第12話

12.

 

 

これ以上は食べる前に、ムカついてしまうと感じた玄暉は催促するように彼女に訪ねた。


「先方から連絡が来たの。脚色もあなたが直接して欲しいって」


「冗談でしょ?今だって十分奴隷みたいにこき使ってるじゃないですか」


玄暉はしかめっ面をして声をあげたが、編集長は気にも留めないで口を開いた。


「新しく設立された制作会社だからか、気に入った作家を探すのが難しいみたい。だから…」


「そんなことがあり得ると思ってます?この国には実力のある作家がどれだけいるか」


「…でもあなたにとって思い入れのある作品だからもっと…」


「嫌です」


玄暉がきっぱりと断ると、編集長は深くため息をついた。あの頑固者。


「予想はしてたわ」


「じゃあ、最初からこんな話を持ち出す必要なんてなかったじゃないですか」


「2倍の額を投資してくれるって」


編集長は肩をすくめた。


「分かってるでしょ?この業界では僕は新米同然なんだ」


「……」


「それでも、あなたの作品だけを信じて20億投資してくれるのよ。あなたの小説を原作にした映画に」


編集長は腕組みをして玄暉を見つめた。おとなしく編集長の話を聞いていた玄暉がテーブルの上に置かれた水をがぶがぶと飲み干した。そうよ、ちょっと驚いてる。彼女は胸の内で会心の笑みを浮かべた。


「だから?」


予想とは違う彼の反応に編集長は当惑して聞き返した。


「えっ?」


玄暉は淡々とした表情で答えた。


「20億が僕の通帳に入ってくるわけでもないのに、どうしてそんな大げさに話すんですか」


「ちょっと。よく分かってないようだけど…」


「ということは叔母さんは、僕の小説にそれだけの価値がないと思ってたんですか?」


あ、そうですか。編集長が目を細めた。


「とにかく先方の希望だから…」


「なかったことにしましょう」


玄暉が彼女の視線を避けながら、言葉を吐き出したが、編集長は冷たい目を輝かせながら自分の首を引くジェスチャーをした。


「死にたいならお好きに」


「ノアール映画の見過ぎです。」


「冗談だと思うの?」


編集長が頭をもたげて尋ねると、玄暉は首を横に振った。口げんかで勝つには何日かかるかわからない。彼はこれ以上口答えする気力もないのか、いつの間にか運ばれてきた料理を口に運んだ。


自分の作品だけは一生本のままだけを残すと誓っていたが、既に三度もその誓いを破った。それも悪徳な編集長の懐柔に騙されてだ。今回だけはどうにかして避けたかったが、シナリオ制作まで抱え込むことになったので、もどかしさに自ずとため息が出た。


「やるわよね?」


「考えてみます」


「必要ならアシスタントの作家も付けてくれるって。いい話じゃない?」


もう一言でも言おうものなら、ただではおかないというように、炎のような目つきで見つめている編集長の姿に玄暉は唇を噛んだ。このところどうして気に入らないことばかり起こるのだろう。お祓いにでも行きたいぐらいだった。


「その代わり契約書を作り直してください」


「え?」


サラダをかき回していた編集長が彼に向き合って問い返した。玄暉は彼女に対抗するように目を見開いた。


「前みたいに計画外のインタビューを入れたり、舞台挨拶に無理やり引っ張って行こうとするとか、何よりも映画のエンディングクレジットに実名を載せるとか、馬鹿なことを考えるなら投資金の2倍払うことを追記してください」


「ええ?そんなことできるとでも…」


「あ!出版社の名前でも契約書を作ってくださいね。制作会社側に望む条件と全く同じ内容で」


過去にあった嫌な出来事を思い出したのか、玄暉はいつにもましてきっぱりと話した。酷いやつ。編集長は本音がバレたかとでもいうように唇をひねった。


玄暉がなぜそこまでレニーが自分だということを隠したいのか、誰よりもよく分かっていたが、過剰なほどの反応をする時には余計に心配になった。むしろ、ずば抜けた才能のせいで世間とかけ離れて暮らしているのではないか、という気持ちからだ。だから無理やりにでも外に連れ出したが、いつもよくない結果に終わった。


