第38話



38.





「なに…?」


頭の中がぼうっとしてしまった佳純は、信じられないという視線で聞き返した。ためらうことなく佳純に一歩近づいた隼人が戸惑う彼女の顔を両手で掴むと目を合わせた。

「本気なんだ」


低い隼人の声が佳純の耳元に広がった。


「だから俺に自分を見失わせないでくれ」


「……」


「俺から離れようとしないで欲しい」


落ち着いた隼人の口調に佳純は何も答えられず、ただぼんやりと彼を見つめた。真剣な眼差し。初めて見る隼人の真心の前で、佳純は息が止まったように焦点の合わない目で微動だにせず彼を見つめた。


「ちょっと通りますよ」


2人の間に重苦しい静寂が流れた。横を通り過ぎる人々の視線に、ようやく自分たちが道を塞いでいることに気づいた佳純が、真っ赤になった顔で素早くその場をどいた。


隼人から遠ざかった佳純はやっと我に返ると、我慢していた息を一気に吐き出した。


「このことは聞かなかったことにする」


近づく隼人の姿にも、佳純はためらうことなく続けた。


「勘違いしないで。もしもなんてことはないのよ。お兄ちゃんと私がお父さんの子である以上…」


きっぱりと最後の言葉を吐き出した佳純は、ためらうことなくそのまま振り向くと歩いて言った。隼人は佳純の後ろ姿をしばらくの間見つめていたが、彼女が視界から消えるとゆっくりと引き返した。あっという間に押し寄せる感情の余韻を振り払う前に、車のキーを取り出そうとポケットに手を入れた隼人はライターの感触を感じ、取り出した。


また…。最初からやり直せばいい。


永遠に自分を締め付けている過去のしがらみ。しばらくライターを手にして触っていた隼人は、隣にあったゴミ箱に未練なくライターを捨てた。




* * *




家の近くのカフェ。


1日ですっかり老けてしまったように、骨の節々がうずいた。いつもなら、しっかり回っていた頭が、動かなくなってしまった車のように全く働かず、ため息が出た。玄暉はやっていた作業を止めて、そのまま病気にかかってしまったようにテーブルの上に突っ伏した。



[試験が終わったらすぐに家の前に行くね]



携帯電話に表示された佳純のメッセージを何度も確認した玄暉の口元に小さな笑みが広がった。出版社に行くために家の前で佳純と会うことを約束した玄暉は、彼女に会うことを考えるだけでワクワクしているのか、顔が上気していた。


「仕事もしないでサボってんのか?」


佳純のことにすっかり気を取られていたところ、ふと聞こえてきた聞き慣れた声に玄暉はいぶかしい目をして振り向いた。彼の視線の先には満がぽつんと立っていた。


「どうしてお前がここに?」


玄暉の質問に、満が自然と向かいに座ると答えた。


「時給1,000円のバイトしに」


「突然何を言い出すんだ?」


玄暉が首をかしげながら聞くと、満がニヤリと笑いながら肩をすくめた。


「さっき用事があって出版社の近くに行ったら、おばさんに会ってさ。突然問題があって出張に行かないといけなくなったって。明後日には戻ってくるけど、それまでお前がちゃんと仕事してるか監視して報告したらバイト代弾んでくれるって言うからさ」


「……。だから僕を見張りにきたってわけか?」


「まあ、それもあるし…。ちょっと別の問題もあって…」


満が鼻先を掻きながら意味深に言いよどんだ。そんな満を気に食わない様子で見つめていた玄暉は、すぐにカフェに入ってくる花恋を見つけると、顔をしかめた。


「出版社まで出向いて、お前のこと捜してたんだ。おばさんが凄く嫌がって、お前の所に連れて行けって」


「おい。適当にはぐらかしてくれたら…」


「どうして電話に出ないの?」


いつの間にか近づいてきて鋭く尋ねる花恋を見上げた玄暉の口から深いため息が漏れた。


「お前の名前が表示されるから」


花恋からの電話だから出なかったという玄暉の答えに、花恋は眉をひそめた。いっそう怒ってくれれば反撃して会話も続けられるのに、無愛想に答えてそのままパソコンに視線を移した玄暉の姿に、花恋は言葉を失った。


「おっと。俺行かなきゃ。萌のリハビリが終わる時間だから」


2人の顔色を伺いながら満がぎこちない笑みを浮かべて立ち上がると、玄暉が素早く手首を掴むと目を見開いた。


「バイトするんだろ。どこ行くんだよ?」


「萌を1人で家に帰すわけにはいかないだろ?」


「まだ終わる時間じゃないのはわかってる」


玄暉がこのまま行けば、ただではおかないとでもいうように奥歯を噛みしめて低い声で言うと、満が困った顔でちらりと花恋を見た。いつの間にかサングラスまで取った花恋が早く行けというような視線を向けていた。


