第40話

40.



「もしもし」


―佳純?


見知らぬ男の声に着信番号を確認した佳純は不審に思いながらも答えた。


「そうですが、どちら様ですか?」


―晴琉だよ。夜遅くにごめんね


晴琉から電話?部屋に入った佳純は何事かと思い、すぐに返事をした。


「大丈夫です。何かあったんですか?」


―あぁ、実は今隼人がちょっと……もし良ければ来てもらえないかなと思って


「えっ?」


隼人に何かあったとの言葉に佳純の顔から血の気が引いた。


―そこまで大したことじゃないから、あまり心配しないで。一人で来れそう?


慎重に言葉を選ぶ晴琉の声に、佳純は慌ててカーディガンを手に取り迷わず答えた。


「はい、すぐ行きます。どこにいますか?」



* * *



「来たか、佳純」


戸惑いを隠せないまま足を踏み入れる佳純を、晴琉は笑顔で迎えた。生まれて初めて警察署の前に来いとの連絡を受けた佳純は、ありとあらゆる想像をして体の震えが止まらなかった。


ところが彼らが警察署ではなく、警察署の前にある飲み屋にいる姿を見て、虚脱と安堵で大きな溜息をついた。


「お兄ちゃんは?」


個室の中に隼人の姿がなく、慌てて尋ねた。すると晴琉は佳純を落ち着かせるように立ち上がり、水を一杯差し出した。


「とりあえず座って、これでも飲んで」


佳純は晴琉から水を受け取り、彼と向かい合うように座った。そうしてやっと、隼人のものらしき上着が椅子にかかっているのが見えた。


「隼人はちょっとトイレ。すぐ戻ってくると思うよ」


「どういうことですか?お兄ちゃんに何があったんですか……」


「あぁ、そんなに大したことじゃなくて、えっと……無事に解決したよ。変に心配かけちゃってごめんね」


晴琉がぎこちない笑みを浮かべながら、目の前の酒をわざとらしく口に運んだ。いざ佳純を前にすると、今日のことは誰にも言うなとの隼人の警告を忘れてうっかり話してしまうところだった。ほんの1,2時間前の出来事が彼の頭の中でリプレイされた。



「もう一回口を開いてみろ。その時はお前の口をこうやって踏み潰してやる」


隼人は勝仁の胸ぐらをつかんだまま、テーブルに置かれた酒をそいつの頭にぶっかけ、グラスを床に叩きつけて踏みにじった。


隣で見ていた晴琉ですら何も言えず固唾を飲んでしまうほどに殺気立った隼人の眼は、瞬く間にバー全体を緊張感で包み込んだ。彼の威勢に押されしばらく動けなかった勝仁は、真っ赤に染まり上がった顔で隼人に「覚えてろよ」と言い残し、慌てて逃げて行った。


その後、勝仁が隼人に脅迫されたと警察に通報し、彼らは警察署に連行された。ところがあっけなくも途中で勝仁が行方をくらましたのでお咎めなしに事は済み、飲み直そうとの晴琉の提案で近くの飲み屋に入ったのだった。



「馬鹿な野郎だ」


晴琉は勝仁を思い出しながら顔をしかめた。とにかく生まれながらにクズな奴だった。表向きは誰よりも堅実な青年のふりをしているが、中身は骨の髄まで真っ黒で低俗なうえ、醜悪極まりない男だった。


