第39話
39.
「えっ?」
「何か言いたそうに見えたから」
落ち着きのない玄暉がなんだか不自然に見えて、佳純は不思議に思った。玄暉はしばらく迷ったが、やっと心を決め、毅然とした態度で口を開いた。
「前に僕が付き合おうって言ったの、覚えてる?」
緊張した面持ちで問う玄暉を、佳純は困惑した表情でしばらく見つめていた。そして控えめに答えた。
「うん……考えてみたんだけど……」
「……」
「ごめん、やっぱり……」
「ちょっと待って!」
突然玄暉が言葉を遮り、佳純は驚いた顔で彼の顔を見た。
「玄暉くん?」
「今日はまだ心の準備ができてないから、今度……また今度聞かせて」
佳純の顔に一瞬戸惑いが滲み出た。ひどく緊張している玄暉の姿を見て無性に申し訳なくもなったが、佳純はすぐに平然を装い小さく頷いた。
「わかった。じゃあ、私帰るね。玄暉くんも気を付けて」
気まずい雰囲気のなか短い挨拶を済ませ車を降りようとした佳純は、近づいてくる玄暉の気配を感じ、石像のように動けなくなった。
頬に触れる柔らかい感触。少しして彼の温かい吐息が離れていった。佳純は小さく微笑む彼を見て困惑した。
「僕は毎日24時間ずっと佳純ちゃんのことだけ考えてる。自分でもおかしくなったのかと思うくらい」
「……」
「それくらい君が好きだ。だからもし……断るつもりだったのなら、もう一回、あと一回だけでいいから考え直してほしい。お願い」
玄暉の切実で震える声に、佳純の瞳が僅かに揺らいだ。彼の真摯な思いが真っ直ぐに伝わってきて、息が詰まるほどに胸が苦しくなった。
どんな顔をすればいいかわからず、玄暉の目を避け顔を背けた佳純は静かに深呼吸してゆっくりと車のドアを開けた。
「じゃあ、わっ、私帰るね」
焦るあまりしゃっくりが出てしまった。佳純はこんなみっともない姿を玄暉に見られてしまうのではないかと、素早く車から降りて家へと向かった。緊張しすぎたのか頭がくらくらして脚の力が抜けてしまった。
“それくらい君が好きだ。だからもし……断るつもりだったのなら、もう一回、あと一回だけでいいから考え直してほしい。お願い”
切実な彼の言葉と眼差しが再び目に浮かんだ。心臓が張り裂けそうなくらい激しく脈打った。彼からの突然の告白に、複雑で何とも言えない感情が入り乱れた。
どうしよう。
なかなか落ち着けない。佳純はやっとのこと呼吸を整え、門の前でべったり座り込んだ。そして両手で赤く火照った顔を覆ったまま、意味のわからない大きなため息をついた。
* * *
「いつものを一杯」
普段よく行っているホテルのバーに先に着いて一人で飲み始めていた隼人は、自然な流れで自分の隣に座り酒を頼む晴琉にちらっと目を遣った。
「遅かったな?」
「わりぃ、親父とちょっと揉めちゃってな」
バーテンダーが差し出すグラスを受け取った晴琉が恥ずかしげもなく笑いながら言うと、隼人は首を傾げて尋ねた。
「何事だよ?」
「いや、大したことじゃないんだ……」
しばらく口を閉ざした晴琉は、酒をひと口流し込んだ。
「ちょっと前に親父に言われて仕方なく見合いの席に行ったんだけど、それ以来、俺が嫌だと言っても結婚しろって聞かないんだ。しないなら俺の会社を爆破するだのなんだの、あのジジイもまだまだ現役だな。威勢がいいのを見ると俺よりピンピンしてるよ」
「すりゃいいじゃん」
隼人が目線を戻しながら無頓着に言うと、晴琉は眉をひそめて首を左右に振った。
「俺は政略結婚なんかしない。親父の言いなりな人生が嫌で、医大も辞めて経営の勉強して事業を始めたって言うのに、一番大事な結婚相手を決める権利を親父なんかに渡してたまるか!俺が命を懸けて愛せるような女と結婚するんだ」
「そんな女がいるのか?」
隼人が囃し立てると、晴琉はそれに対抗するようにニヤッと笑みを浮かべながら言った。
「佳純ぐらいの女なら俺の命を懸けても……」
「黙れ」
隼人が真顔で一抹の迷いもなく冷たく言葉を遮ると、晴琉は意味深長な眼差しで隼人に目を遣った。
「なんだ?シスコンかよ?お前それ病気だぞ」
「……うっせえ。俺が頼んでた件はどうなった?」
話題を変えながら隼人が聞くと、晴琉は「あっ」と声を漏らし、頼んでいた酒をバーテンダーから受け取りながら答えた。