むしろ諦めなければならないのかという気持ちでため息をついた彼女は、テーブルの上に置かれた水の入ったグラスを触りながら話した。


「わかった。まずは先方に話してみる」


初めて彼女が肯定的に答えると、ついに玄暉は頷いた。表には出さなかったが、内心玄暉がやらないと大騒ぎするのではないかと気を揉んでいた編集長は、ようやくお腹が空いてきたのか食事に視線を移した。


「ところで、今回契約した会社の名前は何ですか?」


玄暉は突然気になり尋ねると、編集長は訝しげに眉をひそめながら答えた。


「契約書の写しを送ったでしょ」


「時間がなくて見てないです」


編集長は「そんなこと聞く時間があるなら見ればいいのに」と言いたくなるのをこらえて返事をした。


「A&T企画よ。覚えてるでしょ? 創立記念パーティーに行ったじゃない」


創立記念パーティー?玄暉の顔に暗い影が徐々に垂れ下がった。


「あの紅海グループが主催した…」


「ええ。新しい会社だからって、ほかの新しい会社とわ違うのよ。A&Tの社長は柳原隼人なのよ」


編集長は隼人のことを思い浮かべながら微笑んだ。一方、玄暉は歪んだ顔で確認するように尋ねた。


「誰ですって?」


「紅海グループ会長の息子、柳原隼人よ。忘れた?」


玄暉の表情はあっという間に硬直した。彼の脳裏に佳純と隼人の顔が浮かんだ。


「冗談でしょ?」


いつの間にか彼の唇は震え始めた。表情をコントロールすることができず、混乱した気持ちがそのまま顔に出てしまった。


「まさかそんな冗談言わないわよ」


「どうして先に言ってくれないんですか?」


「何を?」


何を言っているのか分からないというような目つきで質問する編集長の姿に、玄暉は深いため息をついた。悪材料が重なったことは明らかだ。星の数ほどある制作会社の中で、どうしてよりによってあそこなんだろう?


「やっぱり、この契約は僕の人生最大の間違いでした」


「私の人生最高のチャンスでもある」


サラダをもぐもぐ食べながら答える編集長を眺めながら、玄暉の頭の中に毒舌注意報が発令された。話すたびに付け加えられる彼女の言葉に、我慢の限界を感じていた。彼は感情を抑えて編集長に強い口調で言った。


「確かめたいことがあります」


編集長は不安げな表情で玄暉を見つめた。


「何?」


「今この瞬間から、制作会社であれ出版社であれ…」


「……」


「僕がレニーとして関係者に会うことは絶対ないようにしてください」



 

* * *

 



「専務、会長がお呼びです」


玲香はドキドキする心臓の音を殺しながら、椅子に体を投げかけている隼人にきちんと伝えた。細く長い指が机をトントンと叩いている姿さえセクシーに見え、いくら我慢しようとしても視線が彼に向かってしまう。


「会長がですか?」


隼人が怪訝な表情で尋ねると、玲香はにっこりと笑って答えた。


「はい。たった今、会長の秘書室から連絡がありました」


彼は目を細めた。会社では父親に個人的に呼ばれることはなかったからだ。公私をはっきりと分けて、会社の中ではすれ違っても目も合わせない人なのに、個人的な呼び出しとは…不吉な予感がした。


「わかりました。すぐに向かうと伝えてください」


「承知いたしました」


玲香が出て行くと、考えをまとめていた隼人は机の上に置かれた携帯電話をぼんやりと眺めた。もしかしてという思いから通話記録を見てみると、着信は何十件もあった。しかし、「佳純」という名前でかかってきた電話は1件もなかった。


この間、あんなにこみ上げていた怒りは消え去ったのか、それとも変質したのか、心配というヒリヒリとした感情だけが頭の中をクラクラさせていた。不届きな気持ちで電話をかけ、何か言ってやろうかとしたが、あの日の幼稚な嫉妬が鮮明に思い浮かび、電話をかけることができなかった。


初めて感じた感情。後悔という単語がこれほど恥辱的とは。隼人は考えを捨て去るように強く首を振った。

昼休みだろうか。


携帯の画面に浮かぶ時間を確認した隼人は、しばらくためらったが、結局、短縮番号1番を押した。画面に[佳純]という名前が映し出されると同時に、通話時間が1秒ずつ過ぎていくが、自動メッセージに繋がるまで彼女が電話に出ることはなかった。ふとよぎるあの日の佳純の眼差し。隼人は深いため息をついた。だらりと下がった腕が机の上を彷徨っていた。


