第14話
14.
いつもは誰よりも堂々としていて優雅な姿の恵子は、夜になると虚栄心が強く遊興を楽しむ女性に変身する。ことの始まりはいつだったのか、またどういう理由だったのか隼人は誰よりもよく知っていた。そのため、毎回繰り返されるこのような状況でも誰よりも自分の母親を理解しようと努力していた。しかし、このところ頻繁になった分別のない彼女の行動に隼人の我慢も少しずつ限界に近づいていた。
「隼人~!」
「座って」
愛嬌を含んだ声で隼人に近づいてきた恵子は冷たい反応に固まった。
「自慢の息子が今日はご機嫌斜めなの?」
「何の用?」
隼人の事務的な態度に恵子は眉間にしわを寄せた。見れば見るほど、ひどい夫にそっくりの息子だった。時々チラリと見せるあの冷たい目つきに向き合うときには、自分が憎悪をしてやまない夫が浮かび、はらわたがひっくり返るくらいだった。しかし、夫とは違い彼は心から愛する自分のたった一人の息子だ。この家に存在する唯一の肉親。
「お願いがあるの」
隼人の隣に座った恵子が口を開いた。
「どんなこと?」
「今度レニーの小説が原作の映画を作るんでしょ?」
隼人は疲れた表情で深くため息をついた。
「だから何?」
「江澤智朗(えざわともろう)って知ってる?最近人気の俳優の」
まさかとは思ったが、やっぱりかと思うと隼人の瞳が暗くなった。しかし、恵子は彼の気持ちも知らずむしろ浮かれた表情で隼人のそばに近づき話を続けた。
「その作品の主人公にどうかなって」
「母さん…」
「人気もあるし、お母さんもあの小説を読んでみたんだけど、主人公のイメージにピッタリ…」
「母さん!」
隼人が荒々しくネクタイを解きながら声を荒げると、彼女は呆然とした顔つきで話を止めた。疲れて充血した両目に力を入れたまま隼人は恵子を睨んだ。
「今回は…そいつですか?」
愛情不足。おそらく自分の母親を表現するのに最も適切な言葉なのかもしれない。城のような家に住みながら、夫の愛情を一度も受けたことのない不幸な女性だった。
花菱(はなびし)物産の末娘として大切に育てられたが、父と政略結婚した後は、一瞬たりとも幸せを感じたことがないことを誰よりも分かっていたので耐えた。
その長い年月を。彼女の息子として生まれてきたため、愛する母のために、どんなことでも理解し何でも与えてきた。しかし、それが少しずつ彼女を壊すことになるとは全く気づかなかった。
「隼人…」
「考えてみるよ」
隼人は諦めたように視線をそらして答えた。彼女は満足げに微笑んでいた。
「ありがとう」
「もうこれで…。家に帰って」
息が詰まった。まぶたが痙攣し、こめかみがひんやりした。隼人は自分の顔色を伺っている母親に、残っている力を振り絞って微笑みかけた。すると少し安心したように、ソファーから立ち上がると恵子は自然に息子を抱きしめた。
「それじゃあ、私は帰るわね。あまり遅くならないで」
「わかった」
恵子は振り向きもせず部屋の外へ出て行った。彼女の姿が視界から消えると、隼人はもどかしさを吐き出すように深く長い息をした。
唯一感じていた小さな幸せも薄れていくほど、このところ耐えられないほどの憂鬱と喪失感を感じていた。
「車を回してください」
無愛想な彼の声が受話器を通して流れた。冷たい静寂、窓の外をじっと見ていた隼人の目つきには得体の知れない微妙さが垣間見えた。
* * *
「今日は本当にありがとう」
佳純は大丈夫だと断ったにもかかわらず、家まで送ってくれた満に感謝の気持ちを込めて挨拶をした。それに応えるかのように、満も明るく笑うと彼女に向かって大きく手を振って見せた。
「楽しかったよ!今度はビックリするくらい凄い、おいしいお店に連れていってあげるから期待してて」
「うん。わかった」
「じゃあな」
佳純は部屋に向かうようにと手を振る満を最後に振り返り、マンションへ向かっていった。今まで友達と出会う機会がなかった彼女にとって、今日のことは楽しい思い出に残るはずだった。
