第33話



33.





佳子まで亡くなり、夫は今すぐにも佳純、あの子を家に連れてこようとするだろう。だからといって、いまさら夫と離婚するつもりなどない。隼人のためにもしばらくは紅海グループでの自分の地位を固める必要があった。何を考えているのか分らないあの人をけん制するためにもだ。


そういうことなら、目の敵のようなあの子を危険な橋を渡って今すぐ目の前で片づけるよりは、いつでも追い出せるように自分の手の中に置いておく方がよかった。満を利用してだ。恵子の目が細くなった。


「そう。あなたのような子が、あの子の相手にはピッタリ」


「えっ?」


何のことなのかと聞き返すと、恵子はニッコリ笑って答えた。


「あなたが提案を受け入れるなら、話してあげる」


パッと明るくなった恵子の表情に、不吉な予感が満の全身を包んだ。こうやって話すところを見ると、普通の事ではないようだ。その思いに満は歯を食いしばった。決めなければならないが、どうすればいいか全くわからなかった。


「よく考えなさい」


しばらくためらっていた満の姿に、恵子が落ち着いた声でけしかけた。


「どうせ、こんなチャンスでもなければ、あなたは何も無い人生を送るだけよ」


「……」


「あなたみたいな子をたくさん見てきたからよくわかるの。宝くじみたいな運でもなければ、お金もないあなたが芸能界に足を踏み入れることがどういう意味かわかる?一生私みたいな年上の女性のおもちゃになるか、お金を持った人に、たかって暮らすかよ。だから忠告してあげている間に、何にもならないプライドなんて捨てて、一生に一度あるかないかのチャンスを掴むほうがいいわ。かわいそうな妹のためにもね」


残忍だ。平然と鋭い短剣を心臓に突き刺した。息が止まりそうな恐怖で満は思わず奥歯をぎゅっと噛んだ。


実は今すぐ断ろうとしていた。「かわいそうな妹のために」という最後のひと言さえ聞いていなければ、悩むこともなく絶対にこんな汚い世界に足を踏み入れるようなことはしないだろう。


しかし、心臓に突き刺さった短剣が満の心の中に入り込み、結局ほかの考えを持つことになった。ゾッとするほど残忍だった歳月。いくら抜け出そうともがいても、足踏みしかできなかった人生が、この先果てしなく続くような予感に恐怖が押し寄せてきた。


「嫌なら、今すぐ車を降りてもいい」


恵子がきっぱりと言うと、満は焦りを隠せなかった。彼の頭を玄暉と佳純の姿がかすめ、明るく笑う萌の姿が浮かんだ。


萌だけは守らなければならない。その誓いと共にためらうことなく満は口を開いた。

「わかりました」


振り返ってみると、異常な選択だということを知りながらも意志とは関係なく乾いた唇の間から肯定の返事が流れ出した。そしてそれと共に、思いきり押し寄せる後悔と良心の呵責は、またいつものように世の中のせいにしてしまった。


「ご提案をお受けします」


喉にこみ上げる熱い何かを飲み込み、満はついに最後の言葉を吐き出してしまった。




* * *




携帯電話が振動する音にゆっくりと目を開けた佳純は、重たい体をやっとの事で起こして座った。泣き疲れて眠ってしまったことを証明するように、彼女の両目は真っ赤に充血しており、まだ夢と現実の境にいるのかぼんやりしているようだった。


こうしてしばらく微動だにせず、鏡に映った自分の姿をじっと眺めていた佳純は、鳴り響く携帯電話を手に取ると液晶画面を確認した。


[お父さん]


佳純は顔をくすぐる髪の毛を耳の後ろにかけると、電話に出た。


「もしもし」


―少しは眠ったか?


