第15話
15.
玄暉は唇を押さえつけるむにゅっとした感触に、素早く目を開けた。唐突に猫が鋭い目つきで見下ろしながら、ふっくらとした片方の足を彼の口に乗せていたのだ。
「おい、こいつめ…!」
彼は驚いて口をはたきながら、ソファーの下に降りる猫を睨んだ。そういえば、こいつの目つきや憎たらしい行動がある人物を思い起こさせた。玄暉は顔をしかめながらテーブルの上の携帯電話を取り、短縮番号を押した。
「どこですか?」
不快感が彼の口調に表れていた。
―ちょうど電話しようと思ってたのよ。私たち通じてるのね!
「今、冗談言うような気分じゃないんです。猫はいつ連れて帰るんですか?」
―ジュン?あぁ!すぐに連れて帰るわ…。そんなことより
「はぐらかさないでください。今日にでもすぐ連れて帰ってください。そうじゃなければ野良猫の巣窟に投げ捨てるかもしれませんよ」
―そんな!ジュンが聞いたらどうするの!そんなこと言わなくても明日連れて帰ろうと思ってたのに!
「今回は本気ですよ。明日、あの行儀の悪い猫を絶対に連れて帰ってください!」
玄暉はいつの間にか平和そうに自分の足を舐めている猫を見てうなり声を上げた。
―わかったってば!あっ、ところで明日空けといて
玄暉の顔に不安の色が映った。
「どうしてですか?」
―城野(じょうの)監督って知ってるでしょ?今度、あなたの映画を演出する
編集長の言葉に玄暉の表情が急激に固まった。
―聞いてる?
「はい…」
―明日、今度公開される城野監督の映画の試写会があるから、必ず参加するのよ。今日バイク便で招待券送るから
「編集長」
―その呼び方やめてよ。何があっても参加して!監督はあなたが来るってどんなに楽しみになさってるか知ってる?試写会の招待券だって監督が直接送ってくださったのよ
編集長が断れないように話をもってきたので、玄暉の頭は熱くなりズキズキと痛んだ。
「行けないってわかってますよね」
―玄暉!あんたって子は!
「そうじゃなくて…」
―言い訳はいらない!絶対に参加しなさい!来なかったら縁を切るからね
「叔母さん!」
―そう。私はあなたの叔母なのよ。これから先、時々関わるだけの縁にしたくないなら、私の言うとおりにするのよ
「僕の話を…」
―切るね
プツ。話も聞かずに一方的に電話を切った編集長の態度に、玄暉は呆れた顔で携帯電話をテーブルの上に投げつけた。
いつのころからか、玄暉を外の世界に連れ出そうとする編集長の行動が、なかなか理解できなかった。だが彼は振り返って考えることさえ面倒だというように、ソファーの上に横になった。明日のことを今日心配するほどの余裕が彼には残っていなかった。
こうして無気力にぼんやりと天上を眺めていた玄暉は寝返りを打つように体を横に向け、ふとカレンダーを眺めた。そういえば、明日は土曜日だ。
「用事…あるかな?」
いつもなら週末だといって特別な考えはなかったが、今この瞬間には嘘のように佳純の顔が浮かんできた。訳もなく彼女が何をしているのか気になった。玄暉は何かに導かれるように、放り投げた携帯電話を手にした。
「柳原佳純」。ためらうことなく通話ボタンに向かった指がピタリと止まった。もしかして重たく取られないだろうか。しばらく悩んでいた玄暉は決心でもしたかのように目に力を込めて通話ボタンを押した。
―もしもし?
しばらく呼び出し音が鳴ってから、とても聞きたかった佳純の声が受話器越しに聞こえてきた。玄暉は全身を包み込む緊張感に、乾いた唾を飲み込むと、ゆっくりと口を開いた。
「久しぶり。元気だった?」
* * *
いつものことではあった。頭の中を支配するストリーによって目の前が真っ白になり、世の中が止まったように自分だけの世界に入り込むことがあった。
そんな時は瞬間移動でもしたように、公共交通機関を使ったことや、どの道を通ってきたのか分からないまま、目的地に着いていることが一度や二度ではなかった。今日も同じような状況だった。
まるで夢でも見たかのように、思いっきり着飾って、あれだけ嫌がっていた試写会のチケットを手に映画館の前に立っている自分の姿に気づいた時は、本当に幽霊にでも取り憑かれたのかと思った。
試写会の招待券があるんだけど、一緒に行かない?
