第34話
34.
隼人が「普通に」という単語に特に力を込めて答えると、佳純の目が少し揺れた。妙なニュアンスが漂う彼の答えがどういう意味なのかわかっていたが、佳純は努めて知らないふりをして平気な顔を維持した。
「私、家に戻ることにしたの」
佳純の視界に一瞬眉をしかめる隼人の姿が見えたが、気にせず話を続けた。
「だから、これからは…」
「勝手に家に戻ってくるだって?」
佳純は返事もなく冷めてしまった隼人をじっと見た。予想していた反応だった。最初は自分があの家から出るのを誰よりも賛成していた人だったから。しかし、もう決めてしまったことを覆す考えはなかった。
「お父さんが決めたことよ。私も言うことを聞くつもり」
「それは…」
ブー…。ブー…。
きっぱりと話す佳純を見ていた隼人が何か言おうとしたその時、ポケットから携帯電話の振動音が聞こえ、隼人は言おうとしていた言葉を飲み込み、電話に出た。
「はい。木村さん」
会社からの電話なのか、隼人は端に移動して話していた。
「では先生の電話番号を送ってください。会社に行く途中で直接電話してみます。はい…。わかりました。では、後ほど」
短い通話を終えた隼人は、さまざまな事が一度に絡み合っている状況に頭が痛むのか、こめかみをぎゅっと押さえながら話した。
「俺は今すぐ会社に戻らないといけないから、夜にまた話そう」
「そんな必要は…」
「同じ事を言わせないでくれ。わかったな?」
冷たく言葉を切ると、振り向いて外に出る隼人の後ろ姿を見つめていた佳純の口から、長いため息が漏れた。
これから起こることに、既に果てしなく息が詰まり、佳純は冷蔵庫から水を取り出すとコップ1杯飲み干した。その後、静寂が流れた。しばらくぼんやりと立ち、微動だにしなかった佳純がゆっくりとソファーに向かうと、どかっと座った。
以前は慣れていた静かな雰囲気が、今日に限ってどうしてこんなに怖く感じるのか。テレビを付けた佳純はボリュームを最大限上げた。しかし、それでもひんやりとした空気は消えず、彼女は体を丸めたまま焦点の合わない目でじっとテレビを凝視した。その時、佳純が手に持っていた携帯電話が鳴った。
[玄暉くん]
いつか電話をしないといけないと思っていた佳純は、喜んで電話に出た。
「もしもし。玄暉くん」
―あ。電話出るの早いね?
「ちょうど手に持ってたの。電話しようと思ってたんだ…」
―そうなんだ?何かあった?
玄暉が心配そうに尋ねると、佳純は首を横に振りながら答えた。
「ううん。この前、満くんと一緒にお母さんのところに連れていってくれて、いろいろしてくれたでしょ。お礼を言いたくて」
玄暉と満の助けがなかったら、1人で乗り切ることができなかっただろうと、考えただけでも絶望的だった。
―お礼なんて。これからも、もし何かあったらいつでも言って。わかった?
「うん。そうする」
―あ。今どこ?家?
玄暉の質問に、どうしたんだろうと佳純はすぐに答えた。
「家だよ」
―じゃあ下まで来てくれる?僕、今マンションの前にいるんだ
家の前にいるという玄暉の言葉に驚き、佳純はバルコニーから下を覗いた。しっかりとは見えなかったが、玄暉のように見える男性が手に何かを持ってウロウロしている姿が見えた。
―佳純ちゃん?
