第35話
35.
美少年のような幼い顔と、贅肉のない体に似合うスッキリとした身なりをしていた彼は、いくら見ても現在大人気のベストセラー作家というよりはアイドルに近かった。
「柳原代表はいらっしゃらないんですか?」
玲香が遠くに立っていると、玄暉がいぶかしげな顔で尋ねた。やっと気づいた彼女がぎこちない笑顔を浮かべ答えた。
「い…いいえ。こちらへどうぞ」
こっそりと玄暉の顔をもう一度確認した玲香は、努めてときめく心を隠して彼を隼人の部屋へ案内した。そうしてドアの前につくやいなや、慎重にノックした。
「どうぞ」
隼人の声がドアを越えて聞こえると玄暉の顔に緊張感が漂った。レニーとして初めて誰かに会う場であり、その相手が隼人なのだ。この事実だけでも胸が激しく跳ね上がった玄暉は震える胸を落ち着かせるために呼吸を整えた。
玲香が先に部屋に入っていった。その後、彼女に続いて一歩踏み出した玄暉は、書類を見ている隼人を見つけ、立ち止まった。
「レニー先生がいらっしゃいました」
玲香が玄暉を紹介すると、顔を上げた隼人の眉が微妙に歪んだ。
「またお会いしましたね」
玄暉が余裕のある表情で挨拶をした。内心驚くと思っていたが、隼人の表情には大きな変化は見られなかった。そのことが異常に気になり、いつの間にか玄暉の顔から笑みが消えていた。
「専務?」
玲香が何も答えない隼人の姿に戸惑い、彼を呼んだ。すると黙って玄暉を凝視していた隼人が書類を置くと、椅子から立ち上がった。
「もう下がってください」
「はい。専務」
2人の間に流れる妙な空気を察した玲香がぐずぐずと部屋の外に出た。机の前に出てきた隼人がソファーの方へ目を向けた。
「座れ」
驚いた様子を一つも見せない隼人の姿をいぶかしがった玄暉がソファーに座ると口を開いた。
「驚かないんですね?」
「十分驚いた」
隼人は気が進まない様子で答えると、玄暉は彼をしばらく眺めて肩をすくめた。
「全く驚いていないように見えたので。まるで僕がレニーだと知っていたみたいに」
皮肉るような話し方に隼人の眉が上がった。表には出さなかったが、かなり驚いていた。
レニーがこいつだったとは、信じたくない現実に混乱して頭がズキズキと痛んだ。レニーのファンである佳純のために、周りの反対を押し切って進めたプロジェクトだった。それなのに、このようにこじれてしまうとは虚脱感さえ押し寄せてきた。
どうしてよりによって、こいつがレニーなんだ?運命のいたずらでなければ、目の敵のようなこいつがレニーであるわけがない。いろいろな考えに胸がつまり、腹が立ったが、隼人は努めて平常心を取り戻しすべての感情をできるだけ抑えつけた。
「新しい制作会社と契約しないことで有名なレニーが我々と契約した理由は制作費とギャラのせいだと思っていたが、こんな裏があったのか?」
隼人がソファーの肘掛けにおいた手に顎を乗せて尋ねると、玄暉は少しためらってから答えた。
「何かを求めて始めたことなので、否定はしません。ちなみに、制作費とギャラで決めたというのは、そのとおりです。もちろんそれは出版者側の意志ではありましたが」
「何を望んでいるんだ?」
「ええ。まず、公的な望みは一つだけです。途中で拗れることなく、映画が完成して世の中に公開されること。素朴な願いです」
ムカつくやつ。図々しいやつ。2人の視線が交差して雰囲気が高潮した。
「契約書は、出版社側と調整して作成した物だから、間違った部分がないか確認して署名してくれればいい」
隼人が無関心な表情で片方に置いた書類を玄暉の前に投げながら言った。気分を害したが、玄暉はそんな素振りを見せずに契約書を手に取った。
編集長が口がすり減るほど隣で読んでくれた契約書だった。すでにコピーで確認したのでもう一度見る必要はなかったが、玄暉は一枚一枚丹念にめくった。そして最後のページをめくる頃、玄樹はちらりと隼人を振り返りながら口を開いた。
「その前に聞きたいことがあります」
隼人が不満そうな顔で言ってみろというように沈黙した。
「これは私的に申し上げる言葉です。A&T代表と作家の関係ではなく、佳純ちゃんのお兄さんと友達、いや…佳純ちゃんのことが好きな男としてです」
