第9話
9.
アリサの頭に大量のシャンパンが注がれていたのだ。しばらくして状況を理解したアリサの顔色が一瞬にして変わった。
「キャ~!」
アリサの悲鳴がホールに響き渡った。佳純は驚いた顔で隼人を見上げた。無表情の彼の手には空のグラスが握られていた。佳純は信じられないというように、ボーッとした表情を浮かべた。状況が掴めないほどの突然の彼の行動。佳純の視界に全身を震わせるほど恐ろしい顔をした隼人の顔が映った。
「うせろ」
「どうかしてる」
アリサは顔についたシャンパンを急いで手で拭きながら叫んだ。隼人は鋭い目つきで彼女を睨みながら口を開いた。
「もう一言でも話せば…」
「……」
「その時はお前の足首をへし折ってやる」
隼人の恐ろしい警告にアリサの顔は真っ青になった。
「何の騒ぎなの?」
冷たい空気が漂う中、恵子が眉をひそめながら近づいてきた。深刻な事態の報告を受けてやってきた様子で、恵子の視線はまっすぐに佳純とアリサに向けられていた。
「何でもありません」
「何でも無いのに、どうしてこんなに騒がしいの?」
見物でもするように集まってきた人々を彼女が鋭い目つきで見渡すと、ようやく皆は各々の席に戻っていった。ざわついていた雰囲気が一瞬落ち着くと、霜が降りたかのように凍りついた。
佳純はあれほど向き合いたくなかった状況が現実になると、両目をギュッと閉じてしまった。
「いいざまだこと」
とげのある恵子の声に、アリサは悔しそうにシャンパンに濡れた髪の毛を耳にかけると泣きべそをかいた。
「叔母さま、私の話を聞いてください…」
「お黙りなさい」
恵子はアリサの言い訳を遮り、彼女を激しく睨んだ。
「あなたのお父さんの頼みで、例の記事をもみ消したのに、無駄だったようね」
「叔母さま!そうじゃなくて…」
「もう一言でも話したら…」
恵子の目は警告するかのように鋭く光った。
「その時は芸能界から消えてもらうわ」
肝を潰す恵子のひと言に、アリサの顔は一瞬にして固まった。消えてもらうという残酷なその言葉は、ただ口をついただけではないということを誰よりもよく知っていたため、アリサは沸き上がる怒りをかろうじて抑え、彼女の隣に下がった。
「あなたは何でもするのね?」
アリサを通り過ぎ、佳純の前に立った恵子が頭から足へと視線をうつし、眉をひそめた。佳純は意気消沈した様子でゆっくりと口を開いた。
「申し訳ありません…」
「謝るの?この状況が、そんなことで片づくとでも?」
恵子は横目で睨んだ。
「ある意味、大したものね。あなたという存在一つで柳原家がここまで笑いものになったんだから」
佳純は胸をえぐるような彼女の言葉に青ざめた顔で俯いた。二人の姿を凝視していた隼人の顔は不満そうに歪んだ。こうなると分かっていたら、あんなに嫌がっていた佳純を連れてこなかった。死に物狂いで耐えている佳純に隼人は不憫な視線を向け、母親に近づいた。
「母さん、もうやめて永井会長のところに行こう」
隼人がなだめるように肩を包み込むと、恵子の表情が徐々に緩んだ。とにかく今日のこの場は夫と愛する息子のための場だ。これ以上騒ぎを大きくしたくはなかった。彼女は佳純から視線をそらし隼人と一緒に戻っていった。
「そうね。永井会長が直接祝辞まで準備していらしたんだもの。お礼のご挨拶をしなくちゃね」
「うん。そうだね」
隼人は自然に恵子をエスコートした。彼らが視界から遠ざかると、佳純は我慢していた息を吐いた。神経が張り裂けるほど緊張していた彼女の額にポツポツと冷や汗がにじんだ。
「うっ」
アリサと二人きりになった佳純は、その場を去ろうと動いた。その瞬間、片方のヒールが折れ、彼女はまた足首に酷い痛みを感じ、短くうめき声を漏らした。
佳純はかろうじてテーブルの上に手を置き、呼吸を整えた。そうして前を塞ぐアリサと向かい合った。メチャクチャになった彼女の口元にいやらしい笑み浮かんでいた。
「バカみたい」
アリサの悪口に佳純の口から笑いが吹き出した。テレビで半月型の目をして微笑み純粋なイメージを強調していた彼女の無知な行動に、佳純の目つきが冷たく変わった。
「私に劣等感でも持ってるわけ?」
