第10話
10.
「ごめん!そんなに驚くと思ってなかった」
青ざめた顔で胸を掴んでいる佳純に近づいた玄暉は、しゃがみ込んで彼女に必死で謝った。やっとのことで驚いた胸を落ち着かせた彼女は、そんな玄暉の姿に思わず「クスッ」と笑みが漏れた。
「だ…大丈夫なんだよね?」
「うん、大丈夫。ちょっと驚いただけ」
「ごめん」
「いいの!ところで、どこに行ってたの?」
佳純の質問に玄暉は後ろに隠していた箱を彼女の前に差し出した。何だろう?佳純は戸惑った表情で箱を見下ろした。
「開けてみて」
玄暉が箱を膝の上に乗せながら、開けてみろという目で見ると、佳純はためらうことなく箱を開けた。彼女のドレスに合わせたような、ベージュの高級で素敵な靴が入っており、佳純は驚いた顔で玄暉を見つめた。
「これ…何?」
佳純の質問に玄暉はぎこちない表情で咳払いをした。
「ああ、今日一緒に来た人が買い物中毒でさ。特に靴が大好きなんだ。一日に何回も履きかえるほどで、いつもトランクに靴をいっぱい積んでるんだよ」
彼は箱から靴を取り出し、彼女の足の前に置いた。
「その中から一番きれいで新しいのを持ってきたんだ!だからって盗んできたわけじゃないから。僕がちゃんとお金を出して買ったやつだから気にしないで」
玄暉はペラペラと話した。今の状況がとても恥ずかしいらしいらしく、彼は頭を掻いた。佳純はくすっと笑った。
「こんなに話し上手だなんて知らなかった」
佳純が笑顔でからかうように言うと、玄暉は真っ赤な顔をして、視線を下げた。佳純の笑顔を見ていると、誰かに心臓を金槌で殴られたかのようにドキドキしてしまい、ひょっとして彼女にも心臓の音が聞こえるのではないかと心配するほどだった。
玄暉はやっとのことで心を落ち着かせ、彼女が靴を履きやすい位置に靴を置いた。佳純は照れくさそうな顔をして、ゆっくりと靴を履いてみた。
「よかった。サイズぴったりだね」
「どうしてサイズがわかったの?」
佳純が驚いた顔で尋ねると、玄暉は体を起こしながら答えた。
「うちの女性陣は買い物が好きだから、荷物持ちでよくかり出されたんだ。ぱっと見たところ、叔母とサイズが同じくらいだったから持ってきたんだけど。サイズが合っててよかった」
「叔母さん?」
彼女は首をかしげると、繰り返した。うっかり失言をしてしまった玄暉の顔が当惑に染まった。
「あ…うーん。でも、ハイヒールだから足首に無理がかからないといいけど。今日は君の言うとおりホテルで休むのがいいね」
「本当にありがとう」
佳純は恥ずかしそうに笑顔を浮かべ、玄暉はぎこちなく視線をそらすと鼻先を掻いた。目の前で彼女が笑う姿をもう一度見たら、どうにかなりそうだった。
「疲れてるだろ?部屋まで送るよ」
「平気よ。もう一人で歩けるから」
佳純は彼に一日中世話をかけっぱなしのようで、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。一人でどうにかして体を起こそうとした瞬間、足首にかかった圧力に倒れそうになり、体を横に傾けた。それを見た玄暉は驚いた表情で、素早く彼女に手をのばした。
「佳純…」
「ここで何をしてるんだ?」
佳純を抱えようとした玄暉はその瞬間、彼女の腰を包み込む誰かの手に固まった。
「お兄ちゃん…?」
佳純は突然現れた隼人をボーッと眺めた。彼女は言葉に詰まったように何も言えずに緊張していた。
「大丈夫?」
玄暉は驚きを落ち着かせ、佳純に近づいた。ところが隼人はすぐさま彼のことを警戒すると、佳純を両腕でさっと抱き上げた。
「部屋は予約しておいた。行こう」
「お…お兄ちゃん。大丈夫だから下ろして!」
彼女は真っ赤な顔をして叫ぶと、ためらっていた玄暉が隼人の前を遮って挨拶をした。
「はじめまして。僕は…」
「どけ」
とげとげしい反応に玄暉の顔が一瞬固まった。柳原隼人。佳純の兄であり紅海グループの後継者。今最も注目を集める若い経営者の一人だと、叔母が何度も話していたことを思い出した。そんなにお偉いのかよ、それなら人のことを無視していいのか?玄暉はふっと思ったことに感情がこみ上げてくるのを感じた。
「お兄ちゃん、待って。彼は友達で…」
「だから?」
隼人の質問に佳純は何も言えなかった。確かだった。隼人がとてつもない忍耐力で沸上がる怒りを押さえているということ。その目が再び玄暉に向かった瞬間、佳純の胸は張り裂けるように苦しくなった。
「何か誤解をなさっているようですが」
