第13話

13.

 

 

隼人の表情が奇妙に歪んだ。結局そういうことなのか?なかなか理解はできなかった一樹の言動に対する疑問が一瞬にして理解できた。初めから気乗りではなかったA&Tの事業を許してくれる条件で、瀬川グループとの見合い話を進めたこともそうだし、このまま結婚までさせるつもりのようだ。


個人の人生より会社の未来が重要だという、古くさい理由からだ。もちろんほかの理由もあるだろうと思おうとしたが、この状況を作った父親の行動をみると、十分理解できる。


重たく沈んだ隼人の視線が一樹に稲妻のように向けられた。


「お前が何を考えているか分かるが、そんな単純な理由で結婚話を持ち出しているんじゃない」


本当に恐ろしい人間だ。この人は。


「どうせ新しい事業を始めたことだし、男ならある程度の地位を掴んだら結婚するほうが…」


「わかりました」


隼人はこれ以上聞きたくないというように、父親の話を遮って答えた。空気さえ凍り付いてしまうような冷たい雰囲気。隼人は一樹の鋭い視線を受けながら話した。


「会ってみます。だからこの件はこれ以上持ち出さないでください」


いつも一樹が自分のことを煩わしく思っていることを隼人はよく分かっていた。それがどういう意味かを知った今、すぐにでも一樹のことを逆なでするようなことはしたくなかった。表には出さなかったが隼人は今後のためにもとりあえずは父親の言うとおりにすることにしたのだ。


「私のことを誤解しないでくれ」


隼人の確答に一樹は少し和らいだ表情で首筋を揉みながら話した。どうせ最初から決まっていた結末。隼人は平然と言い放った。


「きちんと…理解しました」



 

* * *

 



しばらく入り組んだ小道を進んでいた満が佳純を連れた行ったのは、看板も出ていない小さく古びた店だった。入口には「手打ちそば[里鈴1] [비콘2] 」と小さな表示があるだけだった。


まさかという気持ちで周りをキョロキョロと見回していた佳純を後に、満はためらうことなく店に入っていた。彼は店の主人と思われるおばあさんと挨拶を交わしていた。佳純は中に入ることができず、ドアの外に立って満の顔を伺っていた。


「入っておいでよ」


満はきしむドアを開けると、首を傾け佳純を招き入れた。彼女はおずおずと店の中に入った。テーブルは3つしかなく、客もおらず閑散としていた。佳純は慣れない雰囲気に萎縮しているのか、慎重に満の向かいに腰を下ろした。


座って5分と経たないうちに、歳を取った腰の曲がったおばあさんがそばを直接持ってきてくれた。その姿をじっと見ていた佳純は、座っている自分が何か悪いことをしているように感じて、もじもじとしていた。しかしそんな状況に慣れている様子の満は、明るい表情でそばをすすり始めた。


「そばは嫌い?」


満は笑いがこぼれそうになるのを我慢しながら尋ねた。やはり金持ちのお嬢様なのか。佳純がそばをすする姿がぎこちなく見えたのか、まるで初めて食べ物を食べるように見えた。


「ううん。好きだよ」


佳純は思ったよりおいしいそばに感心しながら本格的に食べ始めた。満は彼女を意味深な表情で見つめていた。高校時代は気にしていなかったので分からなかったが、今見てみるとこれまで出会った女性とは確かに違う雰囲気を持っていた。


落ち着いていて、言葉も慎むことができ、冗談を言えば真剣に受け止めるほど純粋だった。しかも傲慢ではなく、外向きの姿も地味で、彼女のことを詳しく知らなければ財閥の娘だとは想像もつかないだろう。見れば見るほどいい子だと感じ、確かに玄暉が惚れるほどの魅力の持ち主だった。


「実は入学したときから、気づいてたんだけど。ひょっとして柳原も俺のこと気づいてた?」


佳純は申し訳ない表情をした。


「ゴメン。私、人のことをあまり覚えられなくて…」


「えっ?謝らなくても!もちろん、そういうこともあるさ。俺たち卒業して何年も経つし…。実はさっき、会ってすぐに知り合いのフリをしたかったんだけど、いざ声をかけてみたら照れくさくって」