満の話に思いっきり笑っていると、これまで溜まっていたストレスが少しずつ解消され気持ちが楽になった。こうして今日の出来事を思い出していた時だった。佳純はエレベーターの前に立っている隼人を発見し、その場で立ち止まった。
「知り合いの男が、こんなに多いとは知らなかった」
「お兄ちゃん…?」
佳純は思わず後ずさりしていた。いつからか自分と向き合うときは癖のように現れる彼女の行動に、隼人は努めて超然とした目つきで口を開いた。
「お前を取って食うとでも思ったか?」
「こんな時間に…どうして来たの?」
隼人は佳純の質問に冷笑を浮かべた。幽霊でも見たように距離を置く彼女を前にしていると、どれだけ胸が痛むか、苦笑いするほどだった。苦しい心臓がむかむかしたが、彼は努めて話した。
「一緒に食事をしようと思って」
食事?佳純は首をかしげた。時間も遅く、いつもと違って疲れて果てたような姿が、見慣れないと感じた。何かおかしさを感じた佳純はゆっくりと隼人に近づいた。
「何か…あったの?」
普段から突然訪ねてくることはあったが、今日のように部屋の前で待っていることはなかった。それも真っ青な彼の顔は誰から見ても具合が悪そうだった。
「体調でも悪いの?」
「いや」
「でも、お兄ちゃんの顔…」
隼人は切ない表情で佳純の腕を掴むと自分の胸に引き寄せた。
「あっ…」
一瞬の出来事だった。佳純は火照った顔で、力を込めて隼人を押そうとしたが、そうすればするほど隼人はさらに強く抱きしめた。鼻をくすぐる彼の香水の香りに反応し、彼女の心臓が激しく鼓動を始めた。
「お兄ちゃん!どうしたのよ?」
佳純は誰かに見られないか、気を揉んで目を丸くすると辺りを見回した。その時、ふと彼女の耳に隼人の低い声が飛び込んできた。
「腹が減った…」
佳純は慌てて彼を振り返った。
「なに…?」
いつもと違う行動。佳純は自分を捕まえている腕の力が徐々に抜けていくのを感じた。
「腹が減ってるんだ…」
重く沈んだ声。
「飯を作ってくれ…」
佳純を抱きしめていた彼の目がゆっくりと閉じていった。
カチッ、カチッ。静かな部屋の中で聞こえるのは時計の音と食器がぶつかる音だけだった。佳純は黙って夕食を食べている隼人をじっと見つめていた。最近、何かあったのだろうか。そうでなくても小さい顔が、もうすぐ消えて無くなりそうに見えた。そして、一重で切れ長の目はさらに深くなり、何故だか視線をそらすことができなかった。
「学校へはちゃんと行ってるか?」
日常的な彼の質問に、佳純は食卓の上に置かれた水を一口飲んで答えた。
「うん」
「あいつにも、よく会ってるのか?」
吹き荒れるように続く隼人の質問に佳純は不満そうな表情で語尾を上げた。
「あいつ…?」
「お前に靴まで買ってくれた奴のことだよ」
佳純は鋭い彼の声に返事をせず、料理を口に入れた。静かに過ぎればいいのだが、佳純の願いとは裏腹に隼人は質問を続けた。
「これからも会うのか?」
「お兄ちゃん」
「会うのかって聞いてるんだ」
隼人は「会わない」という答えを聞けば気が済むようだった。佳純は困った表情でかろうじて答えた。
「だって…友達だから…」
「だから?」
隼人が箸を置いて聞くと、食事をいじくっていた佳純の表情が歪んだ。答えを促す隼人の目つきに、彼女も今回は引き下がるつもりはないようで、断固とした顔で話した。
「友達だから会ってもいいじゃない」
「あいつもお前のことを友達と思ってるかな?」
「お兄ちゃん!それは…」
「もういい」
隼人が冷たく話を終えると、佳純の肩は縮こまった。瞬く間に押し寄せる静寂。しばらく佳純と視線を交わしていた隼人は椅子から立ち上がると、横に掛けていた上着を取った。
突然の状況に途方に暮れていた彼女が急いで立ち上がった。
「もっと食べていって」
佳純の言葉にも隼人は振り向くことなく歩いていった。そわそわとしていた佳純は玄関のドアの前で立ち止まる隼人に続いてその場に立ち止まった。
「一度だってお前のことを…妹だと考えたことはない」
隼人の顔が徐々に暗くなっていった。
「何も知らないような顔で俺に接するな。お前があえてそうしなくても十分に分かってるから」
