第36話



36.





「俺はここで作業してるから、ジャマにならないようにゆっくり戻ってくればいい」

肩をポンと叩きながら椅子に座る玄暉を満はじっと見た。優しい奴。ありがたい気持ちで訳もなく玄暉の頭をいたずらっぽく乱した満は棚の上に置いた携帯電話を手に取ると言った。


「ついでに何か買ってくるか?」


「栄養ドリンク」


「お前、そんなんじゃカフェイン中毒で早死にするぞ」


「うーん。でも…残念だけどその前に編集長に殺されるかも」


玄暉はブーンという音と共に手の中で響く携帯電話を覗きながら言った。満がいぶかしい目つきで携帯電話をちらりと見た。


[鬼婆]


編集長の電話だと確認した満がにやりと笑みを浮かべた。


「お前まさかおばさんから逃げるためにここにきたのか?」


「そんな寂しいこと言うなよ。萌ちゃんが心配で来たに決まってるだろ」


「まぁ、信じられないけど、そういうことで。今度は何の用だ?」


満が聞くと玄暉はため息をついて答えた。


「メビウスの帯のシナリオ制作を僕がする事になったんだ。でき次第早く渡せって、何日も前からこうなんだよ」


ブツブツ言いながら話す玄暉を見ていた満がビクッとした。そういえば、メビウスの帯へ出演することになれば、当然玄暉と顔を合わせることになる。今からでも事実どおり、恵子とのことを話さなければとしばらく考えていた満は、突然肩をポンと叩く玄暉に驚いた目で振り返った。


「なんでそんなに驚くんだ?」


「えっ?お…驚いたなんて」


「ちょっと電話してくるから、待っててくれ」


「うん…。わかった」


満がぎこちない視線で答えると、玄暉は首をかしげた。どうしたんだ?という疑問に視線をそらすことができない玄暉は、鳴り続けている携帯電話の振動音に、とりあえず電話に出ようと外へ出て行った。


―どうして電話にでないのよ?


外に出て電話を取るなり耳をつんざく声に元気は顔をしかめた。


「マナーモードにしてて…」


―また気づかなかったなんてお粗末な言い訳するなら、今すぐ黙ったほうが身のためよ

神経質な編集長の声に頭がずきずきとし、玄暉は片手で額を押した。


「何の用ですか?」


―わかってるでしょ。今週までに何があっても作業を終わらせて


「叔母さんは僕が魔法を使えるとでも思ってるんですか?杖を振ればすぐに目の前に現れると?」


―最近ほかのことに気を取られてたのは誰よ?文句言ってないで、まずは初稿を出して。来週には制作会社と監督と脚色の方向を決めないといけないから、絶対に遅れないでよ!わかった?


頑なに押しつけてくる編集長の態度にムカついたが、玄暉は心におさめて口を開いた。


「初稿はどうにかしてやるとして、シナリオ制作に入ったら、1人では無理なのわかってますよね?いくら僕でもこんなに厳しいスケジュールに合わせて、時間内に終わらせるのは無理だ」


―だから、アシスタントを雇うって言ってるじゃない


「知らない人と一緒に仕事ができないってわかってるくせに。どうせなら、出版社の社員から…」


―ただでさえ社員少ないというのに、あなたが連れて行ったら私はどうすればいいよの?そんなこと言わないで、私が信じられる人を見つけるから、言うとおりにして。ね?


なだめるほうへ路線を変えたのか、編集長が柔らかい声で言うと、玄暉は困ったように額を掻いた。作業部屋も別に持っていない状況で、知らない人と同じ家で仕事をしないといけないなんて。しかも自分がレニーだと外部に漏れるのではないかという不安感が生じた。


しかし、だからといって1人で慣れないシナリオ制作を短時間で終わらせる自信もない。しかも状況によっては現場での脚色まで覚悟しなければならない立場なので、1日でも早くアシスタントを見つけて本格的に作業を開始する前に、お互いに慣れる必要があった。


―玄暉、聞いてるの?


編集長の声にどうすればいいかしばらく悩んで焦っていたその時だった。玄暉はふと思いついた考えに徐々に口元が上がっていった。いつか作家になるのが夢だと、勉強もしているという佳純の言葉が嘘のように彼の脳裏をかすめた。


「叔母さん、アシスタントは僕が見つけます」


―なに?あなたが?どこで?