「実はあの施設の院長がさ、うちの親父の大学の後輩だったんだ。おかげで色々調べやすかったよ。まずお前が頼んだ女の患者の記録を確認したら、不眠症と鬱病の症状がかなり深刻だった。長いこと薬物療法と心理療法を並行してたけど効果が無かったくらいらしい。言い換えると、鬱病のせいで自殺する可能性もあると言えるくらい最悪の状態とでも言うか」
晴琉の言葉に隼人は急激に顔を曇らせた。
「介護していた穂乃恵という人は……?」
「森佳子が死んで間もなくして、田舎に帰ると言ってすぐに荷物をまとめて出て行ったらしい。それ以来連絡もつかないんだと」
「亡くなる前日の防犯カメラは確認したか?」
「あ、そうそう、それを見てお前に聞きたいことがあったんだ……森佳子っていう女の人とお前の母さん、知り合いなのか?」
晴琉の問いに隼人は驚き、晴琉に視線を移した。
「どういう意味だ?」
「亡くなる前日にお前の母さんがその人のお見舞いに来てたみたいだぞ。知らなかったのか?」
「なんだって?」
晴琉の言葉に隼人の瞳孔が激しく震えた。
「お前の目で見たのか?」
「おう、防犯カメラのコピーを送ってもらって、昨日見たんだ。そういえばお前にやろうと思って持ってきたのに車に置いてきちまったな。帰りにやるよ」
晴琉の言葉に隼人は不安を隠せないままグラスに残った酒を一気に流し込んだ。
前の日に誰かが訪ねてきたんだけど……初めて見る顔で。
森佳子が死んでから急変した佳純の行動と穂乃恵の言葉が気掛かりで、何か手がかりになればと思い調べてみたものの、予想外の状況に隼人は戸惑いを隠せなかった。
森佳子の死に自分の母親が関わっている?一瞬おぞましい考えが頭をよぎり、彼の手は震えが止まらなかった。
「もう酔ったのか?どうした?浮かない顔して」
真っ赤になった隼人の顔を心配しながら見ていた晴琉は、遠くから歩いてくる一人の男に気づくと一気に顔をしかめた。
「……あいつがなんでここに居るんだよ?」
混乱したまま考え込んでいた隼人は、晴琉の声を聞き、突然現れた男に視線を移した。
「久しぶりだな、晴琉?こんなところで偶然会えるなんて、元気にしてたか?」
すっきりとしたスーツ姿の男が酒に酔って皮肉な態度で声をかけてきた。すると途端に、いつも朗らかな晴琉の顔が一変して冷たくなった。
「俺たちこうして挨拶するような仲だったっけ?変な仲良しごっこはやめて、とっとと通り過ぎてくれ」
「そんな水臭いこと言うなよ。俺はお前に会えてうれしいだけなのによ。あ、こちらはお友達か?」
隼人にちらっと目を配りながら男が聞くと、晴琉は隼人の肩に手を回した。
「ここではこれ以上飲めそうにないな。もう出よう」
「いくらなんでも挨拶ぐらいして良いだろう。お前の友達は俺の友達みたいなもんだろ?」
「は?こんな奴が……」
「おい、晴琉」
苛立った声で叫ぼうとする晴琉を隼人が止める姿に、男は吹き出すように笑いながら財布から名刺を一枚取り出した。
「東明グループの池田勝仁(いけだかつひと) と申します」
男から名刺を差し出された隼人は東明グループという名前に眉をひそめた。
“東明グループの次男だが、なかなか良い青年だったな”
いつだか一樹が佳純と縁談があった家門の話を持ち出したのを思い出し、隼人の顔に不快感があらわとなった。
「名詞はお持ちではないですか?」
黙って勝仁の名刺を凝視していた隼人は、無視しろと引き留める晴琉の言葉をよそに財布から名刺を取り出し、差し出した。
「柳原隼人です」
隼人の名前を聞いた勝仁の表情が一瞬にして妙に変わった。
「紅海グループの柳原隼人専務でらっしゃったとは。こんな偶然もあるものですね」
「……」
「家門同士で縁談もあったかと思うのですが、そちらの腹違いの妹さんと私で」
やたらと「腹違い」という単語を強調する勝仁を見る隼人の目つきが鋭気を帯びた。今にも爆発しそうなほどに冷たく冷え切った彼の表情から危険を察知した晴琉が慌てて隼人の腕を掴んだ。
「こんな奴相手にしなくていいよ。もう行こう」
「柳原専務、もしかしてご存じですか?この縁談が破談になった理由を」
晴琉に連れられて外へと向かっていた隼人は、勝仁の声にゆっくりと向きを変え彼を凝視した。
「天下の紅海グループ様も蓋を開けてみれば機能不全家族であることは、この業界では知らない人がいませんよね?愛人がいる能力者の会長に、若い男たちのスポンサーで多忙なご夫人、ましてや愛人が産んだ隠し子まで?いや~、昼ドラでもここまで酷いのは見たことがないのに、何が悲しくて私たちがそんな家と姻戚にならなきゃいけないんですか?そうでしょう?」