「どうして…来たの?」
玄暉が家を訪ねてくるとは思ってもいなかった佳純は戸惑った声で聞いた。入口の前をうろついていた玄暉がバルコニーのほうへ体を向けて答えた。
―一緒にご飯食べようと思って
「ご飯?」
聞き返す佳純の目に遠くで頭の上に袋を持ち上げて振る玄暉の姿が見えた。
―下りてきてよ。おいしい物食べよう
* * *
「さあ食べて」
家から出てくるなり玄暉の手に引かれて、マンションの前の公園に向かった佳純は、テーブルの上に置かれた弁当を見て言葉を失った。弁当箱に綺麗に詰められた料理は、手作りとは思えないほど華やかでかわいらしく、食べるのがもったいないくらいだった。
「あなたがこれを作ったの?」
信じられないというような佳純の反応に、玄暉はニッコリ笑った。
「うん。母が料理人なんだ。新しい料理を考えるたびに一緒に隣で手伝ってたら、いくつか作れるようになって」
玄暉は生春巻きを1つ箸でつまむと、佳純に渡した。
「食べてみて。口に合うといいけど」
佳純はどうしていいかわからず、早く食べろとせっついてくる玄暉に勝てず、生春巻きを食べた。
「どう?おいしい?」
佳純はシャキシャキして淡泊な味に感心した。
「うん。本当においしい」
「よかった!たくさん食べてよ。いっぱい作ってきたから」
もしも口に合わなければどうしようと緊張していた玄暉は、佳純の反応に満足そうな笑みを浮かべた。
葬儀の間、ろくに食事も取れなかった佳純が目の前にちらつき、夜明けから準備した弁当だった。内心、負担に思われるんじゃないかと心配していたが、幸いにも佳純は拒否感なくおいしそうに食べてくれた。玄暉の顔が楽そうになった。
「玄暉くんなら、料理の道に進んでもいけると思う」
佳純が真心のこもった目で話すと、玄暉は照れくさそうに答えた。
「そうじゃなくても作家をやめたら、小さなレストランをしようと思ってたんだ」
「作家…?」
佳純が首をかしげて尋ねると、慌てた玄暉の両目が途方に暮れて揺れた。あまりに幸せで正気を失ったな…。どうやって言い逃れようかしばらく迷っていた玄暉は、天の助けか、ちょうどいいタイミングで振動する携帯電話の音に、その場を立った。
「食べてて。電話に出てくる」
「うん。わかった」
端に移動した玄暉は、やっと一息つき電話の液晶画面を確認した。初めて見る番号だった。玄暉は迷惑電話じゃないかと迷ったが、ふと視線をそらす佳純を見て素早く電話に出た。
「もしもし?」
―レニー先生ですか?
低くどっしりとした男性の声。何故だか聞き覚えのある声に、玄暉はいぶかしい表情で答えた。
「どなたですか?」
―始めまして。A&T企画の代表、柳原隼人と申します
柳原隼人?思いも寄らない彼からの電話に、玄暉の表情は一瞬紙のようにしわくちゃになった。
* * *
いつかは会うだろうと思っていた。しかし、こんなふうに向こうから先に電話が来るとは思ってもいなかった玄暉は、いつの間にか笑みが消えた顔でゆっくりと口を開いた。
「どういったご用件でしょうか?」
ぶっきらぼうな答えに、少し静寂が流れたが、すぐ隼人の声が聞こえた。
―突然、このように連絡をして申し訳ございません。今回の契約についてお話をしたいのですが、編集長からお話は聞いていらっしゃいませんか?
隼人の口から出てくる敬語が玄暉の耳を妙に刺激した。一瞬、ともすればタメ口で無視するのが常だった隼人の姿が、玄暉の脳裏をかすめた。
あの時まではこのように縁が続くとは思っていなかったのに…。妙に絡まった状況に実際に迫ってみると、感慨深かった。傍若無人に自分に接していた隼人に敬語で話されるとは、幼稚だが妙な快感まで覚えた。
「編集長から話は聞いています。近いうちにお伺いします」
―近いうちではなく、具体的な日付をおっしゃっていただきたいのですが
玄暉の話し方が気に入らないのか、隼人の声が先ほどとは違い、冷たくなった。
「個人的な事情で、今すぐお伺いするのは難しいです」
―先生、今回の契約が白紙になるのを望んでいらっしゃるのではないですよね?