警察署で自分たちに痛い目を見せるためにこっそり逃げ出したことを思うと怒りが再熱した。晴琉は硬い面持ちで酒を一気に飲み干した。


「何があったのか話してもらえませんか?」


「えっと、それが……隼人のやつかなり酔ってて、一人で帰らせるのが心配で呼んだんだ。ってあいつ、なんでこんな遅いんだ?」


晴琉はなんとか取り繕ってそそくさと携帯を取り出した。その時、隼人が個室のドアを開けて戻ってきた。晴琉は不自然な態度で隼人に声をかけた。


「おう、大丈夫か?佳純来てるぞ」


晴琉の言葉に隼人は驚いた様子で佳純を見た。まさか本当に呼ぶとは思っていなかった隼人は、上着を手に帰ろうとする晴琉を睨みつけた。


「晴琉……お前本当に呼んだのかよ」


低く沈んだ隼人の声にギクッとした晴琉は、バネが弾けるように立ち上がった。


「あはは、佳純、じゃああとはよろしくね」


「おい、お前!」


晴琉は今にも爆発しそうな隼人に擦り寄って、穏やかな笑みを浮かべながら肩に手を回した。


「俺、朝一で会議があるって言ったろ?社員たちの模範であるべき社長の俺が、一睡もせずみすぼらしい姿で会議に参加するわけにはいかないよなあ?」


「それがこの状況と何の関係があるんだ?」


「関係大アリだろ!お前さっき今日は俺ん家で寝ていいか聞いただろ?」


「なに?」


「知らなかったか?俺は男と同じ部屋で寝ると全身に蕁麻疹が出る病気なんだ。だから大人しく家に帰れ。今日はもう充分に色んなお前を見せてもらったよ」


晴琉が家出少年をなだめるように冗談交じりで言うと、隼人は不満な顔で晴琉の手を振り払った。


一体何のつもりなのか状況が理解できていない隼人とは裏腹に、晴琉は最後まで余裕に満ちていた。


「じゃあ佳純、また会おうね」


「あっ、はい……お気を付けて」


佳純が席を立ち挨拶すると、晴琉は満足げに頷いた。


「じゃあな」


「お前、なんで佳純を呼んだんだ?」


「確認したかったんだ」


「……」


「お前の顔見てたら確信したよ。お前は正真正銘のシスコンだ」


晴琉は横目で隼人を見ながらフッと笑った。


「じゃあ、先行くぞ。気をつけて帰れよ」


今にも冷たい一言を言ってきそうな隼人の目つきに飲まれる間もなく、晴琉は外に出て行った。


結局隼人と佳純の二人だけがとり残された部屋は、一瞬にして寂寞に包まれた。


「はぁ……俺たちも帰ろう」


疲労困憊の隼人がこめかみのツボを押しながら言うと、彼の様子を窺っていた佳純が待ってましたと言わんばかりにそそくさと立ち上がった。


「うん、帰ろう」



* * *


「お兄ちゃん先に行って」


タクシーを降りた佳純は、もし一緒に帰るところを一樹や恵子に見られたら誤解されてしまうのではと不安になった。隼人に先に入るよう促したが、彼はそんなつもりが無いのか門の前の壁に寄り掛かった。


「いいから、お前が先に行け」


酔いが回っているのかどこか辛そうな隼人を見ていた佳純は、心配した顔で慎重に距離を詰めた。


「お酒も結構飲んだみたいだし、いいから先に……」


「じゃあ、二人とも帰るのやめるか?」


予想だにしないタイミングで言葉を遮り隼人が聞くと、佳純はビクッとして一歩下がった。酒を飲んで少し虚ろな彼の目を見て妙な感情が込み上げた佳純は、いつの間にか頬を赤らめていた。


「それなら、私が先に行く」


少しでも早くここを離れなければと佳純が足を踏み出したその時だった。手首を掴み後ろから抱きしめる隼人に、佳純は目を見開き、息を止めることしかできなかった。


「少しだけ……このままでいさせて」


耳の奥まで響く彼の低い声に佳純の体は氷のように固まり、頭がぼーっとした。温かい彼の体温に包まれた自分の体が微かに震えているのを感じた。


隼人にバレないように目一杯体をすくめた佳純は、震える唇をやっとで開き、声を発した。


「離して。家の前よ……」


「お前は俺のこと、どう思ってるんだ?」


佳純は驚いて聞き返した。


「えっ?」


「お前は一度たりとも俺のこと、兄貴じゃなくて男として見たことはないのか?」

隼人は彼女を抱きしめる手に力を入れた。佳純は赤く染まった顔で戸惑いを隠せないまま、彼の手を


拒みながら言った。


「離してくれたら答える」


「先に答えろ。俺とお前が兄妹だから距離を置いてるのか、ただ俺が嫌いで敬遠してるのか。それとも他の理由があるのか……答えたら離す」


答えるまでは離さないという彼の言葉に佳純は困り果て、口をグッとつぐんだ。彼の吐息が耳にかかるたびに息が止まりそうなくらい心臓が激しく脈打ち、意識が朦朧とした。


「答えてみろ。本当に俺を兄貴じゃなく、男として意識したことが一度もないのか」


急き立てるような彼の問いにすぐに答えられずにいた佳純は、グッと目を閉じ、そして開きながら、覚悟を決めて答えた。


「兄妹だから、ダメ」


佳純の口から小さな声が続いた。


「お兄ちゃんと私は、兄妹だから……だからダメなの」


きっぱりとした答えを聞いて、隼人は待っていたかのように、徐々に佳純を胸に抱く腕の力を抜いた。温かい体温が少しずつ離れてやっと、堪えていた息を吐いた佳純は、赤いままの顔でゆっくりと隼人のほうを見た。さっきとは違い、はっきりとした彼の黒い瞳が佳純だけを捉えていた。