「誤解だと?」
「はい。僕はただ助けようとして…」
「助け終わったなら、もう帰れ」
玄暉が話を終える前に、隼人は冷たく話を遮った。これは…。すぐにでも悪態が飛び出しそうになるのを、やっとのことでこらえると、玄暉はゆっくりと横にどいた。
佳純の体調も良くないのに、彼女のお兄さんと言い争う必要はないと考えたからだ。そう、いくら馬鹿にされても佳純の兄なのだ。努めて心をなだめた。
「ごめんなさい…」
佳純は彼の横を通り過ぎるとき低くささやいた。玄暉は気にするなというように微笑んだ。
「電話するよ」
残念な気持ちが込められた玄暉の一言に、隼人は足を止めた。電話?彼の目から冷たい風が吹き荒れた。凍りついた佳純をゆっくりと下ろすと、隼人は彼女が履いていた靴を睨みつけた。
「脱ぐんだ」
突然の彼の態度に佳純は驚きを隠せず、ためらった。
「お兄ちゃん… お願い」
「俺が脱がせてやろうか?」
佳純はすぐにでもやめてと叫びたがったが、彼の勢いに押されてしぶしぶ靴を脱ぐしかできなかった。冷たい大理石の床が全身を包み込んだ。
「何を…するんですか?」
ポン。
佳純が脱いだ靴を投げ捨てると、隼人とは何も言わず再び佳純を抱き上げた。玄暉の表情が一瞬にして歪んだ。
「お兄ちゃん!」
いきすぎた彼の行動に佳純は怒った顔で声を荒げ、玄暉は重たく沈んだ目で隼人を凝視した。
「いったい… どういうつもりですか?」
最初の戸惑いは消え去り、残ったのは怒りだけだった。玄暉の顔はいつの間にか冷めていった。しかし、隼人は何も言わずに歩いていった。
その姿に我慢の限界を感じた玄暉は彼の後ろを追っていき、向かい合う形になった佳純を見て立ち止まった。彼女はついてくるなというように首を振っていた。
そのうち視界から彼らは消え、このように佳純を見送ることしかできなかった玄暉は虚しいため息をついた。彼はゆっくりと歩み寄り、置き去りにされた靴を拾い上げた。
「何なんだ、あの人は…」
見るからにぞっとするほどの彼の目には、何かが隠されていた。玄暉は、佳純と一緒にいることさえ気にいらない様子で見ていた隼人を思い出すと顔をしかめた。想像を絶するほどの無礼さに、佳純の実の兄だという事実に疑問が生まれた。
「あ…そうだ。契約書」
一ヶ月以上も断り続けていた契約を、何かに惑わされたようにたった5分で悩むことなくサインをしてきたという事実が、一足遅れて彼の考えを複雑にした。そのときは、佳純が喜ぶ顔だけを思っており、こんな最悪の状況は想像もできなかった。
「はあ…」
玄暉は超脱した表情でため息をついた。彼は手に持った靴を目の前で揺らすと、虚しい微笑みを浮かべた。こんな靴見たくもない。
「ああ…君のこと、どうすればいいんだ」
すぐにでも靴を放り投げたいという気持ちを抑え、玄暉はゆっくりと歩いていった。
「行こう」
死んでもやりたくなかった仕事への対価。
「…俺の契約金」
* * *
隼人は抱きかかえていた佳純をソファーの上にゆっくりと下ろし、テーブルの上に置かれたウイスキーをグラスに注ぐと向かいに座った。口の中で甘美に広がるウイスキーの香りにやっとのことで感情を落ち着かせた時には、不満で一杯の佳純の顔が目障りだった。
「友達だって言ったでしょ」
「だから?」
隼人の問いに佳純は今度こそ絶対に引かないと言うように顎を上げた。
「大学で初めてできた友達なの。あの靴だって、私のこと考えてだったのに…」
「靴を返したことが気に入らないのか?」
「そういう意味じゃないでしょ!」
「じゃあどういう意味なんだ?」
ウイスキーをもう一口飲むと、隼人の声が重く沈んでいった。尋常でない雰囲気の中、佳純は言おうとしたことを飲み込み、口をつぐんだ。あそこまでする必要はなかったと言いたかったが、全身を縛る彼の鋭い勢いに押されてしまった。
恨めしかった。いつも自分を追い詰める隼人の言動が。どうして穏やかに過ごせる日がないのだろう。もどかしさで息が詰まるほどだった。
また堂々巡りの会話をすることを考えると気が遠くなり、いっそうこの場を避けた方が気が楽だろうと思った。佳純は決心したように足首に感じる痛みに耐えながら体を起こした。
「座れよ」
たがわずに投げかけられる彼の一言にも、佳純は意固地になって一歩踏み出した。
「疲れた。お兄ちゃんも、もう帰って」
なによりも隼人が自分の友達を無視したことが許せなかった。この行動を後悔することはわかっていたが、そうだとしても引き下がるつもりはなかった。当惑していた玄暉の顔が脳裏から消えない限り、簡単にこの怒りは治まらないだろう。