この前タクシーに乗せて帰したことにかこつけて、この場から去って欲しいという彼女の頼みを断ることはできなかった。結局、満は玄暉の手を無理やり引き離すと後ずさりした。


「今日は医者との面談もあるから…。ごめん!あとで家でな!」


「おい!満!」


後ろも振り返らず外に出て行く満を追いかけようとした玄暉は、視界から満が消えると、再びそのまま元の席に座った。


「いいかげんにしてよ。まるで私があんたを取って食べようとしてるように見えるじゃない」


いつの間にか向かいに座っていた花恋が目をつり上げて愚痴をこぼした。それでも玄暉は花恋に視線を向けずにパソコンのキーボードをひっきりなしに叩いた。


「僕は今忙しいから、話があるなら後で電話してくれ」


冷たい玄暉のひと言に気分を害した花恋が答えようとしたが、すぐに言葉を飲み込んだ。今日だけは言い争うことなく、ちゃんと話をしようと心に決めていた。花恋は湧き上がる感情を懸命にこらえて話し出した。


「それじゃあ、仕事が終わるまで待ってるわ」


「お前だって仕事忙しいだろ?無駄に時間を使ってないで…」


「作品が1つ終わったから、時間ならあるの。だから気にせず仕事を続けて」


花恋は答えるやいなや腕組みをしてゆったりと椅子にもたれた。玄暉は呆れたような表情で首を横に振った。とにかく、自分の好き勝手に行動するのには長けている。


どうせ自分が無理やり背中を押しても瞬きすらしないことを知っている玄暉は、もめたくないという気持ちで花恋の視線を受けながら仕事に集中した。玄暉をじっと見つめていた花恋の表情が微妙に変わった。


酷いヤツ…


花恋の目に寂しさと失望がそのまま映った。少なくとも先に話をしようかと思ったが、変わらない彼の冷たい態度に胸の片隅がしみるのを感じた。


「藤川花恋じゃない?」


「さぁ…。そんな気もするけど」


「近くに行って見てみろよ」


少しずつ集まってくる視線に花恋はサングラスを素早くかけた。いつもなら人の大勢いるカフェのような場所には来ることもないし、なによりも皆の視線を無視して彼の隣に座っていなかっただろう。


しかし、不思議なことにドキドキする気持ちで、この全てのことに耐えることができた。無関心に話す玄暉の声も、仕事に集中しながら少し眉間にしわを寄せているハンサムな顔も、頭がどうにかしてしまったかと思うほど花恋をときめかせた。


「もう、じっと見るのはやめてくれ。すごく気が重い」


玄暉のひと言に花恋がぎこちない表情で視線をそむけた。見過ぎたかな?訳もなく恥ずかしくなった花恋は顔を下に向けて携帯電話を触った。ちらりと花恋を見た玄暉がため息をついて、席を立った。


「どこ行くのよ?」


慌てた花恋が急いで尋ねたが、玄暉は答えずそのままカウンターに向かっていった。そうして少しして、玄暉がコーヒーを花恋の前に置いた。


「クリームたっぷりのカフェモカ。お前が好きなやつだろ?」


花恋が面食らった顔で見つめると、玄暉が元の位置に座って話を続けた。


「何も注文せずに座ってるのは迷惑だろ。それ飲んだら帰れ」


無頓着に話した玄暉はパソコンに視線をうつし、再び仕事に集中した。その姿を見つめていた花恋の口から虚しい声が漏れた。


意地悪するならちゃんと意地悪して欲しい。拷問のように希望を少し与えるような行動をする玄暉が一方では憎たらしく思いながら、ますます好きになっていく感情を隠すことができなくなった。


「終わるまで待てないと思う」


花恋が決心でもしたかのような表情で、はっきりとした声で話した。パソコンに視線を釘付けにしていた玄暉がいぶかしげな表情で花恋を見つめた。


「突然なんなんだ?」


「これを言いに来たの」


花恋は唾をゴクリと飲み込んだ。


「もう気づいてると思うけど、初めて会ったときから、す…」


ブー。


決心した言葉を吐き出そうとしたその瞬間、テーブルに置かれた玄暉の携帯の振動音に花恋は言葉を止めた。どうしてよりによってこのタイミングで電話が来るのかと恨めしそうな表情をした花恋とは違い、携帯の液晶画面を確認した玄暉は顔に満面の笑みを浮かべて電話に出た。