最初から知っていた。お互いの気持ちが交錯したが。
「ごちそうさま」
隼人の後ろ姿を見えなくなるまで佳純は見守った。彼女の目は混乱が絡まっていた。食い違い始めた関係が取り返しのつかないものになってしまったのだ。
それが胸を切り裂くように痛みを与え、現実を直視させた。心臓が狂ったように動き出した。結局忘れようとしていた感情が今にも吹き出しそうでぎくりとした。
「俺は確かに警告した…この線を越えるなと」
隼人に初めて会ったあの日の記憶が彼女の頭に浮かんだ。強烈な初対面。
あの時あんなことしなければ…
佳純がうずく心臓を掴むと片手を壁についた。最後まで解決できなかった問題。冷たい静寂だけが舞い降りた部屋の中でいつの間にか彼女の愚痴だけが響いていた。
* * *
バルコニーに置かれた木製の椅子に座り、玄暉はぼんやりした表情で空を見上げていた。透明で青い空の上にぷかぷかと浮かんでいる雲が、過去のことを描きながら流れていった。
異母兄妹…。頭の中を埋め尽くした考えに彼の表情が変わった。
「腹違いの兄妹なのよ。母親が違うの」
数日前に編集長と食事をしたとき、ふとパーティでの出来事を思い出し聞いてみた。「もしかして二人は兄妹じゃないの?」という原始的な質問を。このような疑問がわいてくるような状況だった。あの時のことを掘り返して考えてみるとだ。
全身を刺すように自分に向けられた隼人の目つきは、妹を守る実の兄の姿ではなく、まるで恋人を奪っていく天下の悪党を見るようだった。ひょっとしてと思い、隼人がシスコンなのかという質問までした。
その時に返ってきた編集長の答えは「特に妹を気に掛けているようだ」という不確実な言葉だけだった。そこで冗談半分に実の兄妹かという質問までする事になったのだが、返ってきた答えが異母兄妹だった。
今になって思い返すと、ただ仲のいい兄妹というには、おかしな点が一つ二つではなかった。
「うわあっ!!玄暉!!何を考えてるんだ!!」
そうだ、いくら異母兄妹といっても父親が同じじゃないか。だから誤解かも知れないひどい想像は慎まなければならなかったが、頭の中にその時のことがしきりに描かれた。迷惑そうな隼人の冷たい目つきに、再び考えても心が歪むほど気分を害した。
「しかりしろ。仕事しろ。仕事!」
全てを忘れようと、飛び起きた玄暉は紙の散らばっているリビングに入っていった。仕事をするときは少しのスランプもなく、かなりの集中力で大量の作業を魔法の杖を使うように苦労せずやってきた。
まるで生々しい場面を目撃したように、頭の中の多様な素材のアルバムをめくりながら難なくストーリーを作る出す自称有能な作家だったが、このところは思いどおりに書けなかった。
いや、福袋のようだった頭の中のアルバムが、ある瞬間から単調に流れていった。しきりに思い出すある女性の顔。そうして自ずと顔をしかめる悪魔のような男。おかしくなったに違いない。
「もうやめだ!これ以上は考えない!」
玄暉はズキズキとする頭を叩きながらソファーの上にどかっと座り込んだ。ニャーという声と共に横で両足をまっすぐ伸ばしたまま寝ていた猫を見つけた玄暉は、呆れたように虚しく笑った。
猫をあと数日見て欲しいと編集長に頼まれたのだ。しかし、家に動物がいることが好きではない玄暉にとっては、目の敵のような猫が煩わしかった。
「あっち行けよ」
玄暉が隣にいようがいまいが気にもせず平和に横になっている猫に意地悪な気持ちになった。彼はソファーから降りろというように思い猫の体を指でつついた。最初は反応がなかったが、数回つつくと猫は体を起こしソファーから降りた。
「そうだ。そこがお前の居場所だ」
普段なら彼に首筋を掴まれて無理やり追い出されたはずだが、ずる賢い猫は状況を把握し、玄暉の足元に落ち着いた。
玄暉はソファーの上に仰向けになった。ぼんやりと天上を認めていた彼の目が徐々に閉じていった。落ち着いた心で先延ばしにしていた甘い眠りに落ちようとしていたその時だった。
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