確かに玄暉の口から出た言葉だった。極度の緊張感と佳純にまた会いたいという考えに包まれ、思わず出た言葉だった。幸い、佳純は彼が懸念していたのとは違い、快く誘いを受けてくれた。玄暉はうれしさと同時に押し寄せてくる心配に、ソファーの上に転がった。
もし試写会の会場で自分のことを知っている人に偶然会ったらどうしよう。編集長はもちろん、出版社の関係者もみんな来るはず。彼らを上手く避けることができるかという心配で頭が痛かった。
ところがそんな考えは長く続かなかった。すぐに頭の中は佳純のことでいっぱいになり、そんな心配など何でもなくなってしまったからだ。
「早く来すぎたかな…」
約束の1時間前に到着した元気は、チラッと腕時計を見つめ、唇を噛んだ。こんなに焦ったことなんて今まであったか?普段はどんな緊迫した状況でも冷徹で淡々としていた自分の姿が、もしかしたら嘘だったのかと疑うほど緊張していた。
口の中がひりひりと燃え上がり、余計な勇気を出してしまったのではないかという後悔まで押し寄せていた。しかし、しばらくして人ごみの中で佳純を見つけた玄暉は、緊張が緩んだかのように明るい笑みを浮かべた。まるで天使でも舞い降りたかのように、ヒラヒラとしたワンピースを着た佳純の姿に、玄暉の胸はどきどきし始めた。
「久しぶり。元気だった?」
「うん。もしかして、待たせちゃった?」
「全然!僕も今着いたとこ」
自然に挨拶をした元気は、躊躇なく押し寄せるぎこちない雰囲気に気づいたように、ポケットから一枚ずつ試写会のチケットを取り出した。
「知り合いからもらったんだけど、君が好きかどうかわからない」
佳純は小さく微笑んだ。
「私、映画なら何でも好きよ…」
「そう?それならよかった」
「ところで、何ていう映画?」
彼女は劇場に入るやいなや訪ねると、玄暉は緊張した表情で周りを見回して答えた。
「再生っていう…城野民生(たみお)監督の映画なんだけど。知ってる?」
佳純は期待に満ちた目でうなずいた。
「うん。この監督の映画は絶対に観たかったの…」
佳純の反応に玄暉は首をかしげた。城野監督はドラマのプロデューサーで、今回初めて映画監督としてデビューするので、知らないと思っていたが意外とよく知っている佳純の言葉に疑問を抱かざるを得なかった。
「城野監督のドラマが好きだったの?」
ドラマで有名になった監督なので、もしかしてという思いで質問したが、佳純は首を横に振った。
「ううん。レニーの作品を撮った監督だから」
レニー?思いも寄らなかった言葉に、玄暉はしばらくぼうっとした。後頭部を殴られたように、玄暉の顔から瞬く間に笑顔が消えた。ひょっとして聞き間違えたのかと思い、玄暉は確認するように聞き返した。
「レニー…?」
「うん。レニーの作品は全部好きなの。特に今回映画化する『メビウスの帯』がね」
「あ…そうなんだ」
「玄暉くんもあの小説読んだ?」
佳純の目は期待と興奮で輝いた。初めて見る姿。玄暉は溢れんばかりの感情にどうすればいいか分からなかった。妙な気分で彼の顔がときめきと喜びで赤くなった。
「玄暉くん?」
「あ、あぁ!僕も好きだよ。レニーの作品」
言葉では表せないほど胸が強く鼓動し始めた。小説を書いて以来、今日ほど自分がレニーであることに感謝したことはなかった。ただ自己満足のために書いてきて、むしろ小説が有名になって出版したことを後悔したこともあったが、今日のようにあの時の決断に感謝することはなかった。
嬉しかった。世の中の誰よりも佳純が自分の作品を好きだということが、嬉しすぎた。玄暉は必死に感情を隠すために淡々と振る舞った。しかし、しきりに唇から笑みが漏れそうで、彼は突然手に持ったチケットを佳純に渡すと、背を向けた。
「もう時間だ。早く入ろう」
何だかわからない縁のように感じた。初めて会ったときも、2回目、3回目に会った時も、深い縁で結ばれていると強く感じた。振り返ってみると、実は些細なことばかりだが、会えば会うほど、それさえも特別な何かがあると感じた。