「あっ…」
足を引きずりながら、かろうじて歩みを進めた佳純は、突然自分を抱きしめる手に驚いて声を上げた。
「何をするの!」
「静かにしろ」
短い警告とともに佳純をベッドの上に下ろした隼人は、自分を睨む佳純の視線に奥歯をギュッと噛み締めた。誰かにナイフでえぐられたように胸が痛んだ。
「あいつのせいで、こんなまねをするのか?」
「そうじゃなくて…」
反論しようとしていた佳純は隼人と目が合うやいなや、言葉尻を濁してしまった。冷たかった彼の視線に、今までとは違う何かが宿っていた。
「認めたくなかったが… 違うんだな」
「……」
「あいつといる時と、俺といる時」
隼人の一言に時間が止まったかのように、二人の間に沈黙が流れた。佳純は予想もしていなかった彼の言葉に、訳がわからないといった反応を見せた。
「一体何のこと?」
「お前はいつもそういう目で俺を見る」
「……」
「恐ろしい怪物でも見るように…」
佳純の胸が鳴った。淡々と吐き出された彼の言葉と視線に、おかしな感情が沸上がり、喉が詰まった。まとまらない言葉だけが残った。
「もうやめよう」
隼人はその一言で会話を終えた。何を言っているんだ…。彼は抑えきれない感情に流され吐き出した言葉に後悔した。隼人は短く息を吐くと、彼女に背を向けて立った。
「氷を頼んでおいたから、寝る前に冷やすんだぞ」
隼人は感情が露わになった表情を隠しながら話した。佳純は何か言おうとしたが、再び口をつぐんだ。彼に何を話せばいいのか分からなかった。異常なほどに頭がくらくらした。白紙のように真っ白になってしまった。
「まだ話は終わってない!」
ドアに向かう隼人の手首を佳純は掴み、思わず声を上げていた。彼女の顔は熱くなり、心臓が電気ショックでも受けたようにビリビリと震えるのを感じた。
「なんだ?」
佳純は慎重に話し始めた。
「今日のことは、お兄ちゃんも悪いんだよ」
「だからどうした?」
彼の問いに佳純は得体の知れない悲しみが胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。彼女は責めるように振り返る隼人の手首を離しながら口を開いた。
「そういうんじゃなくて。ただ…」
「佳純」
「……」
「…もうやめろ」
隼人は悲しそうにまぶたを落とした。佳純と目を合わせていることが辛かったのだ。初めて見る男に向けられた明るい笑顔がしきりに思い浮かび、彼の神経を刺激した。時間が経てば経つほど狭くなる心が、だんだん爆発するかのように膨らみ、胸を締め付けた。
「何を言いたいかわかったから、もうやめろ」
佳純は恨めしい目つきで彼を見つめた。何を言いたいか分かったって…?そうだ、言いたいことは沢山ある。玄暉とのことは別にして、隼人の誤解を解きたかった。
いつものように彼の言葉に傷つき、心の奥に押しやり、結局は彼を遠ざけてしまう。そんな繰り返しを少しでも解決したいという思いだけだった。本気でそう思った。
しかし、状況はいつもと同じように再び残忍に繰り返され、佳純は絶望するしかなかった。
「明日迎えをよこすから、病院に行けよ」
隼人の言葉に佳純は握りしめた手を震わせた。腹が立った。さっき玄暉とのことで感じた怒りとは別の感情だった。言葉では言い表せないほど心が痛んだ。
「お兄ちゃん、私の話を聞いてよ!」
パタン!
隼人は差し出された佳純の手を無視し、部屋の外へ出て行ってしまった。彼の後ろ姿を最後まで見ていた佳純の目が赤く充血した。彼女は体を起こそうとしたが、全身の神経を逆立てる痛みに負けてしまった。頭がクラクラして、喉の奥からこみ上げる熱い何かが彼女の目を刺激した。
「私の話を聞いてよね…」
一体何が問題なのか何度も問いかけ、何度も答えを探しても結論は出なかった。泣きそうになる感情に耐えられず、崩れ落ちててしまった。このすべての状況の前では。
「何も知らないくせに…」
目に降り注ぐ光が気になり、すぐに目を覆った。暗くて息が詰まる。
たった一言、聞いてくれればいいのに。ただ聞いてくれるだけでこの苦しさから解放されるのに。彼女はついに自身に背を向けてしまった。
「本当に分かってない…」
音のないこだまが、彼女の胸の奥で重く響き渡った。
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