編集長がいぶかしげな口調で聞くと、玄暉は明るい顔をして答えた。


「それは今度話します。それでもいいでしょ?」


―そうね。どうせあなたと一緒に仕事をする人だから、そのほうがいいなら…。いったい誰なの?


玄暉の知り合いの中に、この仕事をできる人間はいないことをよく知っている彼女は、気になって再び尋ねた。玄暉が口に優しい笑みを浮かべながら答えた。


「いるんですよ。とても有能な作家志望が。まずは聞いてみて、やるって言ってくれたら紹介します」




* * *




一樹の呼び出しを受け、急いで家に帰ってきた隼人は、予想していなかった状況に固まった表情で立ち尽くしていた。


「なぜ突っ立っているんだ?座りなさい」


座れという一樹の視線にも隼人は返事もなく、ただ一点を凝視していた。彼の視線の先には佳純がいた。彼女は隼人が現れても平気な様子で、淡々とした表情でお茶を飲んでいた。家に戻ってくると言う佳純の言葉を衝動的な反抗だと思っていた隼人は、思いもよらなかった状況に戸惑いを隠せなかった。


「お久しぶりです。隼人さん」


混乱した目つきで佳純を見ていた隼人は、自然に挨拶をする女性に視線を移した。そこには少し前に見合いをした瀬川千珠が満面の笑みを浮かべて座っていた。


佳純だけではなく千珠まで連れてきたということは、結局は自分の思いどおりに政略結婚まで進めるつもりのようだ。一樹の意図を明確に理解した隼人の目つきが冷たくなった。


「座ったら?」


しばらく沈黙が流れたにも関わらず、微動だにせず立っている隼人の姿を見ていられなかった佳純が口を開いた。どうにかして今の状況をいい方向へ持っていきたかったが、彼女の思いとは裏腹に隼人は冷ややかな表情で黙って引き返した。


「座れと言っているんだ」


努めて平然とした表情でお茶を飲んでいた一樹の口から警告が流れると、隼人は足を止めて、彼を振り向いた。


「すぐに着替えて、また会社に戻らないといけません。お話があるなら今度に」


「まったく、こいつは…」


「そうしましょう、会長。お仕事がお忙しいようですから」


怒りを抑えられず、隼人に何か言おうとしていた一樹は、千珠の引き止めに言葉を飲み込んだ。いつもであれば、すぐにでも大声を出していたが、千珠の前でそのような姿を見せるわけにはいかず、湧き上がる怒りをやっと抑えた。


「それでは失礼します」


隼人は小さく頭を下げると、ためらうことなく2階へ向かった。わかりやすく断ったにもかかわらず再び目の前に現れた千珠が、ぎこちなく不快だったが、隼人は深く考えないようにした。


「会長、私もそろそろ失礼します」


ひと言も言わずに行ってしまった隼人を寂しい目で見ていた千珠が、ためらうことなく椅子から立ち上がった。


一度でいいから先に自分を振り返ってくれたら、少しの希望くらいは持てるのに。ひたすら冷たい隼人の態度は結局いつものように千珠に絶望だけを与えて終わった。


千珠は苦々しい気持ちを隠して、ハンドバッグを肩にかけた。


「夕食でも食べて行きなさい」


「いいえ。私も仕事があって、会社に戻らなければいけないので」


「そうか?ではしかたない。あとで父上と電話をして正式に日を決めるとしよう。近いうちに、また」


「はい」


にっこり笑って答えた千珠は、帰る前に振り返って佳純に挨拶をすると、見送ろうと立ち上がった一樹について外へ出た。なかなかの女性だ。美人で、行動や言葉遣いから大切に育てられたことは歴然としており、隼人の相手にふさわしいように見えた。