「そうね」
玄暉は映画のポスターを見ながら答える佳純をちらりと見た。まだ佳純と一緒にいるということが信じられなかった。彼女をじっと見つめていた玄暉は、自分に向けられる佳純の視線を避けることができなかった。
「どうしたの?」
気まずい沈黙。背中に流れる冷や汗を感じた。どうして馬鹿みたいにじっと見つめたのか、ひょっとして変に思われるのではないかと思い、ありとあらゆることを考えた。玄暉はなんとか話の糸口を探すため、口角を上げて口を開いた。
「今日は本当にきれいだね」
佳純は目をぱちぱちさせながら玄暉をぼんやりと眺めた。玄暉の額に冷や汗が吹き出した。
「あ、いや…。だ、だから…。トイレに一緒に行く?」
佳純は一瞬立ち止まり、玄暉の唇は真っ青に変わっていった。このぎこちなさはいつまで続くのか、どうしてこの状況で彼女とトイレに行きたいのだろうか?玄暉の全身は真っ赤になった。なぜ突拍子もないことを言ってしまったのかと、虚しさが押し寄せてきた。
確かに頭の中では「ポップコーン食べる?」という単純な質問を考えていた。ところがトイレのマークを無意識のうちに見たのか、彼の口は目に見たものそのまま言葉に出してしまった。
「あ…私は大丈夫。トイレに行ってきて。ここで待ってるね」
どうやってこの事態を収拾すればいいのか分からず、そわそわしていた玄暉の耳に佳純の笑い声が聞こえた。彼は押し寄せる恥ずかしさに急いで劇場に向かった。
「このまま入ろう」
「大丈夫、私のことは気にしないで行ってきて」
「そうじゃなくて…」
「早く行っておいでよ」
行ってこいと手を振る佳純の姿に、玄暉は仕方なくトイレに行くしかなかった。初めてのデートだけにロマンチックなことだけを考えていたが、そのような願いが色あせるほどおかしな印象を残してしまい、自分自身が情けない。
「もう!トイレの前では写真を撮らないって言ったでしょ!」
肩を落としてトイレに入ろうとした玄暉は、一瞬人々のざわめきに足を止めた。彼の視線に見慣れた女性が見えた。サングラスをかけた派手な身なりの女性は高校生くらいに見える男性2人と対面していた。
「僕の弟が本当に藤川花恋(ふじかわかれん)さんのファンなんですよ。ここにサインでもしてもらえませんか」
「まったく!私はこんな安い紙にはサインしないって言ったでしょ。マジで何なのよ?」
苛立ち混じりの声。高さのあまり、空を突き破ってしまいそうな高慢な表情と態度。一気に視線を引くその女性は、明らかに自分があまりにもよく知っている人物だった。玄暉は全身を包み込む寒さに素早く振り向いた。
「どうしたの?」
その場を避ける前にトイレの外に出てきた男の声に、花恋の視線が一瞬玄暉のいる方向に移された。背筋がひんやりする気持ちで、玄暉は前だけを見て歩き始めた。
彼女に気づかれていないかと心配で、彼の胸はどきどきし始めた。試写会だけに芸能人が来ると予想はしていたが、よりによってあの女と会うとは夢にも思わなかった。
「わざと言わなかったのよ」
編集長なら、きっとあの女が来るのを知っていただろう。ところが、あらかじめ言ってくれないなんて、編集長がただ恨めしくて腹が立った。
玄暉は佳純が待っている場に戻った。彼が思ったより早く来ると、佳純はは疑問に思った。
「もう行ってきたの?」
玄暉は彼女を急かした。
「とりあえず中に入ろう」
「ちょっと!玄暉!」
その時、劇場内を響く甲高い声が聞こえた。
「あんたでしょ?左衛門玄暉?」
あっという間に彼の後を追ってきた花恋はサングラスをそっと下ずらすと、玄暉を指差した。佳純と一緒にその場を離れようとした玄暉は、振り向いて花恋に向き合った。結局こうなってしまった。最悪の状況を迎えることになった玄暉の顔に絶望の色が垂れ込めた。
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