「専務、すぐに向かわれませんと」


隼人を待ちきれず部屋に入ってきた玲香に分かったと告げると、携帯電話を自身の机の引き出しにしまった。

そうだ、仕事が終わったら行けばいいんだ。これ以上、深く考えたくなかった。やがて会長室の前に着いた隼人は慎重にノックをした。部屋の中から、聞き慣れた声が響く。


「入りなさい」


太い声に隼人は無表情な顔で会長室に入っていった。そうしてソファーに座っている柳田一樹を見つけると、軽く頭を下げた。


「座りなさい」


ソファーに座った隼人を見ながら、一樹は無愛想に話し始めた。


「今日は話があって呼んだんだ」


「はい。何でしょうか」


どうせ2人の間の会話と言えば、事業の話だけだ。隼人は会長室の中に立ちこめる緊張感に慣れているというように、曇りのない姿で一樹を見つめた。


「佳純のことだ」


隼人の目付きが変わった。佳純のこと?予想していなかったことに彼はピクリとした。


「分かっているだろうが、お前の母親のために佳純は独り暮らしをすることになったが、そろそろ家に連れ戻そうかと…。お前の意見を聞かせてくれ」


「突然どうして…?」


「東明グループから結婚話があってな」


隼人は眉をひそめた。


「それで?」


「東明グループの次男なんだが、なかなかいい青年でな。少し前に偶然会ったんだが…」


「父さん、佳純はまだ21歳ですよ」


隼人は机の下で拳を握りしめ、できるだけ平常心を保った。予想していなかった状況に混乱していた。


「私も今すぐ結婚させようとは思っていない」


隼人は平然とした父親の態度に片方の目をしかめた。父親の心中を察することができなかった。


「では佳純が独り暮らしをしていることが、結婚の障害になるから家に呼び戻す、そういうことですか?納得できません」


隼人が冷たく反応すると、一樹は疲れたようにこめかみを指でぐっと押した。


「過剰反応じゃないか。私はお前が佳純を妹として大切にしていると思っていたが、結局は腹違いの妹は家には入れたくない、そういうことか?」


隼人は喉の奥からこみ上げる熱い何かをかろうじて抑えると、ぼそっと答えた。


「一度もそのように思ったことはありません」


「では、なぜ反対するんだ?母親のことか?そのことなら私が説得するから心配しなくていい」


「母さんのことは関係ありません」


いまさら同じ家に佳純と一緒に住むなど、考えたくもなかった。結局、認めなくてはならないのだ…「俺たちは兄妹だ。だから、一つ屋根の下で同じ親の元で過ごす」ということを。


「佳純も望まないでしょう」


「あの子が望まなくても、連れ戻すつもりだ」


死ぬほど愛した女性の子どもだからなのか、隼人に対する態度とは全く違い、佳純にはひとしおの愛と関心を注いでいた。そのため恐ろしいほど父親には情がわかない。


「では、俺が家を出ます」


少々衝動的な言葉が、隼人の口をついて出た。一樹はいつもとは違う息子を見て、ゆっくりと話し始めた。


「お前らしくもない」


「…佳純も、俺や母さんと一緒に暮らしたくないはずです」


「そういう単純な問題じゃないだろう。話してみろ。そこまで反対する理由は何だ」


一樹が冷たく聞き返した。隼人の顔は凍り付いたように固まった。事実を知られれば、どうなってしまうか不安だった。いつも佳純に関することとなると、氷のように固くなった心に亀裂が入る。それはとても辛いことだった。


「気まずいんです。いまさら佳純と同じ家に住むのが…」


単純だ。本心だ。深い利害関係を考えて答えたことではない。どんな言い訳も、心にないことも言いたくなかっただけだ。今の状況が早く過ぎて欲しいと心から願っただけ。父親の決定が誰かのためだとは考えたくなかった。ただ自分がわがままな子どものように振る舞いたかっただけだ。本当に。


「では…。お前が出て行けばいいな?」


一樹の言葉に隼人の視線が冷めていった。


「お前がだ。先に結婚して外で暮らすのはどうかと言っているんだ」


「父さん」


「冗談を言ってるんじゃない。以前話していた瀬川グループの末娘。また会うと言うなら、佳純のことはもう少し考えてみよう」

 

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