「おい!勝仁!」
「なんだよ?友達に女を奪われた分際で偉そうにしてないで、お前もそろそろしっかりしろよな。紗英と別れる時もひどくめそめそと大騒ぎして、お前のことちょっとからかってやろうとしたら危うく巻き込まれるところだったぜ、最悪だよ」
皮肉を言って笑う勝仁を睨みつけていた晴琉が、もう我慢できないと言わんばかりにグッと勝仁との距離を詰めた。そして一発殴るつもりで拳を握った時だった。晴琉は自分よりも先にそいつの胸ぐらを掴む隼人を見て、動きを止めるしかなかった。
* * *
口で食べているのか鼻で食べているのかも分からないくらい、うわの空で夕食を済ませた佳純は、「お茶でもしよう」という一樹の一言で部屋に戻ろうとした足を止め、リビングのソファーに腰を下ろした。
やっと一息つけるかと思ったところで立て続けにお茶の席が開かれ、佳純は胃もたれのような胸の苦しさを感じた。
「休みの間はどう過ごすつもりかね?」
ティーカップを手に目を伏せていた佳純は、一樹の問いに少し躊躇いながらも口を開いた。
「シナリオの勉強をしようと思っています」
「シナリオ?作家のことか?」
「はい……」
気に食わない顔で聞き返す一樹の反応に佳純は少し気弱になり短く答えた。
「作家か……」
しばらく何か考えていた一樹が恵子に視線を移した。
「お前の知り合いにも何人か作家がいたよな?佳純の役に立つような人がいたら紹介してあげたらどうだ?」
背筋を伸ばして優雅にお茶を飲んでいた恵子は、一樹の一言に佳純を横目で睨みながら答えた。
「この子のレベルに合うような人がいたかしら」
「お前な!」
「大丈夫です、お父さん。実は私、有名な作家の方とお仕事できるかもしれないんです」
一樹を宥めつつ発せられた佳純の一言に、恵子の目元が吊り上がった。有名な作家?恵子はティーカップをテーブルに置きながら尋ねた。
「誰のことかしら?」
「レニーです」
佳純の答えに恵子の顔が一気に歪んだ。レニーだって?彼女の頭の中に嫌な考えがどんどん浮かび上がってきた。
「レニーなら、いま隼人が推進している映画の原作を描いた小説家じゃないか」
「え……?」
佳純が怪訝な顔をすると、一樹は眉間の皴を寄せながら尋ねた。
「隼人が紹介したのか?」
佳純は両目を見開いて首を振った。
「いえ、違います」
隼人が推進している映画?メビウスの帯の制作を隼人がやっているとは考えもしなかった佳純の顔に困惑が広がった。
「だったらあなたがどうやってレニーと知り合って仕事をすることになったっていうの?」
恵子の鋭い問いに、佳純は努めて冷静に落ち着いて答えた。
「友達の親戚の方がレニーとお知り合いで、紹介してくださって……」
「友達の親戚?あなた、そんなことがあり得るとでも思ってるの?」
呆れた恵子が鼻であしらうと、佳純は冷めた表情で唇だけを動かし言い返した。
「どうしてあり得ないと仰るのですか?」
「なに?」
はっきりと自身を睨みつけ鋭く問い返す佳純の姿に、恵子の表情が一瞬にして冷たく豹変した。
「あなた今なんて……」
「やめなさい。子ども相手にムキになるんじゃない」
一樹が毅然とした声で言葉を遮ると、恵子は両目を剝いて彼へ視線を移した。何とか我慢していた怒りが一気に込み上げるように彼女の目に痙攣が起こった。
「疲れただろう。そろそろ部屋に戻って休みなさい。この話はまた今度にしよう」
冷たく冷え切った空気を察した一樹が佳純に促した。佳純はすぐさま席を立ち、二人に小さく黙礼した。
「では、お先に失礼します」
「あ、あと、近いうちに隼人の政略結婚の件で瀬川グループの会長夫妻と夕食の席を設けるから、しばらくの間週末は空けておくように」
一樹の一言に佳純の瞳が大きく揺らいだ。隼人の政略結婚が現実となる日が近いことを悟り、表情管理ができないほどに動揺していた。
「はい……お父さん」
なんとか冷静に返事をした佳純は、振り返りもせず2階へと階段を上った。
まだ胃もたれしてるせいかな?と胸をなでおろした佳純は、ポケットの中で振動する携帯を取り出した。
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