低い隼人の声に元気の顔が急に固まった。
「それはどういう意味ですか?」
玄暉の質問に少し黙っていた隼人が落ち着いて話し出した。
―ご存じの通り、外部では先生と我が社が契約を結び、無事に制作が進んでいると思われています。そこで、城野監督の指揮の下キャスティングも円滑に進行中で、広報記事まで出た状態です。このような状況で我々と先生の契約が成立しなかったという記事でも出れば、どのようなことになるか、よくご存じだと思いますが。
「僕は契約書にサインしないと言った覚えは…」
―ありませんよね。しかし、先生の個人的な事情のせいで、映画の制作を先延ばしにするなら…。我々も20億という金額を先生の作品に投資するのを考え直さなければなりません
隼人の言葉に玄暉は唇を噛んだ。一瞬の乱れもなく、はきりと話す隼人の口調が気にあり、湧いてくる怒りを抑えるために顔が赤くなった。
「今すぐにでもこの作品をひっくり返そうとしているように聞こえますが」
―ひっくり返そうというのではなく、1日でも早くいい作品を見たいという気持ちから申しているだけです
「……」
―私は少なくとも先生の作品を見て、投資を決めた人間です。誤解なさらないでください
落ち着いて並べられた隼人の言葉に玄暉は少し考え込むように口を閉じた。仕事に対しては誰よりも客観的であり少しの隙も許さないのだ。
ところが、誰かを好きになり、多くのことを経験して変わっていた。愛などというものは小説の中だけに存在する虚しいだけの感情だと思っていた自分が、佳純に出会ってから変わったのだ。
誰かに嫉妬し、幼稚になり、どんなことにも感情的に解決しようとしていた。作品にかんすることですらだ。それに気づいた瞬間、玄暉は胸がひんやりとした。少なくとも柳原隼人、彼にプロフェッショナルではない作家として会いたくなかった。
「分りました。それでは明日、会社に伺います」
すべてのことを納得して、曲げたようで気に入らなかったが、とりあえず会ってみようと考えた玄暉は、これ以上遅れることなく答えた。
「時間と場所は、メールでお知らせください」
―わかりました
「それでは明日」
きっぱり言い切ると玄暉は電話を切った。隼人とこうして突然会うことになると思っていなかった彼は、明日起こるであろう事に対する心配に頭の中が複雑だった。
長くため息をついた玄暉は、ふと1人でいる佳純が思い浮かび、急いで頭を向けた。玄暉の目にぼんやりとした表情で前を凝視している佳純が飛び込んできた。
玄暉は妙な雰囲気を醸し出す彼女から目をそらすことができなかった。しばらく何かに取り憑かれたように見ていた玄暉は、自分に向かって顔を向ける佳純の視線を避けて体を動かした。
完全にはまってしまった。一瞬だが、激しく鼓動する心臓の音と共に、複雑だった事まで遠くに吹き飛ばしてしまった玄暉は、慣れない感情を落ち着けるため、深呼吸をした。
「電話は終わった?」
後ろから聞こえる佳純の声に元気は驚いた目をして振り向いた。そこにはいつの間に来たのか佳純が首を少し傾けて立っていた。
「えっ?ごめん。電話長かったよね?」
「ううん。私は平気。もしかして忙しいんじゃない?」
「違うよ。忙しくなんてない!全然暇だよ!」
手を振って否定する元気の姿に、佳純の口からクスリと笑いが吹き出した。久しぶりに見る笑顔。そっと佳純を見ていた玄暉が近づいて、風になびく髪の毛を一束耳の後ろにかけ微笑んだ。
「笑ったほうが綺麗だ」
玄暉に向かって釘付けになっていた佳純の視線が下を向いた。慣れようとしても慣れない彼のストレートな言動に、どういう反応をすればいいのかわからず、そわそわした。その時、自然に肩を包み込む手に佳純はビクッとし、彼を振り返った。
「さぁ、食事の続きを。僕もお腹すいた」
佳純はぼんやりとうなずいた。突然熱でも出てきて心臓がヒリヒリする感覚。佳純は急いで視線をそらすと正面を凝視した。
カゼがまだ残っているのかな?と思わず手を額に当てた佳純は突然響く振動に驚いて、ポケットから携帯電話を取りだして確認した。
[片づけないといけない仕事が多くて戻れない。家政婦を送るから食事をして薬をのむんだぞ]
隼人からのメッセージ。複雑な心境が混じったため息が佳純の口から漏れ出た。
「とても仲がいいんだね」
偶然に視線を向けた携帯に映し出された「お兄ちゃん」という文字を見た玄暉が意味深に言った。佳純はビクビクしながら携帯電話をポケットに戻した。
「仲良くないよ」
短くきっぱりとした答え。その後、佳純は黙って歩いていった。どこか不自然な姿。玄暉は見慣れない感じで佳純をじっと眺めた。隼人と関わる時は、別人のように急変する佳純の態度が特に気になった。
仲良くない…か。
玄暉は妙なニュンアスが漂う佳純の答えを心の中で何度も反芻した。
* * *
「あっ。レニー…先生?」
玲香は目の前の玄暉緒見て驚いたように言葉尻を長く伸ばした。ネット上の噂では、レニーは30~40代の男性で、性格は気難しく、見栄えのしない外見をしているという意見が広まっていた。
花恋との熱愛報道が出た後、そんな噂も少しずつ消えて、ものすごいイケメンだという噂が多数になっていたが、実は玲香は以前の噂のほうが説得力があると思っていた。
それで今日、レニーに会うことにあまり期待していなかったが、実際玄暉を目の前にした玲香は思っていたのとは違う姿に驚くばかりだった。
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