「もしもし、佳純ちゃん」


佳純?聞き覚えのある名前に花恋が片方の眉をつり上げた。


「今向かってるって?そう?僕は家の近くのカフェにいるんだ。うん。そこを真っ直ぐ来たら看板が見えると思う。とりあえず、外に出るね。うん。わかった」


終始ニコニコした顔で電話を終えた玄暉は、素早く荷物をまとめると、ふと感じた花恋の視線に彼女を振り返った。


「じゃあ、それ飲んだら帰るんだぞ。僕は約束があるから先に行く」


冷たく表情が変わった花恋を置いて、玄暉はパソコンもカバンに入れると急いで外に向かった。


学校の方へ顔を向けた玄暉の視界に、周りをキョロキョロと見回しながらやってくる佳純が見えた。うれしさから一息に佳純に向かおうとした玄暉は、ふと自分の手首を掴む手に後ろを振り返った。


「私の話を聞いてから行って」


真剣な花恋の姿にも構わず、佳純に気を取られていた玄暉は手首を掴んでいる花恋の手を振り払い、無関心に言い放った。


「約束があるって行っただろ。話があるなら電話して」


「電話で話す事じゃな…」


「ごめん。僕はもう行かなきゃ」


花恋の言葉にもかかわらず、いつの間にか近づいてきた佳純のほうへ玄暉はためらわずに走っていった。


花恋を冷たく置いてきたのは内心、気になったが、佳純に向き合った瞬間その事実も忘れてしまった。


「試験お疲れ。全部終わったんだよね?」


玄暉が優しく聞くと、佳純が小さく微笑みながらうなずいた。


「うん。ところで花恋さんと何か大切な話でもしてたんじゃないの?」


花恋と玄暉が話しているのを遠くから見ていた佳純が慎重に聞いた。玄暉は素早く首を振った。


「ううん。偶然会って挨拶してただけだよ」


「あ、そうなんだ」


「とりあえず車に乗って。向かいながら話そう」


玄暉の言葉に花恋から視線を受けながら、佳純はカフェの前に止まっている玄暉の車に乗り込んだ。


「お腹すいてない?おいしい物食べに行かない?」


玄暉の質問に佳純がいぶかしげに彼を振り返った。


「出版社には行かないの?」


「あっ。今日は叔母さんが急な出張で、明後日にならないと戻ってこないんだ。ごめんね。伝えるの忘れてた」


実は佳純と会いたい気持ちで、連絡をしていなかった玄暉はぎこちなく笑うと、話題を変えた。


「その代わり、おいしい物おごるよ」


玄暉が車を出発させながら言うと、しばらく迷っていた佳純がゆっくりと口を開いた。


「どうしよう。私、しばらくは夕飯を家で食べないといけなくて」


「そうなの?誰か家に来てるの?」


玄暉の質問に佳純が首を振りながら答えた。


「ううん。私、父の家に戻ったのよ…」


「お父さんの家…?」


「うん。実家に戻ったの。それから父がしばらくは夕食を家族で一緒に食べようって…。悪いけど夕食はまた今度にしましょう」


実家に戻ったという佳純の言葉を聞くなり、玄暉の顔が暗くなった。実家に戻ったということは隼人と一緒に住んでいるということで、その事実が玄暉の気持ちを不快にさせた。


「玄暉くん?」


急に黙り込んだので、佳純が目を丸くして玄暉を呼んだ。


「あっ、うん?」


「何をそんなに考えてるの?運転中でしょ」


佳純が首をかしげながら尋ねると、やっと我に返った玄暉が急いで答えた。


「いや、べつに。あっ。じゃあ、家まで送っていくよ」


「大丈夫。ここから地下鉄に乗れば、すぐだから」


「僕が送っていきたいんだ。住所教えて。ナビに入れるから」


玄暉が聞くと、佳純は申し訳ない様子がはっきりとわかる顔で、手を振った。


「本当に大丈夫だから」


「僕が君と少しでも一緒にいたいから。君のためじゃなくて僕のためにしてるんだから、心配しないで、住所教えてよ」


催促する玄暉の目つきにしばらくためらっていた佳純は、最後にゆっくりと口を開いた。


「○○区○○番地」


「オーケー」


明るく答えた玄暉は、佳純の言った住所をカーナビに入力した。まもなく家の前に到着した。閑静な街。雄大な邸宅をちらりと眺めた玄暉は、改めて佳純が裕福な家の娘であることに気づいた。


「ありがとう。送ってくれて」


いつの間にかシートベルトを外した佳純が玄暉を振り返り言った。いつも助けてもらってばかりのようで、申し訳ない気持ちになった。次はランチでも一緒に食べようと誘おうとした佳純は、何か言いたげな玄暉の表情に首をかしげて尋ねた。


「何か話があるの?」

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