その思いと同時に胸の片隅が冷たくなったが、佳純は無視しようとした。佳純はそのまま階段に向かっていった。


一段、一段上るたびに、辛かった過去の事が改めて思い出されたのか、いつのまにか佳純の顔には暗い光が宿っていた。


「面白いことをしてくれる」


最後の一段を上り、部屋に向かっていた佳純は、一瞬聞こえた隼人の声に緊張して振り返った。


さっきから待っていたのか、服も着替えずに隼人が腕を組んでドアにもたれて立っていた。


「戻ってくるって言ったでしょ」


全身を圧迫する隼人の視線にも揺らぐことなく、答えた佳純は近づく彼の足取りに合わせてゆっくりと後ろに下がった。


「お父さんが来るかもしれない。だから…」


「だからなんだ?」


隼人の冷たい返しに、言葉を飲み込んだ佳純は体を回してドアを開けようとした。しかし、すぐに隼人の手に遮られ、そのまま壁に押しつけられた。


「父さんにこんなところを見せたくないなら、この家に戻ってくるべきじゃなかった」


「お兄ちゃん」


「言ってみろ。いったい何を考えてここに戻ってきたのか」


息の音が聞こえるほど近づいた隼人の低い声に、佳純の顔は一瞬にして固まった。


隼人と目を合わせているのが大変なほど、心臓がどきどきし、背中には冷や汗が流れた。しかし、佳純は平気なふりをして、目に力を込めるとゆっくりと口を開いた。


「私もお父さんの娘よ。この家に戻って来ちゃいけない理由はないじゃない」


鋭い彼女のひと言に、隼人の顔が少し変わった。まるで別人のように佳純が真剣な眼差しで背筋を伸ばして、自分にしっかりと向き合っていた。


この数日、自分を不安にさせていた彼女の態度は気のせいではなかったようだ。それを認めた瞬間、胸いっぱいに不安が押し寄せてきた。


「今すぐ家に帰れ。父さんには俺から話しておくから」


「嫌よ」


「おまえ!」


「やめて!本当にやめてちょうだい!お兄ちゃんが、こんなことしたって何も変わらないでしょ?」


冷たく言い放つ佳純を凝視していた隼人の瞳が揺れた。


「なに?」


「お兄ちゃんが、こんなことをしても、私たちの関係は変わらない。いくらもがいても結局は元に戻るだけなのよ」


罵るように怒った口調に隼人は両手をぎゅっと握りしめた。いくらもがいても結局は兄妹である自分たちの関係は、お互いに傷だけを残したまま、そのしがらみから抜け出せないのだ。その真意に気づいた隼人は、手の施しようのない感情に胸が詰まった。


「お前さえおとなしくしていれば…」


「いいえ。お兄ちゃんにできることは何もない」


隼人の言葉を遮って、佳純が冷たく言った。


「だから、これからは世界に一人しかいない私のお兄ちゃんの役割をすればいいの」


外を照らす街灯以外の灯りはなく、見分けがつかないのだと思った。冷たく睨む佳純の目が信じられないほど不慣れに近づいてきた。


冷たく言って背を向けようとした佳純をじっと凝視していた隼人は、ついに我慢できず佳純の腰を強く抱きしめた。自分を束縛する隼人の手に驚いた佳純は体を離そうとしたが、隼人はためらうことなく佳純の唇を自分の唇で覆った。


隼人は引き離そうとする佳純の手を無視して、躊躇なく押し通した。隼人の熱い吐息が佳純の口の中に入り込み、意識がもうろうとした。


「はぁ…。はぁ…。いったい何を!」


「俺とお前は絶対に兄妹としてはやっていけない」


全身の力が抜けるほど激情的な隼人のキスに、正気を失ったような彼の声。


「佳純、お前こそしっかりしろ」


耳たぶと首筋の間に触れた隼人の熱い吐息に、佳純は息を止めた。




* * *




「朝食の準備ができました」


出勤の準備をしていた隼人はノックの音と共に聞こえる家政婦の声に短く返事をすると鏡の前に立った。


いつものようにシックなスーツを着て、それに合うシンプルな時計をはめた彼の姿は、一寸の乱れも見られなかった。最後に少し曲がったネクタイまで確認して整えた隼人はそのままドアを開けて出て行った。準備ができたのか、ちょうど佳純も部屋から出てきたところだった。


「学校は休みなんじゃないのか?」


2人の間に流れる重たい静寂を先に破り、隼人が聞くと佳純はぎこちない表情で答えた。


「明日の試験が終わったら休みに入る」


佳純はこれ以上話したくないというように、素早く階段のほうへ向かった。昨日のことがしきりに思い浮かび気になって、隼人と自然に顔を合わせることができなかった。強烈なキス。まだ指先が震えるほどクラクラして自然に息が詰まった。


「今日、学校の前まで行くから待ってろ」


階段に足を下ろすやいなや聞こえた隼人の声に佳純がびくりと立ち止まった。


「今日は約束があるから、来ないで」


振り向きもせず短く答えた佳純は急いで階段を下りていった。いつまでこの不安な関係を続けないといけないのか、これからの事が漠然とした佳純の口から、新たなため息が漏れた。


「久しぶりね」


階段を下りきったころ聞こえてきた恵子の声に佳純の顔が一瞬にして固まった。


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