優しく尋ねる声に佳純は小さくうなずくと答えた。


「はい。もう大丈夫です。心配しないでください」


葬儀場では一時もそばを離れず見守っていた一樹の姿が目の前に浮かび、訳もなく胸が熱くなった。そんな父親にこれ以上自分のことで辛い思いはして欲しくないという思いから、佳純は務めて明るい声を出した。


―久しぶりに、明日の昼は一緒に食事をしよう


「いいえ。数日会社をお休みされたから、忙しいでしょう…。私のことは気にしないで、お仕事してください」


―そんなことを言うな。車を向かわせるから1時までに準備しておきなさい。話もあるから


佳純は一瞬止まった。葬儀場で既に持ち出された話だった。家に戻ってこいと言う話。あの時は余裕がなくて何も言えなかったが、今からでも言わなければならないという考えに佳純はゆっくりと口を開いた。


「家に戻ってこいというお話でしたら、私は戻りません」


佳純の答えに一樹が先ほどとは違う、断固たる声で言った。


―義母のことなら、心配いらん。あいつも同意の上だ


義母という言葉に佳純の表情があっという間に変わった。嘘のように彼女の頭の中には、母親を看病してくれていた穂乃恵の言葉が通り過ぎた。


「佳子が死ぬ前に、女性が尋ねてきたの。高級車に乗ってきたんだけど、見るからにお金持ちそうで、やっぱりあなたの義母じゃないかと思うのよ」


頭の中に刺さった穂乃恵の言葉が浮かび上がり、佳純は全身に鳥肌が立つのを感じた。穂乃恵の言っていた言葉の中に自殺の原因が恵子かもしれないという意味が込められており、再び恐ろしい感情が沸き起こった。佳純の顔が真っ赤になり両目に涙が溢れた。


話せなくなってから、知人と連絡を絶って暮らしていた佳子の病院へ高級車に乗ってやってきた人物とは、いくら考えても恵子、佳純の義母しか考えられなかった。残忍にもこの確信は簡単に頭の中から消すことができなかった。


―佳純、話を聞いているのか?


激しく打つ心臓を落ち着かせようと、目を一度ギュッと閉じてから佳純はゆっくりと口を開いた。


「はい。聞いています」


―そうか。お前が俺のことを考えているなら、言うとおりに家に戻ってきてくれないか。お母さんもいなくなってしまったのに、お前が1人でいると考えると、気持ちが落ち着かないんだ


受話器を通して切実な声が聞こえてきた。


―結婚するまででいいから、一緒に暮らそう


心の片隅にしみる一樹の言葉にも佳純は答えることなく口をギュッとつぐんだ。


―手遅れになる前に、前のように朝食も一緒に食べて、夜帰ってきたら話もしたいんだ


「お父さん」


―もう俺が望むのはそれだけだ。だから俺のためにも、気持ちをくみ取ってくれたら…


落ち着いた一樹の声に佳純は目の前の鏡に映る自分の姿をじっと眺めた。これまで母親との幸せを夢見ながら、地獄のような毎日を絶えてきた自身の姿だった。


鳥肌が立つほど恐ろしい恵子のそばで、ひと言もまともに話せずに持ちこたえたのも、ほかの人の目につかないように静かに暮らしたのも、すべて愛人という汚名の元で生きるしかなかった母親に少しでも害が及ばないようにするためだった。


しかし、今回のことを通して、壮絶で残忍な結末を迎えてみると、わかった気がした。弱いからといって強い人の前にひれ伏して生きたところで、返ってくるのは別の絶望と後悔だけだということを。


今からでも、そんなふうに生きたくはなかった。誓いと同時に彼女の周りの雰囲気が重くなった。


「わかりました」


佳純は答えるのと同時に鏡から視線をそらすと目を伏せた。


「家に戻ります」


決心でもしたように手を握ったのとは裏腹に、佳純の目は不安そうに揺れた。


―そうか。よかった


佳純の答えを聞いて嬉しいのか、一樹の声が一段高くなった。


―決心したなら、今週中には戻ってこれるように準備させておく


「はい…」


―よし。疲れただろうから、ゆっくり休むんだ。明日の昼食の約束は、お前が家に戻ってきたときに食べることとしよう


「はい。お父さん」


無味乾燥な最後の答えを最後に、通話を終えた佳純は深くため息をついた。いざ決心すると不吉な予感に体が細かく震えた。緊張した状態で体を丸めたままぼんやりと座っていた佳純は、外から聞こえるガタガタという音に、ゆっくりとベッドを下りた。


当然家に戻っているだろうと考えていた隼人が、もしかしてまだいるのかという思いに佳純はドアの前に近づき、ドアノブを握って回した。リビングに行くと鮮明に耳に届く音に向かって歩いていた佳純は、思いも寄らないキッチンの様子に足を止めた。