満が額を掻きながら言うと、佳純は「あぁ。そうなんだ」という短い返事をし、またそばをすすった。口に合ったようで、彼女はそばを食べることに集中していた。満の目に奇妙な光が漂っていた。


ここに誰かを連れてくるのは初めてではなかった。しかし、彼らの反応は皆一緒だった。ここで食事をするのが気に入らないというように、苦虫をかみつぶしたようだった。だから佳純もやはり同じだろうと思っていた。だがそれは、自分とはかけ離れた家に生まれ育ったのだから、しかたない。しかし、彼女は気まずいほどに、むしろとてもおいしいと満足そうな顔をして食べていた。


「柳原って彼氏いるの?」


満が一種の身辺調査の意味で質問を投げると、佳純は恥ずかしそうに笑って答えた。


「いないけど」


佳純の口から望んでいた答えが出てくると、満が何かを期待するような目で尋ねた。


「じゃあ、どういうタイプが好きなの?」


「タイプ?」


佳純がどうしてそんなことを聞くのかという表情をすると、満は肩をすくめた。


「何となく。気になって聞いただけ」


とぼけた答えに佳純は少しためらって、ゆっくりと口を開いた。


「そうねぇ…そういうの一度も考えたことない」


「考えたことないって?理想のタイプとかそういうの?」


「特に関心なくって…」


満の頭の中に一つの単語が浮かんだ。「赤い糸」。人生で異性を意識したことがなかった2人がこうして運命のように出会うとは。これよりもっといい縁があるだろうか。その考えに満は思わずニヤニヤしてしまった。


「ごめん!突然おかしなこと思いついちゃって」


しばらくクスクスと笑っていた満は、自分をじっと見ている佳純の視線を感じると、申し訳ないというように手を振った。最初とは違い少し和らいだ雰囲気に佳純は手に持っていた箸を置くと、気になっていた質問を満に投げかけた。


「玄暉くんと友達なんだよね?」


「うん。幼いころからの友達なんだ」


「そうなんだ…。羨ましい」


「なにが羨ましいって?」


「親友がいるってこと。私は連絡したりする友達が一人もいないんだ」


彼女の最後の言葉に満の顔から笑みが消えた。恵まれた環境に生まれ、大勢の人に囲まれて愛情だけを注がれて育ったと思っていた財閥のお嬢様が、連絡を交わす友人が一人もいないという事実が意外で、ショックを覚えた。


言われてみれば、高校の時も女子たちとは仲良くなれず、いつも一人で机に向かって座っていた姿がふと彼の脳裏に浮かんだ。


当時は少しだけ子役として活動をしていたため、学校にはあまり通えず細かい事情は分からなかったが、明らかに何かがあるように見てとれた。詳しく聞いてみようかと悩んでいた満は、あえてつらい記憶を思い出させる必要はないと判断し、明るく笑って別の言葉を投げかけた。


「じゃあさ、今から俺たちと仲よくなればいいんだよ」


「えっ?」


満はいたずらっ子のように顔をしかめた。


「そうでなくても、男だけでつるんでるのにうんざりしてたんだ。よかった。学校も同じだからこれからは俺たちと遊ぼうぜ」


「本当に…いいの?」


佳純が慎重に聞き返すと、満が彼女にすぐに手を差し出した。


「携帯貸して」


携帯?佳純は首をかしげながら、カバンの中から携帯電話を取り出すと彼に渡した。すると満が自分の番号を入力して彼女に返した。


「これからヒマだったり、大変なことがあったら、いつでも電話して。あ!俺がもし電話に出られなかったら玄暉に電話してもいいし」


佳純は面食らった表情で携帯電話を触っていた。


「あ…うん。ありがとう。本当に」


満はテーブルの上に頬づえをついて心から嬉しそうに佳純の顔をじっと眺めた。実は玄暉が単純に顔だけ見て好きになったんじゃないかと思っていたが、彼女には思ったより興味深いところが多かった。