躊躇ない玄暉の言葉に気まずくなった隼人の表情が暗く急変した。
「何を言っているんだ、お前」
隼人は目を細めて冷たく言葉を吐き出した。さっきとは明らかに違う姿。敵意に満ちた隼人の目つきに頭の中を支配していた疑いが確信に変わり、平常心が崩れた。
すでに心の中で結論を下していたが、もう一度確認したいと思い、玄暉は手に持った契約書をゆっくり下ろして慎重に話し出した。
「普段は冷徹な方が特に佳純ちゃんのことにだけ敏感に反応する理由」
「……」
「ただ腹違いの妹として、彼女を大事に思っているからですよね?」
玄暉の問いに隼人の眉が歪んだ。意図が明らかな彼の質問に、隠そうとした感情を暴かれたようで不快感を覚えた。
「バカなことを言うのはやめて、サインでもしろ」
「柳原代表」
「何を考えてそんなことを聞いてくるのか分からないが、お前なんかが気にする問題じゃない。佳純に対する余計な関心はその辺でやめた方がいいぞ」
隼人の冷ややかな気勢に玄暉が眉間にしわを寄せた。不吉な予感が当たったようだ。今まで見せていた隼人の態度から見れば、佳純を妹以上に考えていることは明らかだった。
玄暉は努めて落ち着いて心を落ち着かせようと努力した。すでにある程度予想していたことだ。落ち着いて考えをまとめた玄暉は、黙って目の前に置かれたペンを手にした。そして迷うことなく契約書にサインした後、隼人に渡しながら小さく微笑んだ。
「公的にうまくやりたいというのは本気です。遅くなりましたが、私の作品を気に入ってくださってありがとうございます」
玄暉が席から立ち上がった。
「それでは私はシノプシスの作業があるので、失礼します」
「……」
「それから、佳純ちゃんのことは僕のプライベートなことなので、好きにさせてもらいます」
意味深な玄暉の言葉に隼人が椅子にもたれながら感情のこもらない目つきで答えた。
「そうか…。頑張ってみろ」
短い一言に玄暉の胸はとげが刺さったようにひりひりと痛んだ。
どうせお前なんてダメだ。
あごを突き出して話す隼人が自分にそう言っているように聞こえた。
「今のその言葉、きっと後悔しますよ」
互いに向き合った彼らの目にはいつにも増して青白い冷気が漂っていた。
* * *
原室長と一緒に簡単に荷物をまとめて降りてきた佳純は、車の前で自分を待っている一樹を見つけると、彼に近づいた。
「よく決心した。どうせ決めたのなら一刻も早く家に戻ってくるのがいい」
「ごめんなさい。突然戻ると言って…」
佳純が言葉を濁すと、黙って見守っていた一樹が彼女に近づき、抱きしめた。暖かい温もりが彼女の体を包んだ。
「いや、むしろ私のほうがありがたい。家に戻って暮らすのは、お前にって大変だと思うが、私の思いに従ってくれて」
「お父さん…」
「心配するな。これからは俺が母親の代わりに面倒を見てやるから」
一樹の言葉に佳純は涙があふれそうになったが、努めてぐっとこらえた。これからはむやみに涙を流さないと決心した佳純の目に断固とした光が漂っていた。
「さあ行こう」
一樹が佳純の手に持ったカバンを原に渡すと前を歩いた。佳純はふと後ろを向いてマンションを見上げた。
母と一緒に暮らすことになれば、その時この家を離れると思ったが、結局思いもよらなかった実家に帰ることになった。想像するだけでも息が詰まりぞっとしたが、今では淡々とすべての状況を受け入れることができるようになった。
すべては再び始まった。佳純は沸き立つ熱い感情に目をつむって開けた。目の前に見える空はとりわけ真っ暗だった。
「お嬢さま、もう乗ってください」
しばらくぼんやりと空を眺めていた佳純は、原室長の声にうなずくと、体を回して車に向かった。足取りがひときわ重かった。
「大丈夫。大丈夫よ」
どうせ行かなければならない場所に戻るだけだ。胸の奥で何百回と繰り返した佳純の顔はいつのまにか暗く曇っていた。
* * *
満は陰鬱な表情でベッドに横になって眠っている萌をじっと眺めた。真っ青な顔をして、唇は乾いた血の気さえ漂っていなかった。かわいそうな姿に満は手を伸ばして彼女の顔を撫でて片手をぎゅっと握った。
「ごめんな…。」
数え切れないほど言っていた言葉だった。仕方ない状況だったとはいえ、結局守ることができず危険にさらしてしまったことに対する申し訳ない気持ちは簡単に消えなかった。
