がくらみ、人間としてしてはならないことをしたあの女は、もう自分の視界から消えて久しい。あの時のことを思い出すと自然としわのよる眉間が、当時の事を物語っていた。湧き上がる怒りをやっとの事で抑えながら一樹が落ち着いて話した。


「もうやめろ」


恵子は酒のせいで赤くなった顔で激しく叫んだ。


「やめろですって!あの子をまたこの家に連れてきたら、あなたとはもう終わりってことわからないの?」


悲しみと怒りが絡み合った感情にいつの間にか潤んだ目つきで問い返したが、目にも入らないのか、一樹は何も言わずに酒を飲み干すだけだった。


最初から間違った縁だったのかもしれない。一樹には狂おしいほど愛する女性がほかにおり、恵子も過去の留学時代に愛した男性がいた。しかし、当時はお互いに最高の相手だと思った。


どうせ政略結婚するなら、お互いの過去を伏せて干渉しない相手を選ぶのがマシだという判断からだった。しかし、時間が経つにつれ予想だにしなかったことが絡み合い、手の施しようもなく大きくなった感情の溝は、二度と戻れないほど深まった。


「このことで、離婚したいならきれいさっぱり別れてやるつもりだ」


一樹は恵子を指差した。


「お前が決めることだ。俺ではなく」


一樹の残忍なひと言に恵子はナイフで胸をほじくられたような痛みを感じながら下唇をぎゅっと噛んだ。20年以上一緒に暮らしてきたのに、外で作った娘のために離婚する?そのうえ、それを決めるのは私の役目だと?ばかばかしいにもほどがある。


恵子は呆れた表情で血がポタポタと流れる手を強く握りしめて一樹を振り返った。


「あなたが外で作った婚外子を大切にして暮らしたいなら、そうすればいい。その代わり私は隼人とこの家を出ます」


恵子は嘲笑混じりの言葉を吐き出して冷たく振り返った。今すぐにでも爆発しそうな熱い何かが恵子の両目を刺激したが、唇をギュッと結んで我慢した。


「隼人はこの家の後継ぎだ。出て行くならお前1人で出て行け。慰謝料は十分に払う」

階段を上がるなり聞こえた一樹のひと言に、はたと立ち止まった。恵子の感情など無視する彼の言葉に、ついに心が崩れ落ちてしまった。全身に力を入れて我慢していた恵子の両頬に涙が流れ落ちた。もう自分には隼人しかいないのに、それさえも取り上げるなんて。残忍な人間だ。


恵子は長い息を吐くと手で涙を拭った。ふっと熱い怒りがこみ上げてくるのを感じた。彼女は我慢できず、鋭い視線を一樹に向けた。


「夫だけでなく、あの女の娘が息子まで奪うところを見ろというの?」


バンッ!ガチャン!


恵子が吐いたひと言に一樹は手に持っていたグラスを壁に投げつけた。その姿に恵子は言葉が詰まったように、凍り付いた表情で口をぎゅっと結んだ。冷めたくなった顔と目つき。今すぐにでも彼女を殺してしまいそうな様子で睨んでいた。


「酔っぱらって言ったあの言葉を、もう一度でもその口から吐いたら、ただではおかないと言ったはずだ」


一樹は椅子から立ち上がると、恵子に近づいた。


「もう一度でもそんな言葉で、俺の神経を逆なでしたら、その時はただではおかないから、肝に銘じるんだな」


「……」


「それから、佳純をこの家に連れてくるのに不満があるなら、さっきも言ったように、いつでも離婚届に判を押してやるから書類を送れ」




* * *




満は目を閉じて指先で額をつつきながら考え込んでいる恵子をじっと見つめた。初めて会ったときも思ったが、20代の子どもがいるとは信じられないほど、白い肌で童顔の持ち主だ。50代前半だったが、手入れをしっかりとしている奥様だからか、外見だけ見ると30代後半だと言っても通るほど若く見え、気品のある印象が漂った。


「ぼうっと見ていないで、言いたいことがあるなら言いなさい」


満の視線を感じたのか、恵子がゆっくりと目を開くとそっと話した。満は驚いて首を横に振った。


「何でもありません」


「そう?何も知りたいことはないの?」


恵子がチラリと見ながら繰り返すと、満は視線を避け首を少し下げた。


「妹を病院へ連れて行っていただき、ありがとうございました」


病院へ連れて行ってくれた?気に障る満の話し方に恵子が両目を鋭く上げた。


プライドはあるということ?こんなみすぼらしい家に住み、足の不自由な妹と、宗教にはまってしまった母親までいるくせに、プライドとは。じつに見苦しいものだった。


だから嫌いなのだ。貧しさという屋根の下に生きる者たち。公平な社会の元でやっと得た自由という虚勢の中で生きているくせに、上下の区別もできずにいる姿を見ていると、腹が立ってくる。いつの間にか目つきが冷たく変わった恵子は、横に置かれたタバコを1本咥えると火をつけて言った。


「そんなことを聞くためにあなたの妹を助けたと思っているの?」


彼女の口から白い煙が吹き出した。


「どうして私の電話に出なかったの?」


恵子が冷たく尋ねると満は感情のこもらない顔で彼女を振り向き答えた。


「電話があったのを…」


「気づかなかった。そんなありきたりな言い訳をするつもりじゃないわよね?」


強いタバコの煙が鼻の中を刺激したのか、彼女の雰囲気に圧倒されたのか、息が詰まるような気持ちに満の表情が急激に固まった。


「いいわ。そんなことは重要じゃない」


恵子はタバコの灰を落としながら話を続けた。


「どうしてあなたを訪ねてここまで来たと思う?」


彼女の口元は曲線を描いて上がった。


「あなたに提案があるのよ」


「提案…ですか?」


「そう。あなたが絶対に断れない提案で、二度とやってこない人生最大のチャンスよ」


ニヤリと笑いながら話す恵子をじっと見つめる満の視線が揺れた。提案?チャンス?いったい何のことか分らず彼女の言葉に満の真っ直ぐな額に深くしわができた。


「なんのお話をされているのか、わかりません」


不安な目つきで満が言うと、恵子は無関心な表情でタバコを消すと、言った。


「私があなたのスポンサーになってあげる」


「スポンサーって…?」


「あなたが望むなら、この国最高のスターにすることもできるのよ。それに経済的な面でもいくらでも支援してあげる」


満は思いも寄らなかった提案に言葉がつまり、呆然とした表情で恵子を見つめた。スポンサーだって?恵子とはたった1度しか会っていないのに、こんな提案をしてくることが理解できなかった。


「突然どうして俺にそんな提案を?」


ふと湧いた疑問に満が緊張した目つきで彼女を見つめた。


「どうして、あなたかって…?」


言葉を少し止めた恵子が眉をひそめながら言った。


「父親はガンで早くに亡くなって、母親は宗教にはまり自分の子さえ売り飛ばそうとした。そのうえ、足が不自由な妹はあなたがいなければ1人では何もできない」


満の表情があっという間に固まった。


「それをどうして…」


「どうして知っているかは重要じゃないわ。重要なのは今の私には、あなたのような子が必要だということ。これ以上失う物がなく、欲しいものは数えきれないほどある、あなたがね」


恵子の言葉に、満は混乱した目つきで恵子を凝視した。


「どういう意味かわかりません」


「深く考える必要なんてない。軽く考えてみて。あなたが望む全てのことを私がサポートしてあげるから、私の言うことを聞いてくれればいい」


「それは何ですか?」


ふっと湧いた考えに満が顔色をうかがいながら尋ねると、恵子が思いついたことに首をかしげた。



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