「はぁ?」
「そうじゃないなら、こんな幼稚なことはもうやめて」
さっきとは全く違う佳純の態度にアリサは呆れたように眉をひそめた。
「今なんて言ったの?」
アリサは佳純に向かって指を突きつけながら大声で言った。佳純は疲れた表情で、靴を手に持つと彼女の横を通り過ぎ、ドアに向かって一歩一歩慎重に歩いて行った。
「あいつ…」
ただでさえ色々とおかしくなりそうなのに、佳純にまで無視されるとは。彼女の目は炎に包まれたように火花が散っていた。アリサは佳純を追いかけると肩を掴み、ビンタをするかのような勢いで手を振り上げた。佳純は驚き目を閉じた。
「いいかげんにしろ」
頬にアリサの手が届く瞬間だった。突然聞こえてきた男性の声に佳純は閉じていた目をゆっくりと開けた。
「何よ?あんた?」
アリサは突然現れた男に腕を掴まれ、苦々しい表情を浮かべていた。佳純は彼を呆然とした表情で見つめていた。
「もしかして、ボクシングでもしてます?女性なのに、こんなに腕の力が強いなんて」
男は図々しく話しながら、アリサの手を振り払うように冷たく離した。佳純は目を細めたまましばらく彼を見つめていた。まさかとは思ったが、佳純ははっきりと目に映る彼の顔に驚きながら目を丸くした。
左衛門玄暉?自分の目が間違っていなければ確かに彼だった。
「あっ…どうしてここに…?」
「こんな所で会うなんて…」
聞き慣れた声に、我に返った。佳純は彼が現れたことに驚き、何も言えずにぼんやりと彼を眺めた。
「ビックリした?僕も驚いた」
玄暉は汚いとでもいうようにアリサの腕を掴んでいた手を服で拭くと、佳純の前にやってきた。
「こんばんは」
落ち着いた声と明るい笑顔
「こんな所で会うなんて…」
佳純の耳には心臓の音が鳴り響いていた。
* * *
隼人は佳純がさっきから見当たらないと、心配げな表情で彼女に電話をかけた。体も丈夫でないうえに、知り合いもいない場所で彼女が一人でいると思うと気持ちが焦った。隼人はじっとしていられず、しきりに周りをキョロキョロと見渡した。
「専務、こちらでしたか」
ホールの外に出ようとしていた隼人を玲香が引き止めた。
「会長がお捜しです…」
「佳純を見かけませんでしたか?」
「え?佳純さんですか?」
ふっとした記憶に玲香がすぐに答えた。
「先ほどお友達と一緒にロビーに向かわれたみたいですが?」
隼人の眉が動く。友達?彼が知る限りでは佳純がこんな所で友人に会うはずはない。
「友達って誰ですか?」
「初めて見る方でした。佳純さんがお友達だとおっしゃっていて…」
隼人の目に警戒と混乱が同時に浮かんだ。佳純がこのような場に出席した回数は、5本の指で数えられるほどしかなく、その際に誰かと親しくなることなどなかった。いつも一人で部屋の隅で顔色を伺っているのが気の毒で、むしろ誰でもいいから交流すればいいのにと紹介もしたが、毎回失敗に終わった。それなのに、友人とは?隼人は眉間にしわを寄せると、固くなった首筋をさすった。
「今日は疲れました。父と母にはホテルの部屋で少し休むと伝えてください。それから後のことはよろしくお願いします」
「え?ですが専務、会長が…」
玲香が急いで引き止めようとしたが、隼人は上着を脱いでホールから出て行ってしまった。彼女は唇の間から小さなため息をついた。既に隼人の代わりに柳原会長の嫌がらせを受ける自分の姿が目に浮かんでいた。
「今日も早く帰れないか…」
隼人のいない席を埋めるために、ただでさえきしむ腰をどれだけ下げないとならないのかと思うと、頭痛がしてきた。しかし、耐えるのも会社員の宿命。苦々しい笑みと共に彼女の目元にクマが深く刻まれた。
* * *
「ここに座って」
玄暉は佳純を支え、階段の横の椅子に慎重に座らせた。歩くたびに感じる痛みが和らぐと少しは楽になったのか、佳純の顔色がよくなった。
「ちょっと腫れてる。病院に行かないと」
「大丈夫よ。家に帰って湿布を貼ればよくなるわ」
佳純は玄暉を安心させるため、明るく笑いながら言った。それをうっすら感じ取った玄暉の口から短いため息がこぼれた。実際に目にしても信じられないようなことを経験しても、すぐに微笑む彼女の姿に胸の隅が痛んだ。