短時間に起きたこと。次第に耐え難い現実と対面した満の目はいつのまにか徐々に湿っていた。これから我慢して耐えて生きていく日々があまりにも遥かに暗くて息が詰まった。地獄。満にとって現世こそ地獄だった。
「人生またとないチャンス…」
しばらくぼんやりと考え込んでいた満の頭の中にふと恵子が浮かんだ。チャンスとなるか、危機となるか。きちんと判断すらできない状況で感情的に受け入れた提案。
満は静かにロッカーの中に入れておいた「メビウスの帯」のシノプシスと「アイエムエンターテインメント代表 矢野真人(やのまさと)」と書かれた名刺一枚を取り出してじっと眺めた。
「脇役なんだけど、かなり比重のある役なんだ。知ってると思うけど、今マスコミのスポットライトを最も多く受けているレニーの作品だから、脇役でも君がうまく演じれば、一気に大衆の関心を集めることができる。まずはその事務所に行ってみろ、詳しいことはあっちで説明してくれるから」
固く口をつぐんだ満の目が「メビウスの帯」のシノプシスを注視した。もしかすると負担になるのではないかと思い、玄暉の小説が原作の映画やドラマのオーディションには参加すらしてこなかった。ところが、やっと手に入れたチャンスが玄暉の作品とは。
虚しい状況に満の口からため息が流れた。どうして人生がこんなにもくそったれなのか、本当に神がいるなら聞きたいほどだった。
「いったい俺はどうすればいいんだ…」
萌に視線を向けた満がつぶやくように話した。最初のボタンから食い違ってはめたような不安な気持ちが彼の顔にそのまま現れた。
「満!」
静寂とともに黙って考え込んでいた満は、がらがらという音とともに聞こえた玄暉の声に後ろを振り返った。
急いで走ってきたのか、玄暉がドアを開けて入るやいなや、真っ赤な顔で激しく息をしていた。満は素早く手に持ったシノプシスと名刺を引き出しの中に入れて立ち上がった。
「来たか?」
満が笑顔で歓迎すると、玄暉が彼に近づき、額をポンと叩きながら話した。
「笑える状況か?」
「じゃあ泣こうか?」
苦々しい笑みと共に肩をすくめる満を玄暉が切ない表情で眺めた。父親が亡くなり、母親が宗教にはまり、おかしくなっていく状況の中で、満がそれでも持ちこたえて生きることができたのは、萌のためだった。
満にとって妹の萌はこの世の全てであり、自分が存在する理由だった。ところが、ほかでもない母親の手で萌が残忍な目に曝されるところだったとは、どういう気持ちだったかは想像すらできなかった。それでも平気なふりをし、明るく笑って行動する満がさらに気の毒に感じられ、胸がしびれてきた。
「萌ちゃんの状態はどう?あまりよくない?」
玄暉がベッドに近づいて萌を見下ろしながら尋ねると、満が首を横に振った。
「少し休めば大丈夫だって、明日退院することにしたよ」
「そうなのか?本当によかった」
「うん、よかった」
「ところで、お前は大丈夫なのか?お前の方がもっと死にそうな顔してる」
葬儀場から戻って以来、ずっと病院にだけいたのか、服装もスーツのままで、まともに眠れなかったのか、精気のないの顔をしていた。
「僕がここにいるから、家に帰ってちょっと休んでこい」
玄暉が心配そうな表情で車のキーを渡したが、満は手を振りながら断った。
「いいよ。起きたら俺を捜すから、隣にいてやらないと」
「萌ちゃんは赤ん坊でもないのに、心配性だな。お前を捜したら電話してやるから、意地を張らずに戻って、食事もして、服も着替えてこいよ。何てざまだ」
玄暉が上や下を見ながら話すと、満は恥ずかしいのか額を掻いた。ただでさえスーツ姿なので不便な上、何日もシャワーさえ浴びておらず困惑した。だが、このようなことがある度に自分がそばにいなければ、萌が深刻なほど不安症状を見せるので躊躇するしかなかった。
しばらく悩んだ満は結局、玄暉の押しに勝てないふりをして車のキーを受け取った。妹がいつも自分と同じくらい玄暉の言うことを聞くと知っていたからだ。
「じゃ、すぐ戻ってくるよ」
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