何を作っていたのか、テーブルの上に置かれたまな板に、いろいろな野菜がバラバラの大きさに乱切りされており、まっ黒に焦げた鍋と食器が乱雑に散らばっていた。


「何をしてるの?」


腕まくりまでして、鍋の中に入った何かを熱心にかき混ぜていた隼人が佳純の声に止まった。彼は素早くコンロの火を止めて、鍋をシンクへ投げるように下ろした。それから何も無かったかのように、いつもと変わらない感情のこもらない顔で言った。


「何でもない」


努めて落ち着いて話した隼人の姿がどこかぎこちなく見え、佳純が首をかしげた。キッチンとリビングに焦げたにおいがするのをみると、何か料理を作っていて焦がしてしまったみたいだったが、一度も隼人が料理をしているところを見たことのない佳純は、彼の行動になじみがなかった。


ぽつんとシンクの前に立っている隼人に向き合った佳純が、鍋の中に何が入っているのか確認しようと隼人に近づいた。隼人が躊躇しながら行く手を遮ったが、佳純は頭をサッと突き出してシンクの中を確認した。佳純はカレーなのか、おかゆなのかわからない奇妙な料理を発見して目を細めた。


「家政婦をよこすから、おかゆでも作ってもらえ」


隼人が真剣な表情で鍋のふたを閉めて話を続けた。


「それからこれは…。人が食べられる物じゃないから、捨てるように言ってくれ」


隼人は恥ずかしいのか、佳純の視線を避けて慌ててキッチンを出て行った。薬を飲むためには何か食べなければならないと、やったことのない料理をレシピまで探してやってみた。そして隼人は事業をするよりも難しいことが料理であると知り、初めて失敗という経験をすることになった。


むしろ最初から家政婦を呼べばよかった、という後悔が後から押し寄せてきた。恥ずかしいこの状況を避けようとするように、ソファーにかけてあったジャケットを手にした隼人は、聞こえてくる佳純の声に振り返った。


「自分のことは自分でやるから、気をつかわないで」


佳純は何気なく言うと、硬い表情で洗い物をするためにゴム手袋を手にした。くだらない言葉をかけられたとでもいうように、しばらく黙って佳純を見つめていた隼人は、冷たい佳純の顔を確認すると眉間にしわを寄せた。


佳子の葬儀以降、自分に対する態度が急変したのは、やはり何か別の理由があるように思えた。最初は佳子のことで敏感になっているだけだと思っていたが、今日の姿を見て、そう簡単に見過ごすことができないことだと本能的に感じた。


隼人は手に取ったジャケットを再びソファーにかけると、佳純に近づき手にしたゴム手袋を無理やり脱がせた。


「お前、どうしたんだ?」


隼人がもどかしがって聞いたが、佳純は感情のこもらない顔で黙って彼の目を凝視した。いつもとは違う態度が不吉だと感じた隼人が彼女の顔をまじまじと見つめた。何日もちゃんとした食事を取っておらず、睡眠も取れていないのか、顔は青白くさらに痩せたようだった。


その姿が残念で、もうやめようという考えに隼人は短くため息をつくと言った。


「俺の話を聞け。家政婦を送るから、食事を取って薬も飲むんだ」


彼がテーブルの上に置かれた薬の袋を彼女に指差した。


「薬も飲まずにいたら、俺が直接飲ませるからな」


隼人はまたかけておいたジャケットをサッと取ると、玄関に向かっていった。一人残して行くのは不安だったが、会社の重要な会議をこれ以上先送りにすることはできず、結局彼は重い足を運ぶしかなかった。


「…お兄ちゃん、わたしのこと好き?」


ドアを開けて出て行こうとした瞬間に聞こえてきた言葉に、隼人はその場に立ち尽くした。


「妹として」


複雑な心境が明るみになり、前を見ていた隼人が佳純の最後の言葉を聞くやいなや、ゆっくりと振り向いた。濃い茶色の佳純の大きな瞳が、しっかりと自分に向いていた。妹として好きか?明らかにお互いの関係に線を引く問いかけだった。


「いや」


隼人の両目が射貫くように佳純を直視した。


「好きだ。普通に」

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