「それが理由なら、わかった」



短い一言を呟き、隼人は佳純にグッと近づき、彼女と目を合わせて続けた。


「それが問題なら、俺が解決すればいいだけだ」


「……えっ?」


訳が分からない佳純が首を傾げると、隼人は一層楽になった顔で彼女の頭を撫でた。


「お前の答えが聞けて満足だ。もう家に入れ。俺は少ししてから帰る」


早く帰るよう背中まで押してくる隼人の行動に、佳純は躊躇いながら彼に振り返った。一体何を考えているのか聞きたかったが、突拍子もない答えが返ってくるのが心配で、黙って向きを変えるしかなかった。彼女の心臓は依然として強く脈打っていた。



* * *



「8番出口を出てすぐのところに泰丸ビルがあるんだけど、そこの前で4時に会おう」


隼人とのことがあってからずっと複雑な心境で、家からあまり出なかった佳純は、出版社に一緒に行こうという玄暉からの連絡を受けて久しぶりに外に出た。いつの間にか秋が終わり、冬が来たのかと思うほど風が冷たかった。


佳純は肩をすくめて駅前の泰丸ビルの前で足を止め、辺りを見渡した。まだ着いていないのか、玄暉の姿はなかった。佳純は携帯を取り出した。


約束の時間より1時間ほど早い時間だった。早く来すぎたかな?と思い、時間を潰せる場所を探していた佳純は、隣にカフェがあるのを見つけ、そこへ向かった。


席がほとんど埋まっていて、少し戸惑い外から中の様子を窺っていた時だった。ドアを開けて出てくる女性を見て、佳純は両目を見開いた。


藤井花恋?マネージャーらしき男性と一緒にコーヒーを持って出てくる彼女に佳純は駆け寄り、ぎこちなく微笑みながら挨拶した。


「こんにちは」


佳純の声に花恋は足を止め、振り返った。


「あっ……最近よく会うわね。ここには何の用で?」


首を傾げて尋ねる花恋に、佳純は笑みを含んで答えた。


「近くで約束があって」


「約束?もしかして、玄暉に会うの?」


聞くや否や豹変した花恋の態度に、佳純は戸惑いながら小さく頷いた。


「はい、そうです」


佳純の答えを聞くと花恋の表情がガラッと急変した。さっきまで何度電話しても無視していたのは、結局この女に会うためだったのだ。


花恋は喉元まで込み上げた熱い感情を押し殺し、下唇をぎゅっと噛んだ。怒りと嫉妬で表情管理が上手くできなかった。


「二人でデートか何か?」


あからさまに敵対視している花恋を怪訝に思いながら、佳純は首を左右に振った。


「いいえ、仕事のことで」


「そう?私も玄暉に話があるんだけど……もし良かったら一緒に会っても良いかしら?」


花恋の突然の提案にすぐ答えられずにいた佳純をよそに、花恋は先手を打ってマネージャーに言った。


「マネージャー、ちょっと車で待ってて」


「えっ?お前この後スケジュール……」


「遅れないようにいくから心配しないで、ちょっと待ってて」


どうせ止めても聞かないことは分かりきっているマネージャーは、躊躇いながらもため息をついて去って行った。


「どこで待ち合わせ?カフェ?」


相手の意見などそもそも気にしていないような強引で図々しい花恋の態度に、佳純は困った顔で遠慮がちに口を開いた。


「いえ、でもあの、今日は大事な用で行くところがあって、すみません……」


「どこに行くの?」


言葉を遮って問う花恋を佳純は黙って見つめた。ひたすら自己中心的でストレートな彼女の話し方は、佳純の言葉を詰まらせた。


このままでは彼女の思い通りになってしまいそうな不吉な予感がしたので、ひとまずこの場を離れようと思った佳純はわざとらしく携帯に目を遣った。


「そろそろ行かないと。お会いできて嬉しかったです。それでは、また」


慌ててその場を後にする佳純を、花恋は迷わず追いかけた。そして彼女が向かう先に見えるビルを見て言った。


「もしかして、ライム出版社に行くの?」

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