見れば見るほど純粋で気さくだった。自分の周りにいた気が強く、偉そうな女たちとは違っていた。確かに並々ならぬ魅力があった。


玄暉のやつ、女を見る目があるな。


女性に関してはバカで、もしかして将来ずる賢い女性に引っかからないか、心配していたが、そんな思いは一瞬にして消えていった。柳原一樹会長の娘であるだけでなく、美人で性格までいい佳純なら玄暉の相手として悪くない。むしろ、もったいなくらいだと感じるほどだ。


「これからよろしく。俺も高校の同級生で知ってるの、柳原だけだから」


こうなったからには二人をくっつけるつもりだ。満は「玄暉のこと頼んだぞ」という意味で握手を交わした。佳純はすこし弾んだ表情で手を掴んだ。


「うん。よろしく」



 

* * *



 

隼人は今日に限ってどこか鋭い気配が歴然と見えた。彼の姿に気まずくなった中年の男性はそわそわしたまま、隼人の手に握られた書類にしきりに目をやった。


この国の財界で上位圏にいる紅海グループが推進する文化コンテンツ事業がスタートして以来、中年の役員は目の前に座っている隼人の推進力に怯えるほどだった。昼夜を問わず食事も取らずに仕事をするため、彼の顔は青白いほどだった。


若い上司のこのような情熱は見習って当然だが、そのおかげである程度の地位について休みながら仕事をしていた彼らにも余裕が見られなくなってしまった。そのうえ、定年退職までの日数を数えるほどだった。


「お話しした計画案はいつまでに準備できますか?」


書類を検討した隼人が尋ねると、彼は曖昧に言葉を濁した。


「そうですねぇ…」

隼人の目つきがいっそう冷たく変わった。しかし、中年の男性は気にすることなく不満顔で無駄に咳払いをした。隼人の口元が徐々に上がっていった。


定年まで優遇を受けながら会社に通うつもりだと?理解はできる。ある程度の地位に就いて会社の重要な決裁も行ってきた彼らが、若造に企画案を持っていかなければならないとは、誰が気に入るというのだ。それが嫌なら会社を去るまでだ。


「菅田(すだ)役員」


「はい」


「お子さんはいらっしゃいますか?」


菅田はすぐに答えた。


「大学生の息子が一人おります」


「就職活動はそろそろですか?」


「そうですが…」


「息子さんのように若く能力のある人材のためにも、不必要な人員はリストラし、新入社員の人数を大幅に増やしたほうが会社にとっても利益がある…そう考えたことはありませんか?」


菅田は隼人の言葉に上気した顔で奥歯をかみしめた。感情がぐっとこみ上げてくるのを感じた。ひと言で言えば、クビになりたくなければ、ひれ伏せという圧迫だった。


息子と同じような年の上司から屈辱的な言葉を聞いていると、押し寄せる羞恥心に指先がブルブルと震えた。人生を捧げて働いてきた会社から、今になってこのような扱いを受けるとは。すぐにでも反論したかったが、そうすることはできなかった。


目の前の男は紅海グループの唯一の後継者として嘱望される人物だ。この全ての状況にどうにかして耐えるしかなかった。


「2日以内に処理してください。息子のような年の若造にその椅子を奪われたくなければですが」


菅田はだらりと肩を落として答えた。


「わかりました…」


「下がっていいですよ」


隼人の言葉を最後に菅田は書類をまとめて、部屋の外に出た。


バタンという音と共に彼の姿が見えなくなると、隼人は押し寄せるストレスに首筋を触った。必死で働いたせいで、とりわけ感情のコントロールができなかった。

疲れた。しきりに襲ってくる否定的な考えと雑念を消すために、休みなく働いてきた時間が次第に長くなると体がますます壊れていくのが感じられた。


―専務、お母様がお見えです。


少し目を閉じようとしていた隼人は、玲香の報告に目の前の時計を見た。


PM 9:15


特に夜は忙しい恵子が、自分に会うためにこの時間に来たということは、理由は一つだ。家では話せないことか、頼み事があるのだろう。隼人は指でこめかみを押さえながら言った。


「どうぞ」


カチャッ


隼人の言葉が終わるやいなや、酒に酔ってうつろな目をした恵子が部屋に入ってきた。隼人は部屋を覆い尽くすアルコールのにおいに目をしかめた。

 

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