ほんの数分前に起こったことが彼の脳裏をかすめた。アリサにどうしようもなくやられる佳純を見つけた瞬間、過去に自分の姉たちが経験したことが思い出され、危うく感情を抑えられないところだった。
そういえばよく似ている。自分の双子の姉たちと。玄暉は佳純をじっと見つめた。ぎこちない沈黙が流れ、玄暉の視線を感じた佳純はあちこち視線を動かすと、裸足の自分の足を見て顔を赤らめた。かかとが折れて履けなくなったので靴を脱いでしまったからだ。
佳純は気になってあれこれ足を動かし、途方に暮れた。玄暉は彼女の反応にニヤリと笑い、着ていた上着を脱いで佳純の足元に置いた。
「女の子は足を冷やしちゃいけないから」
「平気よ!服が汚れちゃう…」
戸惑う目つきで玄暉の服を持ち上げようとした佳純は、ひざまずいて引き止める玄暉の手振りに止まった。
「服はクリーニングに出せばいいから、気にしないで」
玄暉の服を踏むのをためらって足を上げていた佳純は、渋々ゆっくりと足を下ろした。玄暉は上着の腕の部分を折って彼女の足を包んだ。その姿を佳純は不思議な目つきで見下ろした。
彼といる度に感じるのだが、とりわけほかの人より細心で優しかった。一緒にいると心が暖かくなり、いつのまにか口元に笑みがこぼれた。不思議で震えた。ぼんやりと彼を見つめていた佳純は、自分でも気づかないうちに彼の柔らかい髪を撫でようとして、見上げる彼の視線を瞬間的に避けて首をサッと動かした。
ついにおかしくなったみたい。正気じゃない。佳純は自分自身を非難し、乾いた唇を舌で濡らした。
「この靴はもう履けないな…」
玄暉は佳純の靴をじっくり見て、小さくつぶやいた。彼の顔色をうかがっていた佳純は、大丈夫だと首を横に振った。
「今日はホテルに泊まるから大丈夫」
佳純の言葉に玄暉は黙って彼女を見つめた。気にしないようにしたが、自分でもどうしようもできないようだ。一泊数十万もするこのホテルに泊まることなど大したことないように話す佳純の姿になぜか壁を感じた。
玄暉は複雑な気持ちを隠し、すっと立ち上がると佳純の肩に両手をのせた。
「ちょっと待ってて」
「…えっ?」
玄暉はにっこり笑ってどこかに素早く歩いていった。佳純は不審な目で彼の後ろ姿をじっと見守った。どこに行くんだろう?好奇心から、すぐにでも彼の後を追いかけたかったが、彼女は足を包んでいる暖かい気配にじっと座っているしかなかった。
佳純は今日の出来事を思い返してみた。いつもなら悔しさのあまり、今頃はもう家に帰って暗闇で泣きじゃくっていただろう。繰り返される始まりと、繰り返される結果だった。まるで日常のように。しかし、今日は違った。始まりから中間、そして最後まで。
「あ…お兄ちゃんから電話が来てたんだ」
ふとクラッチバッグから携帯電話を取り出した佳純は不在着信が10件以上あることを確認し、通話ボタンに向かって動く指を止めた。
アリサを止め、自分をかばう彼の姿。アリサに向けられた冷ややかな目つきは、いつも彼女を見ていた眼差しとは何か違った。本当にただではおかない、というような厳しい彼の目つきは、自分に向けられていたらと思うと怖くて座り込んでしまったかもしれないほど冷たかった。
「ありがとう…」
佳純の口がゆっくりと動いた。隼人に直接話す勇気が出ない時には、小さなつぶやきが口から出ることがある。
彼女は誰かに聞かれていないか、恥ずかしそうな表情できょろきょろした。あまりにも一人でいることが多く、癖のようになっていた独り言が、今では意志とは関係なく突然飛び出し、当惑することがあった。
「何してるの?」
「キャッ!」
誰にも見られていないと確認し、安堵していた佳純の背後に玄暉が顔を突き出したので、彼女はびっくりして大声を上げた。その声がどれほど大きかったのか、通り過ぎる人たちが玄暉と佳純を変な目つきで見ていた。玄暉は予期せぬ佳純の反応に戸惑い、一歩後ろに下がった。
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